戦場での過酷な体験で兵士らを悩ませるトラウマ(心の傷)。先の大戦に従軍した日本兵にも心の病に苦しんだ人々はいたが、ほとんど顧みられず、傷痕は歴史に埋もれてきた。戦後80年を経て、なお戦争が及ぼす影響を探る。
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《良民六名を殺したることあり、之が夢に出てうなされてならぬ、又廊下なぞで誰かに殴られそうな気がして そっとよけて歩く》
九十九里浜に近い千葉県東金(とうがね)市の浅井病院。残された病床日誌(カルテ)が、命令で住民を殺害した罪悪感に苦しむ日本軍兵士の生々しい思いを伝える。
患者は、昭和12(1937)年に中国に出征した28歳の陸軍上等兵。山形県出身の郵便局員だった。不眠症状などで13年8月に精神乖離(かいり)症と診断され、国府台(こうのだい)陸軍病院(千葉県市川市)に入院した。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っていたとみられる。
軍は敗戦に伴い、入院患者のカルテの焼却を命じたが、院長だった軍医中佐、諏訪敬三郎は「貴重な資料だ」として保管を指示。ひそかにドラム缶に入れて埋められ、その後、現在の下総(しもふさ)精神医療センター(千葉市)に移された。その数8002人分に上る。
53年ごろから、国府台陸軍病院の元軍医少佐、浅井利勇(としお)が、カルテを運び出し、複写しては戻す作業を繰り返した。浅井は当時最新の複写機を購入し、専門の職員も雇用。15年を要して計838冊の資料を完成させ、自らが院長の浅井病院で保管してきた。
「多くの将、兵の患者さんの思いがしみじみと感ずる貴重なこのあかしを、真実を、残しておきたい」。浅井は平成12年に亡くなったが、5年に自費出版した著書で心境を明かしていた。当時を知る浅井病院職員、長沼吉宣(よしのぶ)(71)は「先生は後世に残さなければとの使命感を持っておられた」と振り返る。
カルテは、希望する患者の家族に複写して提供されるほか、研究者の閲覧も許可されてきた。
「会ったことはないが、祖父の苦悩が感じられた」。愛知県の水野昭彦(69)は8年前にカルテの提供を受けた。
祖父の正夫は現在の岐阜県多治見市出身。陶器職人で5人の子の父親だった。昭和13年に中国大陸で負傷し、翌年4月に内地に送還。療養中に自殺を図り、7月に国府台陸軍病院に入院したが、10月に35歳で病死した。約15年前、水野が仏壇を整理した際、血のりがさびた短刀が見つかった。
水野によると、正夫の所属部隊はほぼ全滅し、正夫は生き残った罪悪感を抱いていた。療養先で他の患者から「おめおめと生き残った」と言われ、症状が悪化した。
《自責の念》《自傷》《罪障妄想感を抱き常に自殺を口にす》。カルテは116㌻にわたり、症状や投薬状況が詳細に記されている。
「まじめに生きてきた人が戦場で心を苛(さいな)まれる様子が想像できる。切なくなりますよね」。水野も、カルテは祖父の「生きた証し」と感じている。
「戦争の悲惨さは語り継がれているが、元兵士らは戦場の悲惨さは語りたがらない。だからこそ生々しい声が残っているのは貴重だ」。浅井の孫で浅井病院理事長の禎之(よしゆき)(53)は重みをかみしめる。
祖父からカルテの話を聞いたことはなく、医大生のころ、祖父の書籍を通じて初めて存在を知った。禎之によると、東京・深川生まれの浅井には、関東大震災で多くの級友を失い、東京大空襲では両親や末の弟を亡くした喪失体験があった。
カルテには戦場の極限状態を経なければわからない事実が記されており、歴史的にも精神医学的にも貴重な資料だ。
禎之は、80年も前のカルテに、その状況が克明に残されていることに驚嘆する。「医師として、患者の言動をありのままに、基本に忠実に記録している。残っているからこそわかることがある」。これからも祖父の使命、遺志を守り継いでいくつもりだ。
=敬称略
(池田祥子、小川恵理子)