亡失曲
亡失曲(ぼうしつきょく)は、伝承の過程で楽譜・旋律・奏法・詞章・型などが失われ、演奏・上演内容を具体的に復元することが困難となった楽曲・演目を指す語である。雅楽では、近世楽書に「亡失曲名」が分類項目として見え、曲名は伝わるものの現行伝承や具体的な演奏内容を欠く曲目を整理する文脈で用いられる。
「亡失」は、一般に、なくなること、ほろびうせること、またはなくすこと、失うことを意味する[1]。亡失曲は、現行の演奏・上演レパートリーから外れた廃絶曲と重なる場合があるが、特に復元の手がかりとなる資料が乏しいものを指す点に特徴がある。これに対して、古譜や詞章などが残り、再び演奏・上演可能な形に整えられるものは復曲の対象となる。
語の範囲
[編集]日本の伝統音楽・伝統芸能では、長い伝承の過程で、戦乱、火災、制度の変化、演奏機会の減少、流派や家の断絶、楽譜・台本・口伝の散逸などにより、かつて演奏・上演されていた曲や演目が現行のレパートリーから外れることがあった。雅楽では、大きな戦乱によって楽譜が失われたり、明治時代の雅楽局による選定から外されたり、時流の変化によって廃れたりした曲や奏法が多くあったと説明されている[2]。
廃絶した曲の中には、古楽譜、故実、図版、楽器の遺物などを手がかりとして復曲できるものがある一方、曲名や由来のみが伝わり、楽譜・旋律・奏法などが確認できないものもある。亡失曲は、こうした資料の欠落が大きく、音楽的内容や上演内容を具体的に再構成することが困難な曲を指して用いられる。
ただし、亡失曲は単に現在演奏されない曲を意味する語ではない。現行伝承から外れていても、古譜や詞章などが残る場合には、復曲の対象となることがある。したがって、亡失曲は、現行曲・廃絶曲・遠楽・復曲可能曲といった周辺概念との関係の中で理解される。
廃絶曲・遠楽との関係
[編集]廃絶曲は、かつて演奏・上演されていたが、後世に伝承が途絶え、現行の演奏・上演レパートリーから外れた楽曲・演目を広く指す語である。廃絶曲には、曲名だけが伝わるもの、楽譜や詞章が部分的に残るもの、後世に復曲されたものなどが含まれる。
亡失曲は、廃絶曲のうち、特に資料が乏しく、楽譜・旋律・奏法などの内容が伝わらないものを指す語として用いられる。したがって、亡失曲は広い意味では廃絶曲に含まれるが、すべての廃絶曲が亡失曲であるわけではない。
雅楽では、明治撰定譜の選定から外れた曲目が遠楽と称された。『雅楽事典』では、遠楽について、1876年(明治9年)および1888年(明治21年)の楽曲選定に際し、現行の演奏曲目から外れて廃絶となった楽曲と説明されている[3]。遠楽は現行伝承から外れた曲であるが、古譜などが残る場合には復曲の対象となり得る。この点で、遠楽は「現行伝承から外れた曲目」を指す制度史・伝承史上の語であり、資料の欠落の程度に着目する亡失曲とは区別される。
復曲との関係
[編集]復曲は、伝承が途絶えた、または現行の上演・演奏レパートリーから外れた楽曲・演目を、残された楽譜、詞章、型付、故実、図像資料、楽器資料、関連する現行曲などを手がかりに、再び上演・演奏できる形へ整えることをいう[4]。
雅楽では、古い時代に演奏されながら現代では伝承が途絶えた楽曲を蘇らせる取り組みが行われている。国立劇場の雅楽公演では、平安時代に編まれた『新撰楽譜』をもとに、芝祐靖によって《盤渉参軍》《曹娘褌脱》《鳥歌萬歳楽》などが復曲され、演奏されている[2]。また、敦煌で発見された唐代末期ごろの琵琶譜である「敦煌琵琶譜」の解読と復曲も、芝祐靖らによって行われた[2]。
このような例では、古譜などが残っているため、現代の雅楽器で演奏可能な形に整えることができる。一方、亡失曲では、復曲に必要な資料が欠けているため、演奏内容を確定することが困難である。曲名や記録が残っていても、旋律、拍子、奏法、楽器編成、舞や型との関係などが不明である場合、復曲はきわめて難しくなる。
雅楽における亡失曲
[編集]雅楽の曲目は、長い時間の中で見直しや再編を受けながら伝えられてきた。現行の雅楽伝承は、古代・中世以来の楽曲がそのまま無変化に残ったものではなく、曲目・演奏形式・伝承主体の変化を経て形成されたものである。『雅楽事典』の概説では、今日の伝承が千年前の雅楽の姿そのものであると考えるのは誤解であり、曲目や演奏形式には多くの変遷があったと説明されている[5]。
雅楽における「亡失曲名」は、近世楽書にも分類項目として現れる。江戸時代の楽書『歌舞品目』は、尾張の小川守中が撰した雅楽の辞書的解説書であり、雅楽の用語について典拠や異説を示して注解を施したものである。同書は、楽種楽制、音律声調、楽器起原、楽器名称、曲名異同、亡失曲名、案譜法、奏楽語彙、楽曲分類、歌曲、演奏法、舞楽解説、装束、舞譜などに類纂して記述したとされる[6]。このことから、亡失曲名は、雅楽の曲名・曲目伝承を整理するうえで、少なくとも近世以降の楽書において認識されていた分類であったといえる。
明治期には、楽統整理と明治撰定譜の編纂を通じて現行曲目が整理された。1876年(明治9年)の第一回選定では管絃楽曲59曲が選ばれ、1888年(明治21年)の第二回選定では31曲が加えられた一方、三管すべての譜が揃わなかったことなどを理由に選定から外れた曲目もあり、これらは遠楽と称された[7]。
このように、雅楽では現行伝承から外れた曲目であっても、古譜や曲名が確認できるものがある。これらは遠楽や廃絶曲として扱われ、後代の復曲資料や演奏実践において参照される場合がある。これに対し、亡失曲は、曲名や記録があっても、楽譜・旋律・奏法などが確認できず、復曲の手がかりが乏しい曲として位置づけられる。
雅楽史を扱う際には、現行伝承だけでなく、小墾田舞、踏歌などの廃絶芸能、廃絶演目、歴史的事象も対象となる[5]。亡失曲の研究は、演奏内容の復元そのものよりも、曲名、儀礼上の位置づけ、楽書・目録上の記載、伝承の断絶を確認する作業として行われることが多い。
能楽・狂言における類似する問題
[編集]能楽では、現行の上演曲に対して、通常上演されない曲を「非現行曲」と呼ぶことがある。能の現行曲が二百曲前後であるのに対し、書上に載らない非現行曲は現行曲の十倍以上あるとされ、こうした非現行曲のうち、上演価値があると判断されたものを復活させることが復曲である[4]。
能楽の非現行曲は、すべてが亡失曲にあたるわけではない。詞章、節付、型付、囃子の手などが残っているものは、復曲能として舞台化される場合がある。一方で、それらが失われている場合には、検討や創作的作業を要するとされる[4]。このため、能楽においては「亡失曲」という語を雅楽と同じ分類語として用いるよりも、非現行曲・復曲能・資料欠落の問題として整理するのが適切である。
狂言でも、伝承が途絶えた演目や、通常の上演レパートリーから外れた演目が復曲の対象となることがある。能楽用語としては、復曲された狂言を「復曲狂言」と呼ぶ[4]。このような復曲狂言は、台本や伝書、演出記録などが残る場合に成立するものであり、資料が失われた演目とは区別される。
歌謡における類似例
[編集]今様のような中世歌謡でも、歌詞は残るが旋律や歌い方が明確に伝わらない場合がある。平安時代末期に後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』には今様の歌詞が数多く残されているが、譜は記されておらず、歌い方については明確でない[8]。
今様は鎌倉時代以降に廃れたが、現在では残された資料などに基づいて復曲されたものが演奏されている[8]。このような歌謡では、詞章が残る一方で旋律や歌唱法が不明であるため、復曲にあたっては残存資料に基づく再構成が必要となる。旋律や歌唱法がまったく確認できない場合には、亡失曲に近い資料状況にあるといえる。
研究上の課題
[編集]亡失曲の研究では、まず曲名や記録がどの資料に現れるかを確認する必要がある。雅楽においては、近世楽書『歌舞品目』が、楽種楽制、音律声調、楽器起原、楽器名称、曲名異同、亡失曲名、案譜法、奏楽語彙、楽曲分類、歌曲、演奏法、舞楽解説、装束、舞譜などを類纂して記述している[6]。このような楽書・目録類における曲名の整理は、亡失曲を確認する基本的な手がかりとなる。
次に、亡失の程度を見極める必要がある。曲名だけが残るのか、詞章が残るのか、楽譜が断片的に残るのか、舞や型に関する記録があるのかによって、復曲可能性は大きく異なる。雅楽では、古楽譜、故実、図版、楽器遺物などが復曲の手がかりとなる一方、古譜の解読には限られた資料を用い、当時の楽器構造や演奏慣習も考慮する必要がある[2]。能楽でも、復曲のためには詞章、節付、型付、囃子の手などがどの程度残っているかが問題になる[4]。
また、亡失曲を扱う際には、現行伝承を基準にして過去の曲を単純に「失われたもの」と見るだけでなく、伝承主体、制度、儀礼需要、演奏機会、資料保存の状況がどのように変化したのかを検討する必要がある。『雅楽事典』の概説では、今日の雅楽伝承を千年前の雅楽の姿そのものと考えるのは誤解であり、曲目や演奏形式には多くの変遷があったと説明されている[5]。また、明治期には楽統整理と明治撰定譜の編纂を通じて現行曲目が整理され、選定から外れた曲目が遠楽と称された[7]。どの曲が残り、どの曲が亡失したのかは、伝統芸能の歴史的変化を整理するうえで重要な視座となる。
脚注
[編集]- ↑ 小学館『日本国語大辞典』.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 4 “時のひろがり 解釈による温故知新”. 雅楽 GAGAKU|文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年6月13日閲覧。
- ↑ 小野 1989, p. 34.
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 4 5 “復曲”. the能ドットコム 能楽用語事典 (2022年8月11日). 2026年6月13日閲覧。
- 以下の位置に戻る: 1 2 3 小野 1989, pp. 8–10.
- 以下の位置に戻る: 1 2 平野 & 国史大辞典.
- 以下の位置に戻る: 1 2 鳥居本 2007, pp. 258–259.
- 以下の位置に戻る: 1 2 “今様”. 文化デジタルライブラリー 日本の伝統音楽. 日本芸術文化振興会. 2026年6月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 「亡失」『日本国語大辞典』小学館。2026年6月13日閲覧。
- 小野亮哉監修『雅楽事典』音楽之友社、1989年。ISBN 4-276-00080-7。
- 鳥居本幸代『雅楽――時空を超えた遥かな調べ』春秋社、2007年。ISBN 978-4-393-93521-7。
- 平野健次「歌舞品目」『国史大辞典』吉川弘文館。2026年6月10日閲覧。