「命をかけたのに」敗戦の喪失感 復員兵が抱えたトラウマと遺族が受け止めてきた辛苦

トラウマ 埋もれた傷痕

戦場での過酷な体験で兵士らを悩ませるトラウマ。先の大戦に従軍した日本兵にも心の病に苦しんだ人々はいたが、ほとんど顧みられず、傷痕は歴史に埋もれてきた。戦後80年を経て、なお戦争が及ぼす影響を探る。

「実名でよく恥をさらせたな」。2年前、郷里の山形県で開かれた高校の同期会。黒川安子(74)=東京都=は、友人から冷ややかな言葉を向けられた。

黒川は民間団体「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」に参加し、父について証言してきた。友人の言葉はこれをとがめるようだったが、酒が回って真意を明かした。「実は、うちのおやじも家内のおやじも同じような感じだった」

黒川の両親は旧満州(中国東北部)で結婚。父の勇蔵は昭和20年に召集された。ソ連侵攻後、母は避難途中にわが子2人を失い、単身帰国。父はシベリアに抑留され、帰国後に生まれたのが黒川と3歳上の兄だ。

「家族に冷たい人でした」。満州では子煩悩だったという父から愛情を受けた記憶はない。兄が手術で大量出血した際に駆け付けなかったのに、満州で子供を亡くした母を責めた。「何も信じられず、お金だけの人になった」と母は嘆いた。

両親は49年に離婚。人間関係が原因で職を転々とした父は、老後も孤立し、誰にも看取られぬまま平成5年に他界した。

黒川は幼いころから冷めた目で父を見ていたが、会の活動を通じ、戦場で心に傷を負った父親を持つ人々と交流する中で、ようやく気付いた。

「うちだけじゃなく、よその家も同じだった。私たちが語らなければ、実相は伝わらない」

万歳から一転「戦争ボケ」

「復員兵は少なからずトラウマを抱えていたと考えられるが、戦後の社会変化は、回復を妨げる要因の一つだった」。トラウマ研究の第一人者、甲南大人間科学研究所客員研究員の森茂起(しげゆき)(70)は指摘する。

甲南大人間科学研究所客員研究員の森茂起氏=6月23日午後、神戸市(池田祥子撮影)

トラウマの回復には周囲の共感が欠かせないが、「戦後社会は戦争を悪だとして回避する風潮があり、その結果、復員兵らは孤立感を強めていった」。森は、敗戦に沈んだ社会全体が「一億総トラウマ」の様相を呈していたとの見方を示す。

「今から戦争の話をする」。北海道の人里離れた自宅。晩酌した父は週に数回、子供たちを集めた。「僕らには嫌な時間だけど、父はとても誇らしそうだった」。森倉三男(71)=埼玉県=の少年期の記憶だ。

昭和15年、陸軍航空整備兵になった父、可盛(かもり)は「俺がいないと飛行機は飛び立たない」が口癖だった。整備した機体が次々と撃墜され、戦友を失った体験も明かした。

激戦地から生還後、鉄工所を始めたが倒産。28年、家族で開拓地に入植した。畑を耕し、麦や野菜を収穫。冬には山林伐採の出稼ぎに従事したが、一家6人の生活は貧しかった。慣れない農作業、戦地で感染したマラリアの後遺症もあった。

酒量が増え、母が工場勤務で家計を支えた。仕事もせず、軍隊時代の話を繰り返す姿に、かつて万歳三唱で戦地に送り出した世間の目は冷たく、「戦争ボケ」と呼んだ。

「恥ずかしかった」。父を慕う気持ちもあったが、多感な心は揺れた。

戦後社会から取り残された父

50年、自宅が全焼し可盛は55歳で亡くなった。森倉は高校から親元を離れたが、戦争が父の人生に影を落としたとは当時考えもしなかった。

森倉の記憶に、高価なパイナップルを食べもせず窓際に置いて眺める父の姿がある。自身が活躍した南方の風景を投影していたのかもしれない。

まじめで正直者だった父は、敗戦で一変した社会から取り残された。「お国のためと命を懸けて信じていただけに喪失感は大きく、やるせなかったんだろう」。酒量が増えたのは、貧しさから抜け出せなかったことも要因だったと思う。

ただ、苦労続きだったはずの母が父との思い出をうれしそうな表情で語る姿に自身も救われた。「父は人生の敗北者ではなかった」。今、森倉は父の辛苦を受け止めている。

弱った兵士に食らいつくハゲタカ 凄惨な戦争体験に口をつぐむ元兵士 語らない理由もある

=敬称略

池田祥子 小川恵理子

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