確かにフィジカルAIの性能を高めていくにはデータが必須であり、そのこと自体は間違いないが、前述したようにフィジカルAIでは、どのようなタイプのデータを、どのくらいの量だけ、どのような割合で用意すればよいのか、その事前学習の有効なレシピがまだよく分かっていない。本当に現場データだけが「世界市場での勝利」「プラットフォーマーとしての勝利」を意味するほどの付加価値を持つのかについては、今一度慎重になる必要があるだろう。
極論すれば、現在の下半身側でのロコモーションのように、コンピュータ上でのSim-to-realのみで実用可能なモデルを得られるようになってしまえば、現場データのような面倒なものなど一切不要となることも可能性としてゼロではない。合成データだけでモデルが実用水準になってしまうわけだ。Sim-to-realとは大量のGPUを動員してコンピュータ上で合成データ(前述ののデータである)を作ることと同義であり、現場データなど一切不要にしてしまう破壊的な威力を秘めている。中国製のヒューマノイドが華麗にダンスしたり、滑らかにカンフーをしたりするようになったのも、現場データが大量にあるから実現したのではなく、Sim-to-realにより計算資源を駆使して合成データを作り、強化学習というラベル付け不要の学習によってロバストなモデルを得られるようになったからだ2)。
強化学習で4脚ロボが低山踏破に成功、転倒もゼロ、sim-to-realが実用レベルに
強化学習ベースの4脚歩行ロボットが、スイスの山中で低山のハイキングに成功した。標高差120mほどの自然の山道を自律的に登り、頂上に到達。そのまま下山して登山口に帰ってくるまで一度の転倒もなく、1時間ほどの行程を人間の手助けなしに安定的にこなした。
Sim-to-realは現状ではシングルタスク向けの傾向が強く、上半身側のマルチタスク前提のマニピュレーションにおいてはそこまで極端なことにはならないにしても、個々の企業が持つ現場データが、基盤モデルとしてのフィジカルAIの時代においてどこまで価値を発揮するかは必ずしも自明ではない。
そもそも、現場というのは日本という国に限らず世界中の国々にある。米国や中国にも産業は多くあり、欧州・アジアにもある。それらが皆、同様に現場データを持っている。「現場データが勝ち筋になる」というのであれば、それは日本だけでなく他の国々にとってもほぼ同様であり、勝ち筋という戦略にはなり得ない。「GAFAMなどのビッグテックはAI技術は得意だが、彼らは現場データを持っていない。フィジカルAIでは日本企業が持つ現場データがビッグテックに対する優位性になり、勝ち筋になる」という言説もよく聞かれる。これもやや楽観的になり過ぎた内容といえる。そもそも、ビッグテックでも米Amazon.comなどは物流の現場を世界中で数多く自社で抱えている上、そこに向けたロボットも長年自社開発しており、フィジカルAIでは極めて有利な立ち位置にいる。現場が日本だけでなく数多くの国に普遍的にあることを踏まえれば、米GoogleのようなAI技術を得意とする企業が自国企業の現場データを買い取ったり、企業ごとM&Aで吸収したりなど、何らかの形で入手してしまえば、「ビッグテックは現場データを持たない」という前提も容易に崩れる。このように簡単に前提が崩れる「勝ち筋論」にあまりに依拠するのは得策ではないだろう。
ただ、日本が製造業に強いのは事実であり、フィジカルAIのベンダーから見たとき豊富な売り先があるというのは、有利な条件にはなり得る。
Preferred Networks 共同創業者 代表取締役社長の岡野原大輔氏は、日本企業が持つ現場データがフィジカルAIにおいて「決定的な差になることは難しい」としつつ、「一方で日本は産業集積があり様々な現場データを集めやすいこと、フィジカルAIのデータ収集設計・実証先・導入先が多くあり、改善ループを作りやすいという面では(他国より)比較優位はあるかもしれない」と指摘する。
生産性向上が目的なら妥当
「自社が持っている現場データに大きな価値があり、それが勝ち筋になる」という言説は、実はユーザーとしての立場であれば間違いではない。基盤モデルとしてのフィジカルAIは、ChatGPT momentを迎えた後であっても、タスク空間上での性能の分布は均一ではなく、凸凹になる。基盤モデルを以てしても実用水準にわずかに満たないタスクが自社業務であったとき、そのユーザー企業が持つ現場データを活用し、その「満たない凹み」を是正して実用水準を超えるようブーストできるからだ。特にその企業特有の業務、独特の慣習に基づいたような業務であれば、いくら強力な基盤モデルでもzero-shotで対応するのは難しく、その企業が持つ独特のデータが、足りない最後の1%や0.1%を埋めるのに必要になる。ブーストは必ずしも再学習のみとは限らず、これらの現場データを外部データベースとして用意し、そこに基盤モデルとしてのフィジカルAIがアクセスして参照する「RAG(retrieval-augmented generation)」のような形態もあり得るだろう。大規模言語モデルにおいても、基盤モデル単体での知識やzero-shotでの対応が難しいケースでRAGがよく用いられるのと同様だ。
ユーザー企業というのは、自社内の業務が効率化できれば良いのであり、自社業務の生産性向上を通して利益率を改善することを「勝ち」と解釈するのであれば、「現場データが勝ち筋」というのは正しい。また、日本中の様々な企業現場が、こうした基盤モデルの「満たない凹み」に遭遇した際、自社が持つ現場データを生かせれば、日本全体での生産性向上に寄与するだろう。東京大学大学院 教授の松尾豊氏の研究室は、フィジカルAIではないものの通常のAIを日本の様々な現場に導入することで、日本の実質GDP成長率を最大1.6%ポイントほど押し上げる効果が望めると試算している3)。フィジカルAIでも似たような効果を望めると考えられ、そうした経済成長の効果を「勝ち」だと解釈すれば、確かに「日本の現場データが勝ち筋」というのも真理ではある注3)。
しかし、フィジカルAIのベンダーとしての観点では、この「現場データが勝ち筋」論が成立するかはかなり怪しい。なぜなら、特定の企業1社が持つ現場データは、いくら幅広い事業領域・生産現場を持つ大企業・コングロマリットであっても、タスク空間上でみたときどうしても「狭い棒」に近いものになってしまいがちだからだ。将来の理想的なフィジカルAIというのは、特定のユーザー企業1社の業務を満たすのではなく、幅広い業種の幅広いタスクをfew-shotやzero-shot、最小限の追加設定で適合するものになる。そうした横幅の広い基盤モデルとしてフィジカルAIを開発しようとする際、事前学習としても幅広い多様なデータが必要になる。ユーザー企業が持つ現場データはその企業内の狭い棒の中の業務において、最後の足りない1%を押し上げるのには役立つだろうが、そうしたナローバンド的なデータは、基盤モデルのベンダー視点ではブロードバンド的にならず「大きな価値がある」とは言いづらい。ないよりはあった方が良いが、あくまで膨大な事前学習データのピースの1つでしかなく、世界級のプラットフォーマー・ベンダーになる上で勝ち筋となるような「必勝のデータ」とは言いにくい。
しかも、そのユーザー企業の現場データに、その企業特有の慣習、独特の業務が含まれていた場合、それがベンダー側での事前学習を通して他の企業や他の業界に役立つことは考えにくい。役立つどころか、その企業の業務の独特さによって、基盤モデルとしての汎用性を損なう可能性すらあるかもしれない。日本全体でこうしたデータを集約し、束ねることができれば横幅が広がり価値は出て来るが、データの共有には慎重な企業も多い。
古いAIの言説が影響か
「日本の現場データが勝ち筋」という言説が出現しやすいのは、過去にAIについて言われていた言説の影響もありそうだ。ロボット用のフィジカルAIではないが、ディープラーニング技術が勃興した10年ほど前は、現在の基盤モデルのような幅広いモデルはまだ存在せず、「精度が足りなければ、自社で現場データを集め、それに対してアノテーションを施してニューラルネットを再学習させると現場で使えるようになる」と言われていた(図6左から2つ目の図)。主にCNNを使った画像認識・外観検査などでそうしたことが言われていた。画像認識では「ImageNet」のような事前学習データはあったが、その幅はかなり狭く、現在の基盤モデルとは雲泥の差がある。このようにディープラーニング登場当初に言われていた言説がそのままAIの定石のイメージとして残り、基盤モデルが全盛の現在になっても、「自社データがあれば実用になる」→「自社データが勝ち筋になる」と変化していったのかもしれない。
「現場データが勝ち筋」論は、「あなたの会社は希少かつ貴重なデータを持っている。これは他国の企業は持っていない。だから、あなたの会社は世界で勝てる」というメッセージともいえ、極端になると「あなたは既に有利な立場にいるから、そのままでも勝てる確率が高い。何もしなくても大丈夫」というような形に拡大解釈して受け止められやすい。聞き心地がよく、抵抗なく入っていくメッセージであるがゆえに広まった面もありそうだ。「神話(myth)」のようなものといえる。
こうした日本礼賛の「現状肯定派言説」は今に始まったことではなく、以前から日本の産業界で国際競争力を議論する際、度々出現してきた「定番の言説」とも言える。神話に近い言説は「皆が言えば」「隣が言えば」それが真実かのように雪だるま式に膨らんで行きやすい。業界の幹部や重鎮がそうした発信を繰り返すと、政治家やメディアのような外側の層にもそうした言説が「専門家の見解」として浸透し、さらに神話として強固になっていく。そしていざ神話が崩壊しても、誰が最初に言い出したというタイプの言説でもなく、「皆が言っていたことだから」と責任逃れしやすい。減点主義が強い日本社会では誰にとっても都合が良く、疑問を持たれにくい便利な言説ということだ。聞き心地が良い言説は人々に心理的な安心感を与え、前向きな気持ちを作り出すポジティブな効果があるが、拡大解釈の度が過ぎると真実をゆがめ、戦略策定に悪影響を及ぼし得る。
基盤モデルは3乗で効く
基盤モデルとしてのフィジカルAIの幅の広さ(ブロードバンド的な性質)は、前述した図6のような「タスク空間」だけでなく、「業種・分野」、「販売地域・国」の面でもリターンを大きくするのに効く(図7)。
極端な予測では、フィジカルAIを搭載した汎用ロボットが2050年に自動車市場を超える約790兆円規模になるとの米Morgan Stanleyのような試算もある4)。現状の技術レベルではなかなか想像しにくいが、もし家庭内での調理や家事など現状では人が実施せざるをえないタスクを基盤モデルとしてのフィジカルAIがzero-shotで自動化できるようになれば、1家に1台となり、あり得ない話ではない。日本語の大規模言語モデルや日本向けのSaaSなどと異なり、フィジカルAIやそれを搭載した汎用ロボットは日本語という言語の制約がほとんどなく(指示を受ける部分では言語は関連はするが)、グローバル市場で販売可能な商材であり、本当にフィジカルAIがChatGPT momentを迎えられればという条件付きではあるが、TAM(total addressable market)もSAM(serviceable available market)も極めて大きくなりうる。フィジカルAIに注目が集まっているのは、こうした市場の大きさも要因だろう。タスク空間、分野、国という3つの軸を使い、「3乗」でブロードバンドさ、幅の広さを生かせる。市場はグローバル展開できても、タスク空間は狭く、分野は一業種になりがちだった非AIの既存技術とはかなり異質のスケール性を秘めている。
現在のロボットは画像や3次元などの認識部分を除けば、非AIの技術で動いていることがほとんどで、できることに限りがあり、工場・FAや物流といったごく限られた領域で普及しているのみである。導入に当たってもシステムインテグレーター(SIer)に依頼し、個別のシステム開発をしなければ使いものにならないということが大半だ。非AIでは、図6の「狭い棒」のように汎用性が低いため、個別の用途ごとに作り込まなければならず、開発費用がかさむ。コンピュータの歴史になぞらえれば、高価で一部の業種・一部の企業でしか導入できなかった昔のメインフレーム全盛時代のようなものといえる。一方、基盤モデルとしてのフィジカルAIがもし出来上がった場合、追加の個別開発はほとんど必要とせず、最小限の追加設定、現場でのfew-shotでの例示、あるいはプロンプトのみ(zero-shot)で要望のタスクを実現できることとなる。基盤モデルそのままではユーザー企業が要望する実用レベルに1%だけ足りないという局面でも、現場で強化学習によりその特定タスク向けに性能をブーストしたり(この場合、自律的な試行錯誤で学習するため、現場データを用意する必要性はない)、RAGなどの外部データベースでその企業独特の業務フロー・業務知識などをフィジカルAIが参照できるように補完したりすれば、大掛かりな追加開発は多くのケースで不要となる可能性がある。コンピュータの歴史になぞらえれば、安価で誰もが手軽に使えるPCやスマートフォンの時代のようなものだ。
こうした性質が異なる巨大な新市場の動向を占う場合、個別のシステム構築を常識・前提としてきた非AIのロボット業界の意見・知見にあまりに依拠しすぎるのは得策ではないだろう。産業用ロボットなどに代表される現在のロボット業界の知見は工場・FA領域に偏っている傾向が強い。例えば、ロボット普及のために「SIerの育成が急務」と言われることがある。基盤モデルとしてのフィジカルAIの趣旨・定義は利用に当たって大々的な都度開発を不要にすることであり、SIerの育成がボトルネックになっているようでは、それは基盤モデルとは呼びづらい。フィジカルAIを単に「物理空間で動くAI」ととらえ、基盤モデルとしての本質を軽視すると、そうした議論になりやすい。基盤モデルを既存の業務システムにうまく連携させるための開発や、ハードウエア面での一定の治具開発・インフラ側の改善などは、図3・区間Yの時代になっても必要だろう。市場自体のパイが大きくなるため、こうした部分でのSIerの業務の総量は増えることも予想されるが、非AIのロボットの現状を前提にして、基盤モデルの時代のSIerの位置付けを議論するのは不自然といえる。
ハードウエア面でも、双腕移動マニピュレータやヒューマノイドなどについては、人間が使う道具や装置、環境をできるだけいじらずにそのまま使えるようにしようというのが趣旨であり、ChatGPT momentを迎えた後はフィジカルAI側がこうした人間用の道具をうまく使いこなせるほど知的かつ高度になっているとみられる。逆にいうと、そのくらいの閾値は軽々と超えていなければ、フィジカルAIとしてのChatGPT momentは永遠に到来しないといえる。図3でいえば、シナリオBのままということだ。
特化型を汎用型が打ち負かす
フィジカルAIを基盤モデルとしてとらえた際、その事前学習の有効なレシピ・性質・役割はまだ研究レベルでよく分かっていないと述べた。