「子どもを産まない人生」を選んだ理由
私は、「別居婚」をしている。
別居婚とは、読んで字のごとく「別居した状態で結婚生活を送る」という婚姻形態だ。
▼実際の別居婚の様子はエッセイで公開している
別居婚なので、夫と会うのは基本的に週末だけだ。週末は二人で思いっきり休みを満喫している。
▼こんな感じで週末を満喫
別居婚してる夫、最高にフっ軽な友だちって感じでとても良い#牛角行ってきます pic.twitter.com/q4cPYA4jrd
— 華|汚部屋、片付けたから見て (@hana__heya) June 30, 2022
日曜日の午後は、まったり読書タイム📖
— 華|汚部屋、片付けたから見て (@hana__heya) July 24, 2022
……なんですが、夫も私も電子書籍で本を読み、しかも読んだその場でグーグルドキュメントにアウトプットするもんだから机の上がガジェットだらけに。
いつも通りの読書中の光景なんだけど、改めて見てみるとスゴイことになってるかも。 pic.twitter.com/pQCWxLQ7WE
このように、非常に珍しい結婚生活をしているのだが先日こんな質問をいただいた。
「子どもは産まないんですか?」
という質問だ。
▼実際の質問
……すごく悩んだのだが、今回は
「子どもを産まない人生を選んだワケ」
についてエッセイを書いてみようと思う。
※不妊治療中の方と、そして「子どもを持ちたいけど持つことを諦めざるを得なかった」という方は「子どもを持たないことを選んだエッセイ」を読むことでお辛い思いをさせてしまう可能性があります。
そのため、ここでブラウザバックをお願いいたします。
このnoteはリリースしたばかりですが、さっそくご感想もいただけました!
読み物として、少しだけでも楽しんで頂けたようで本当によかったです(号泣)。また、こんなご感想も!!
また、マシュマロでメッセージを送ってくださった方もいらっしゃいました!
ごめん、ちょっと感想を読んでて涙ぐんでしまった。
少しでも、少しでも、救いになったようでほんと~~~~~~~~によかった!!!!!書いてよかったよ!!!
ぶっちゃけ、この「子どもを産まないワケ」の掲載ボタンを押す時、手が震えるくらい怖かったんだよ!!!だから本当に、感想!!ありがとうね!!!
それでは、新作エッセイ「子どもを産まない人生を選んだ理由」、開幕です。
■なんで、生物にはオスとメスがいるの?
「夫の、『自分の子孫を残したい』という望みを叶えるためだけに、子どもを産みました」
という女性のブログを読んだことがある。
詳しくは触れないが、子どもは可愛いという前提のもと、
「いかに望んでいない出産と育児がつらいのか」
がつらつらと描かれていた。
こういう女性を見ていると、ふと思うことがある。
なぜ、我々人間は、「一人で」子どもを産むことができないのだろう?
子どもを産む方法には二種類ある。
無性生殖と、有性生殖だ。
無性生殖は読んで字のごとく、「性別が」「無い」。
ゾウリムシなどの単細胞生物がこの生殖方法を採用している。体が半分に分かれて新しい個体を生み出すため、自分ひとりで子供を産める仕組みだ。
この仕組みを採用すれば
「『自分の子孫を残したい』という夫の願いを叶えるためだけに、
子どもを産まざるを得なかった妻」
なんて人は、この世に存在しなくて済んだはずだ。
だって、そうすれば夫が一人で子ども産めるじゃん。
それに、一人で子孫を残すことができれば、生まれる子孫の数も増えて種全体が繁栄する。
おまけに、一人で子孫を残せれば子孫を残すための相手探しもしなくて済む。
これ、すっごく効率よくない?
相手を、探さなくていい。
めっちゃ楽じゃん。マッチングアプリや婚活サイトで頑張って相手探ししなくていいじゃん。すごく楽だよね。
いったん感情は横に置いといてさ。
「種を保存するために、個体の数を増やす」
という軸だけ見れば、生物はすべからく「無性生殖を選択するのが合理的」ではなかろうか。
……と、私は思うのだ。
しかし、我々人類は有性生殖を選んだ。
有性生殖とは、読んで字のごとく「性別が」「ある」繁殖方法のことだ。
つまり、子どもをつくるためには「オス」と「メス」の2個体が必要ということだ。
……これ、シンプルに効率悪くね?
一人産むのに、「二人」必要。
「繁殖の効率」というその軸だけ見れば、「無性生殖と比較した場合に」効率は悪いと言わざるを得ない。
おまけに、だ。
無性生殖なら親の遺伝子はすべて遺伝する。なぜなら生まれてくる子供は親のコピーだからだ。だから、親の遺伝子すべてを受け継ぐことができる。
一方、有性生殖の場合、親の遺伝子は半分しか遺伝しない。
となると、である。
たとえば片方の親が、
病気になりにくく体が強くて生き残りやすい肉体を持っている
など「すごく優秀な遺伝子」を持っていたとしても、その優秀な遺伝子が半分しか遺伝しないではないか。
めっちゃ、もったいない。
だから私は、「これ、なんでなんだろ?」とシンプルに思った。
こういった有性生殖におけるデメリットのことを、
「有性生殖のパラドクス」
と言うらしい。名前は仰々しいが、まぁ簡単に言ってしまえば、
「有性生殖のコストが明らかに甚大であるのにもかかわらず、多くの生物が有性生殖を採用している矛盾のこと」
である。
このパラドクスに対して、生物学という学問領域が出した「現段階での答え」はこうだ。
無性生殖を採用してしまうと、生まれてきた子供は親のコピーになってしまう。
コピーということは、弱点が一緒ということだ。
すると、何らかの大規模な環境変化が起きた時に
「親も子も両方死んでしまう」
という大惨事が起こってしまう。なぜなら、弱点が一緒だからだ。
ところが有性生殖の場合、子どもは親のコピーではない。なぜなら子どもは親の遺伝子の半分だけを引き継いでいる。
よって、子どもの弱点は親とは異なる。
すると、何らかの環境変化が起きた時、親が命を落としたとしても子どもは生き残る可能性があるということだ。
つまり、
有性生殖のコストは確かに大きいんだけど、でも「全滅よりはマシだよね」
ということなのだ。
これが、生物学が現段階で出している「答え」である。
「なるほどなぁ」と思った。
たしかに、RPGで勇者だけでパーティーを組む人はいない。それだと全員弱点が同じになってしまうからだ。
だから、一般的にRPGでパーティーを組む時は、勇者のほかに、
・回復役のヒーラー
・火・氷・雷などを使い分けて敵の弱点をつく魔法使い
・防御役のパラディンなど
バランスの良い組み方をする。そうすれば全滅しないからだ。
***
今から約42億年前、この地球にすべての生物の共通祖先が誕生した。
その生物の名前は、「ルカ」。
「Last Universal Common Ancestor」の頭文字をとって「LUCA」(ルカ)と名付けられている。名前の通り、
「すべての生物の共通祖先」
を意味している。今いる生物はどれだけ違った生物であろうとも、元をたどると祖先が同じなんだそうだ。
ルカは、核をもたない原核レベルの単細胞生物だった。
そして、ルカが生まれてからさまざまな生物が派生して誕生し続けたが、そのどれもが無性生殖だったそうだ。
そして、ルカが誕生してから約22億年前にやっとこさ有性生殖の生物が誕生する。
目的はただ一つ、生物の多様性を確保するためだ。
つまり、男と女は、生物が生き残るために生み出した「発明品」なのである。
なるほどなぁ、と思った。
だから、オスとメスがいるのか。
しかし、ここでもう一つ疑問が浮かぶ。なぜ、ヒトは
「自分一人の体にオスとメスの両方の機能を搭載しなかったのだろうか?」
と。
一つの生物が、自分一人の体の中にオスとメスの生殖機能の両方を持っていることを「雌雄同体(しゆうどうたい)」という。
ミミズやカタツムリが、まさにこの雌雄同体だ。
これ、めっちゃ便利じゃね?
一人の人間の体に、「オスの機能」と「メスの機能」の両方を搭載する。
こうやって「雌雄同体」にしてしまえば、自分一人で子どもを産むことができる。
夫の側が『子供がほしい』と望んだ場合、夫一人で子どもを産むことができる。
そうすれば、「夫のためだけに子供を産まざるを得なかった妻」という人は存在せずに済む。
だから私は、
「人間も、ミミズやカタツムリみたいに雌雄同体だったらいいんじゃね?」
と思ったのだ。
だが、コレもダメみたいだ。
私は女性として生まれてきたが、自分の体を見てみると
「女性としての機能」を持っている箇所
に多くの体積が割かれている。これはすなわち、
「その性機能を個体に搭載するためには、大きなエネルギーを投資しなくてはいけない」
ということを意味している。
となると、私が持っているこの女性の体に「男性としての性機能」を追加で搭載しようとすると、さらに莫大なエネルギーを投資しなくてはいけないということになる。
そうなると、当たり前だが生存率がめちゃくちゃ下がってしまう。なぜなら性機能に費やすエネルギーが莫大だからだ。
つまり、私一人の体に「女性」と「男性」の両方の機能を搭載しようとすると、生物として生き残れない。
生き残れないということは、生物としては弱いということだ。弱い個体は、自然界ではモテない。モテないから交尾する相手を見つけることができず、子を残すことができない。
その結果、雌雄異体が有利になり、雌雄同体は淘汰されていくのである。
……ってかよく考えたら、「私の体に女性と男性の両方の機能を搭載」できたとしても、それじゃ私が一人で産んだ子供は私のクローンだ。そうなると、生まれてきた子供は私と弱点が一緒だ。
となると、前述した通り何か大きな環境変動があったら親である私も私の子供も生き残れない。
だから、雌雄同体は種を保存する上で不利なのだ。
「あ、そっか」
と、ここで気づいた。
「だから花の雌しべって、雄しべより高い位置にあるのか」
と。
小学校の頃、理科の教科書でこんな図を見たことがある。
注目してほしいのは、雌しべの位置だ。雄しべよりも上にある。
これはシンプルに、雄しべが間違って雌しべにくっついてしまい、自家受粉するのを防いでいるのだ。なぜなら自家受粉してしまうと次の子孫が
「自分のクローン」
になってしまうからだ。
だから、多くの植物は昆虫や風に花粉を運ばせるのだ。「別の個体」との間に子供を作って、種の多様性を担保するために。
***
「多様性を認めよう」
という言説が強固になってずいぶん久しい。
だが、多様性を認めるとか認めないとか、そういう次元で話をするのはきっとナンセンスなのだろう。
なぜなら以上見てきたように、「多様性を担保すること」こそが我々生物の基本的な生存戦略だからだ。
認めるもクソもあったもんじゃない。
「多様であることは当たり前」なのだ。
なぜ、オスとメスが存在するのか?
「神様がアダムの肋骨からイブを作ったから」ではもちろん、ない。
多様性を担保するためには必要だったからだ。
ということは、生物は
「いかに一人ひとりを違う個体に仕上げるか」
に命を懸けていると言える。
***
私は、精神医学の博士課程にいた元研究者なのだが、実は
「精神疾患が種の保存のために存在しているのでは」
という説が存在する。
人種、性別、地理、生育環境、経済状況など、そういった環境要件に左右されることなく「一定の割合で罹患する精神疾患」があるのだ。
精神疾患そのものは、現代社会では「治療すべき病気」とされ数多くの心療内科で治療が行われてはいる。だが、「種の保存」という大きな目で見た場合、
「多様な個体を用意しておくことで種族全体の絶滅を防ぐ」、いわばヘッジとしての精神疾患があるのではないか
という説があるのだ。
なんとも、残酷な話だと思う。
種を保存するためならば、
「個体それぞれが抱く苦しみなんざ知ったことか」
ということなのだろう。
精神疾患を罹患してしまい、
「生きていたくないほど、つらい」
とその個体が苦しんだとしても、その苦しみは種を保存するという崇高な目的の前には「些末なこと」なのだろう。
それほどまでに生物は、「多様性を担保すること」に命を懸けていると言えるのだ。
***
10代後半の時、産婦人科で
「あなた、これなら子供8人産めるわよ」
と言われたことがあった(今ならこの発言はちょっとアウトだと私は思うが)。
そういわれて10代の私が反射的に思ったのが
「へー、マリア・テレジアみたい」
だった。
マリア・テレジアとは、かの有名なマリーアントワネットのお母さんだ。
たくさんの子供を産んだことでも有名なマリア・テレジアだが、調べてみたら彼女が生んだのは16人だった。
まぁマリア・テレジアは多産で有名な、かのハプスブルク家の出身だ。16人と聞いてもぶっちゃけ驚きはしない。
ただ、そこでふと
「あれ、じゃあ歴史上、最もたくさん子供を産んだ人って、一体何人産んだんだろう?」
と思って調べてみた。
ギネス記録には「69人」の記録が載っていた。
ろくじゅう、きゅうにん。
すごい人数だ。一人の女性が、69人もの女性をその生涯で産んだというのだ。
ギネス記録に残っているその女性はロシアの農民で、1725年から1765年の間に69人の子どもを産んだそうだ。ちょうどロマノフ朝ロシアのピョートル1世の治世末期の頃だ。
そして、私が何よりもすごいと思ったのは、同じ両親から生まれた(と推定されるであろう)この69人の子供たち全員が、「全く違う人間である」という点である。
***
人間は23対の染色体をもってる。
子どもは、親から2本ある染色体のうちのどちらかを引き継ぐ。2本ある染色体から、どちらか一つを持ってくる。
そう考えると、いったい何通りの組み合わせができるのか?
2の23乗なので、838万通りの組み合わせができる。これが父親と母親の両方に起こるから、838万×838万で、組み合わせはなんと70兆を超えてしまう。
つまり、1組の夫婦は、単純計算でなんと70兆種類の人間を産むことができるのだ。
世界人口が現在81億だから、70兆という数字がどれほどスゴイことか、分かることだろう。
■なぜ、「子どもを持つ」という選択肢すら浮かばなかったのか?
69人も子供を産んだ女性がいる一方で、だがしかし、私は子供を産まない人生を選んだ。
それは、なぜなのか?
答えはシンプル。
「選択肢にすら浮かばなかったから」なのだ。
自分の人生を生きるにあたり、子どもを持つという選択肢がそもそも浮かばなかった。いやほんと、マジで。マジで浮かばなかった。
たとえるなら、町の中華料理屋に入ってメニューを手に取り
「さーて何食べよっかな♡たらこパスタでも食べようかな♡」
と思わないのと一緒だ。
中華料理屋に入った以上、中華料理しかメニューには載ってないはずだ。だからそもそも、中華料理屋に入った以上「たらこパスタ」という選択肢は浮かぶはずもないのだ。
こんな感じで、私は考えたこともなかった。自分の人生で子どもを持つという選択肢が、本当に浮かばなかったのだ。
***
「子どもはベンツと一緒」
というたとえ話をツイッターで見たことがある。
元ツイートはどっか行ってしまったが、簡単に説明するとこうだ。
他人がベンツを買っているのを見ると『そうか、この人はベンツが欲しかったんだなぁ』『ベンツを手に入れることができてよかったなぁと思う。
だけど、じゃあ自分がベンツを欲しいかというと別にそうは思わない
という例えだ。
言い得て妙である。この例えを見たとき、私はその言語化能力のあまりの高さに膝を打った。
実際、私も同じ感覚を抱いている。
たとえば私の友人がベンツを買ったとする。そしたら私は
「え!?ベンツ買ったの!?」
「マジ!?なんだ、ベンツ欲しかったん!?」
「うっわ高かったでしょこれ~!!!」
「でも買えてよかったね!!」
「実際乗ってみてどう?やっぱ普通の車と違うん!?」
「外だけじゃなくて中もめっちゃカッコイイやん!!」
「うわボタンいっぱいあるな、私これ使いこなせへんかもしれん」
とめちゃくちゃ興味を持つだろう。
しかし、自分が
「あなたはベンツを買わないの?」
ともしも聞かれたら
「えっ……買わないけど……」
と即答するだろう。
なぜなら、欲しいと思ったことがないからだ。
だが、これは別にベンツを買った人を否定しているワケではない。
その人はベンツを欲しいと思った。だから買った。
私はベンツを欲しいとは思わなかった。だから買わなかった。
ただそれだけの話。よそはよそ。うちはうち。
「子どもという命と、ベンツという単なる物を一緒にするな」
というお声も聞こえてきそうだが、まぁ確かにそれはそうだ。だが本質はそこではないのだ。
「他人が欲しがるもの」「他人が手に入れたもの」は、「その人が欲しいと望んで手に入れたもの」なだけであって、
「すべからく私も欲しいと望むべきだ」
とはならないのである。ただそれだけの話だ。
***
だけど、「子どもを持つことを選ばなかった」というその行動そのものが、
「子どもを持つことを選んだ人間を否定している」
と誤解されることは正直多い。このことについて私が思うことはただ一つ。
もう、本当に、頼むから、自他の区別くらい付けてくれ。
ファミレスで「自分が」ハンバーグを注文した後に「他人が」パフェを注文したからといって、
それは別に「自分がハンバーグを注文した選択」を否定されたことにはならんのだ。
他人は他人、自分は自分。
ちゃんと区別して生きていこ。私もそうすっから。
***
話がそれたので元に戻そう。
「なんで、子どもを欲しいと思ったことすら、私はないんだろう」
と真剣に考えたことがある。
そこで、一つの仮説に考え至った。
「もしかすると、子育てで苦しんできた母親たちを見てきたからではないだろうか?」
という仮説に至ったのだ。
***
子どもを産んだ友人に、昔こんなことを言われたことがある。
「難しく考えすぎだよ」
「産んじゃえばなんとかなるよ」
と。まぁ確かに一面真理だし、その子が「なんとかなった」こと自体はすごくすごく良かったなと本当に心からそう思う。
だがこのセリフは、生存者バイアスの典型的なパターンである。
「産んじゃえばなんとかなる」
というのは、なんとかなった人が残せたセリフなのであって、「産んでみた結果なんとかならなかった人」のセリフは世に広まらないのである。
なぜなら、「なんとかならなかったから」である。
もしかすると、人生の選択肢として「子どもを持つ」が全く、一切、一秒たりとも浮かんでこなかったのは、私自身が「なんとかならなかった人達」を多少なりとも見てきたからではないのだろうか。
***
小学校6年生のとき、同級生の母親は蒸発してしまった。
その子の家に遊びにいく機会があったが、家にある写真を見ると、
その写真に映っていたであろう母親の顔がすべてタバコの火を押しあてたかのように焼け焦げてなくなっていた。
また、小学校の時、よく「父の弟の奥さん」……つまり私から見ると叔母がうちによく来て泣いていた。私の母に向かって泣きじゃくりながら、「自分の夫の愚痴」を言っていた。
そして結局、叔母の夫は妻と子供を残して失踪した。
何年も経ってからやっと見つかったのだが、その時には既に新しい妻がいた。
私の母も例外ではない。私の母は、結婚と同時に義理の両親と同居することになった。ところが、だ。
この義理の両親が家父長制の権化みたいな人間で、「嫁は人間ではなく無料で使い放題の労働力」と考えるタイプの人間だったのだ。
私の一番古い記憶は幼稚園の頃。祖父が私の手をつないで駄菓子屋に連れて行ってくれた日のことを覚えている。
祖父は、私には優しかった。だが、私の母には厳しかった。
私は3歳か4歳のころから保育園に預けられたのだが、いつもいつも、お迎えが来るのは最後だった。
保育園のお部屋で、一人、また一人とお迎えが来て家に帰っていく。
そうして、いつも最後に残るのは私だった。
保育士の先生が、私が退屈しないようテレビをつけてくれていたのを覚えている。
だけど、私の母が迎えに来るのがあまりに遅いから、テレビをつけても子ども向けの番組が全部終わってしまい全てニュースになっているのだ。
そのニュースをみながら、保育士の先生がつくってくれた冷たいご飯の塩おにぎりを食べた。
こんな記憶が残っているのだが、大人になってから
「なぜいつも自分のお迎えが最後だったのか」
を知らされた。
母は、とっくに定時で会社を退社していたのだ。
夕方の早い時間に、いの一番に私を迎えにいけるというのに。それなのに、保育園にはお迎えにこなかった。
なぜか。
私を迎えに行ってしまうと、義理の両親が待つ自分の家に帰らなくてはいけなくなるからだ。
だから、私を迎えに行くのが嫌だったそうだ。
母は、定時で会社をあがった後。
近くのスーパーに車をとめて、そこで何時間も車のハンドルに顔をつっぷして時間をつぶしていたそうだ。
■「まだお腹の中に存在すらしていないのに、子どもを愛しているんだね」
だが、一方で「良い意味で(?)子どもを持たない選択をとったのでは」と思うことがある。
すなわち、自分自身が親に恵まれたからこそ
「私はこんな風に子育てできない」
「だから、子どもは産まない」
と私は思ったのではないか。
***
私は子どもの頃、自分の母のことを「ごくごく普通のお母さん」だと思っていた。
だって私の母は、こんな人だったから。
・毎日マジで機嫌が良いし
・機嫌が悪い日もあったんだろうけど絶対に子どもたちの前でそれを見せないし(見たことが無い)
・お父さんとめちゃくちゃ仲が良くて二階で私が受験勉強してると一階から両親がおしゃべりして母が爆笑してる声が聞こえてくるし
・私はお父さんとお母さんがケンカしているのを結局大人になった今になっても一度も見たことがないし
・「子供の教育方針で大喧嘩した時は大変だったよ~w」と大人になってから言われて「お父さんとお母さんって喧嘩するんだ!?」と驚いたことがあるレベルだったし
・そして娘の私に対しては、娘が幸せでいるか、そして病気やケガをしているかにしか興味がないし
・他は一切興味を示さないし(結婚しろ、出産しろ、マイホームを買えとか一切言わん)
・「好きなところに行き好きに生きな。そのために出来ることは親として全部やるよ」と言われて子どもを育てあげたし
・子どもに自分の人生をささげることなく、ちゃんと自分の人生も思い切り楽しんでいるし。
……どうだろうか。
私はこういう母の姿を見て、
「どこにでもいるフツーのお母さん」
だと思っていたのだが、今羅列したうちの母の特徴を見てこう思った人も多いだろう。
「めっちゃ良い母じゃね!?」
と。
そうなのだ。私は、母親に恵まれた。信じられないくらい恵まれているのだ。
だから、である。
だからこそ、「私はお母さんみたいになれない」という考えが根底にあるのかもしれない。
***
「自分の母親を見て、『絶対に私は子供を産むまい』と決めた女性は多いと思います」という意味のツイートを見かけたことがある。
このツイートにはたくさんのリプライが寄せられていたが、私は逆の意味で、自分の母を見て「絶対に私は子供を産むまい」と思ったのかもしれない。理由はこれだ。
だって、私は、母みたいには到底なれないなと思ったから。
***
私の父も、私の母も、どんな時でも私を最優先にしてくれた。どんな時でも私のことを大切にしてくれた。
私には、無理だ。あれだけの時間、労力、お金、愛情を、子どもに注いであげる自信がない。
生まれてくる子が幸せにならないとわかってるから、産まないのかもしれないない。
なんだか、不思議な話だ。
まだ私のお腹に存在すらしていないのに、生まれてもいないわが子のことを大切に思っている。
まだ生まれてもいないのに、幸せになってほしいと思っている。
そしてだからこそ、産みたくないと思っている。
「生まれてくるんなら、幸せになってほしい」
「でも、幸せにするために必要なことを、私はやってあげる自信がない」
だから、産むという選択肢すら浮かばなかったのかもしれない。
***
私が大好きな小説家に柴田よしきさんという方がいる。
彼女が書いた代表作がこちら。『RIKO ‐女神の永遠』だ。
この小説の主人公は「リコ」という名前の女性だ。
警察官の仕事をしている彼女は、ある日恋人との間に子供ができてしまう。
彼女は、その子供を中絶することを決意する。
だが、リコは中絶する前に恋人である男性に電話をした。そこで、
「今から三つ数えたら、愛してるって言ってくれない?」
とお願いをするのだ。
相手の男性は不思議に思いつつも、「分かった」と承諾する。
そして3秒後、その男性は受話器越しに「愛してる」とリコに告げる。
だがリコはその言葉を聞いていなかった。
リコは受話器をお腹に当てていたのだ。
「愛してる」というその言葉を、もうじき消されてしまう運命の微かな命に対して聞かせていたのだった。
「産んであげられなくて、ごめんね」
と思いながら。
■「子どもは、いらない」と夫から言われた日のこと
ところで、今この文章を読んでくれている人たちはひとつ疑問に思ったことだろう。
「たとえ自分が産まない選択をしたとしても、パートナーである夫が子どもを望んでいたらどうするのか?」
と。
私は既婚者だが、冒頭で伝えた通り夫とは「別居婚」をしている。
別居婚とは書いて字のごとく「別居しながら結婚生活を送る」という婚姻形態のことだ。
この別居婚に至ったワケや、別居婚を8年やってみた感想をnoteに書いたらテレビ局から取材が来た。番組の収録と放送後、私が思ったことはこれだ。
「もう二度と、別居婚の取材は受けない」
と。
番組の収録の最中とその放映後、さかんに行われたのが「別居婚の是非」についてだったのだ。
いや、これは分かる。これは別に良い。
「別居婚の是非」について議論が巻き起こるのは分かるよ。
そりゃそうだよ。私だって視聴者側の立場だったら絶対にその議論をする自信があるよ。だから、
「自分が別居婚をするなら、アリかナシか」
という議論は巻き起こることそのものは自然なことだし、それについて意見を述べるのは自由だと思うよ。
だが、私がすごくイヤだなと思ったのは、「自分が別居婚をするなら、アリかナシか」という枠を飛び越えて赤の他人である
「私と夫が」別居婚をしていることについて、アリかナシか
について議論が巻き起こっていたことだったのだ。
他人の人生を、「数字を取るための道具」として扱う。
それは、テレビ局としてやらなくちゃいけない仕事なのはわかる。私も、プラットフォームは違えど「Web媒体」という場所でこういう浅ましいマネをしたことがあった。
だが、私はこういう仕事を二度とやりたくないから会社を辞めたのである。
だからもう、他人の人生を「数字を取るための道具」として扱うことは決してしない。
そして、私の人生を「数字を取るための道具」として扱うことは決して許さない。
「この夫婦が」別居婚をすることは、アリか、ナシか
というその議論を見て、正直「ほっといてくれ」としか言いようがなかった。
というか、
「他人の人生を、『良いか悪いか』決める権利が自分にある」と無垢に信じ切っているその人間性は「アリ」なのか?
とシンプルに思った。なぜなら、他人の人生の審判になる権利なんて、誰にもないからだ。
***
それ以来、別居婚の取材の依頼はすべて断っている。
我々夫婦が選んだ別居婚という選択について、他人から判定を下されるのがやっぱどーしても「ヤだなぁ」って思ってしまうからだ。
実は、
「あなたたちの別居婚は素晴らしいよ」
と肯定されることすらチョット嫌なのだ。
別に肯定されるために別居婚を選んだわけではないし、肯定する権限すらそもそも他人にはないし、そして私の人生に「審判」は必要ないと思っているからである。
「みんな違って、どうでもいい」。
それくらいの温度感が心地よいのだ。
***
さて、このように別居婚を選択した我々夫婦であるが、実は結婚して最初の一年ほどは夫と同居していた。
一緒に賃貸を見に行って、「ここにしよう」と二人で決めて、新しい家電を買って、新婚生活がスタートした。
まぁいわゆる「新婚生活」ではあるのだが、当然のことながらこれは恋愛コミックでも恋愛ドラマでも恋愛小説でもおとぎ話でもない。ただの現実だ。
「大好きなカレと無事に結婚して毎日ラブラブ♡」
なんてこと、あろうはずもなかった。
当たり前だが夫と私は別個の個体だ。
だから、一緒に生活をする中でさまざまなすり合わせが必要だった。
洗濯は週に何回なのかとか、晩御飯は一緒に食べるべきなのかとか、週末のスーパーの買い出しは一緒に行くべきなのかとか、価値観をしっかりすり合わせる必要があったのだ。
その中でも私が特に苦戦した価値観がこれだ。
「夫に許可なく体を触られること」、である。
***
いつだったか忘れたが、ツイッターでとある男性のとあるツイートがバズったことがある。
「新婚の時に妻から『あんた結婚したら妻の胸を揉み放題と思ってるだろうが、実際はそうじゃないからな』と言われて絶望した」
という男性のツイートだ。
検索しても元ツイートが出てこなかったので若干言葉が違うのかもしれないが、まぁ言ってる中身は上記のような意味合いだった。
そして似たようなツイートは今この瞬間検索してもわんさか出てくる。
「結婚とは、お〇ぱい揉み放題のサブスクである」
「結婚は、すなわちお〇ぱい揉み放題のプランである」
「結婚したらお〇ぱい揉み放題らしいぞ、夢があるな」
正直言って本当に気分が悪くなってきたから、この辺で羅列するのをやめるが。結婚したら本当に妻の胸を揉み放題だと思っている男性は非常に多いようだ。
「結婚すると、妻の肉体は夫の所有物として扱っても良い」。
そう考えている男性は、少なからず存在しているらしい。
実際、比較民俗学や文化人類学などの学術書を読んでみても
「結婚後は妻を夫の所有物としている社会」
が存在している。
そして、私の夫もそういう考えの持ち主だった。
一応言っておくが、もちろんこれは「夫が悪い」「夫は悪だ」ということを伝えたいのではない。
なぜなら、私は夫の言い分をちゃんと聞いていないからだ。
私は、「とにかくやめてほしい」という私の言い分だけを主張していたから、夫の言い分を聞いていないのだ。
「いや、許可なく他人の体に触る人間の言い分なんて、聞かなくていいだろ」
と思う人もいるかもしれないが、「他人が嫌がることをしてしまった」側の言い分を聞くことはとても大切なことなのだ。
たとえば何らかの犯罪が起きてしまい、その裁判が行われたとする。
その裁判では当然ながら被告人が自分を弁護する機会が与えられている。なぜなら
「自分は正しいと主張する権利」
は基本的人権の一つであり、被告人に与えられた立派な権利だからだ。
「自分は正しいと主張する権利」は裁判という制度における一丁目一番地なのだ。
だから、夫の言い分を一切聞かずに私がここで「夫が悪い」と一方的に断定することはできないし、別にするつもりもない。
私の言い分だけを聞いて、
「それは旦那さんが悪いよね」
と、どうか思わないでほしい。片方だけの言い分を聞いて断罪するのは、やっぱりアンフェアだと思うからだ。
ただ、とにかく私は「許可なく体を触られること」がイヤでイヤで仕方がなかった。
正確に言うと、別に触ったってかまわない。「許可なく触る」というところがとにかくイヤだったのだ。
私の体は私だけのもので、夫がただ触りたいからという理由で勝手に触っていいものではない。
しかし、中々「許可なく勝手に触らないでくれ」という私の主張は通らなかった。
夫とは小学校からの付き合いなので、私は彼の性格を熟知している。簡単に言ってしまうと、夫は
「強い口調で本気で嫌がっていることを伝えてしまうと、スネて数日は口をきいてくれなくなる」
というタイプなのだ。
だから、優しく、遠回しに「やめてほしい」と何度も伝えた。何度も何度も何度も何度も何度も何度も伝えたが、優しく遠回しな言い方だったから全く本気と受け取ってもらえなかった。
もう我慢が限界に達した時に、本当にそのまま何もオブラートに包むことなく強い口調で、「許可なく勝手に触るのはやめてほしい」と言ってしまった。
そうしたら
「優しく言ってたから、本気で嫌がっているとは思わなかった」
「そんなに怒ってるならもっと早く言ってくれればよかったのに」
という返事が返ってきたのだった。
そして続けてこう言われた。
「価値観が、完全に一緒の人と結婚すればよかった」
このセリフを夫がどういう意味で言ったのかは今でもわからないが、私には
「俺の言うことに何も文句を言わずに、従順に従う人間を妻に迎えればよかった」
と聞こえてしまった。
まぁ、気持ちはわかる。
これは皮肉で言っているのではない。本当に気持ちが分かるのだ。だって、私だって
私が「イヤだ」「やめてくれ」と伝えれば瞬時にやめてくれる、「私に従順に従う人間」をパートナーに迎えればとても楽だったろうな
と思ってしまったからだ。だからぶっちゃけ、「価値観が全く同じ人と結婚したかった」という気持ちはとてもよくわかる。
楽だもん。
そして、その後にこう言われたのだった。
「あなたの子どもは、いりません」
今でも一言一句、覚えている。
「あなたの子どもは、いりません」。
夫はそう言ったのだった。
さっきの、「価値観が、完全に一緒の人と結婚すればよかった」というこのセリフ。こっちは、ぶっちゃけ一言一句は再現できてないかもしれない。
もしかすると
「価値観が、完全に一緒の人と結婚すればよかった」
ではなく
「価値観が全く一緒の人と結婚すればよかった」
という文言だったかもしれないし
「価値観が同じ人と結婚すればよかった」
だったかもしれない。正直一言一句は覚えていない。
情報なんて、記録と記憶の二種類でしか残すことができない。そしてそのいずれもが簡単に改ざんされてしまう。だから、ぶっちゃけ一言一句は正確ではないかもしれない。
だが、その後に言われたこっちのセリフは一言一句覚えている。
「あなたの子どもは、いりません」
夫はそう言ったのだった。
***
夫が「子供はいりません」と言った理由は実にシンプルだった。
「許可なく胸を触らないでほしい」と小言を言い続け、
小言を聞いてもらえないと強い口調で怒ってしまう人間(=つまり私)の遺伝子は、
"劣った"遺伝子だからこの世に残すべきではない
とのことだった。
……これを聞くと、世の女性はどう思うのだろうか。
世の男性はどう思うのだろうか。
正直、私にはわからない。
「こんな夫ありえない」と怒る人もいるのかもしれない。
「こんなこと言われたら立ち直れない」と泣き崩れる人もいるのかもしれない。
で、肝心の私はどう思ったのかというと。
「そうなんだ」、としか思わなかった。
なぜなら夫と私は別の個体であり、別の個体である以上「考え方も別なのは当然」だと思うからだ。
***
もちろん、私には私の意見がある。
「あなたの遺伝子は残すべきではない」
と言われた時に思ったことは2つ。
1つは、「そもそも怒りとは生存に必要な感情である」ということだ。
そりゃそうだ。だって進化の過程で怒りという感情は淘汰されなかったのだから、生存に必要に決まっている。
もし、怒りという感情がなければ、
・他人に食べ物を奪われても怒らないから取り返さずに餓死するし
・他人に武器を奪われても怒らないから取り返さずに戦うことができず戦死するし
・他人に暴力をふるわれても怒らないからそのまま撲殺されてしまう
可能性がある。
だから、怒りは自分を守るために、生き残るために必要な感情だ。
まぁもちろん、「怒りという感情を免罪符にして相手を傷つけるような行為」をしてしまったらダメだとは思う。
が、怒りそのものを抱くことは何ら問題はない。というか抱かなくてはいけないのだ。
生物として、生きていくためにも。
そして、「あなたの遺伝子は残すべきではない」と言われた時に思ったこと2つ目がこれだ。
私の遺伝子が、残すべき価値のある遺伝子なのかどうかは、私の夫ではなく「環境が」決めることだ
である。
前述した通りではあるが、
「現代社会では治癒すべき対象である精神疾患」ですら、種を全滅から防ぐために人類が用意したヘッジ
である可能性があるのだ。
つまり、何らかの大規模な環境変動が起きた際、「いわゆる」健常者たちが全滅し、一方で「精神疾患を治療中の患者たち」が生き残る可能性があるということなのである。
他の疾患もそうだ。たとえば
目が全く見えない、全盲の方
がここに一人いたとする。ところがある日突然、
「正常に機能している視神経」に入るだけで命を失ってしまう危険な光
が空から降り注いできたとしたらどうなるか。
当然、今の社会で言うところの「目が見える"健常者"」は全員命を落とす。
なぜなら、「健常者だから」である。視神経が正常に機能しているから、である。
しかし、全盲の人は生き残る。
なぜなら全盲の人はそもそも視神経が損傷しており、「視神経に入るだけで命を失ってしまう危険な光」を受けたところでそもそも「視神経が損傷している」が故に命を落とさずに済む。
そうなると、
「正常に機能している視神経」に入るだけで命を失ってしまう危険な光
が毎日降り注ぐ天変地異が起こったら、今度は逆に「目が見える人が障がい者になる」のである。
なぜなら、「目が見えることそのものが」ハンディになるからである。
そうなのだ。
「取り急ぎ」今の環境下では生き残るのに有利な特性であったとしても。
環境が一変すれば、その有利な特性もむしろ「生き残るのに不利な特性」に簡単に転化してしまうのである。
進化生物学や障がい学で言われる
「障害は個人の中に存在するのではなく、環境との相互作用によって生じる」
という考え方がまさにコレである。
ってことは、だ。
その特性が”優れて”るかどうかを決めるのは「人ではない」
ってことなのである。その特性が”優れて”いるかどうかを決めるのは、人ではない。
環境なのだ。
だから、
「許可なく胸を触らないでほしい」と小言を言い続け、
小言を聞いてもらえないと強い口調で怒ってしまう人間(=つまり私)の遺伝子は、
"劣った"遺伝子だからこの世に残すべきではない
という理由をもってして、「あなたの遺伝子は優れていないから、次世代に残すべきではない」と断定することはできないのである。
「その遺伝子が優れているか」を決めるのは、いつだって環境だ。
一個人が決めることではないし、決めて良いことでは決して、ない。
聞いてるか?ドイツ第三帝国のチョビひげ男。
お前に言ってんだぞ。
っていうか、優生学を「信仰」している人間の何が滑稽かって
自分は優れている側の人間である
と無垢に信じ切っているところなんだよな。ほんっっっと、マジでウケる。
そもそも疑うことから始めるのが科学なのに、信じることから始めてしまっては、それは科学ではなく宗教だ。
ならば「学問」を名乗るな厚かましい。
***
……まぁ、いろいろとつらつら書いてきたが、実は夫との仲はいたって普通だ(と、思う)。
週末は博物館に行ったり。公園でキャッチボールをしたり。手巻き寿司を作ってどっちの作品が美味しいか競ってみたり。
そうして一緒に過ごして、時々ケンカをして、一緒に夫婦をやってきたし、これからも一緒に夫婦であり続ける努力をしていく。
***
ここだけの話、夫から「子どもはいらない」と言われてむしろよかったと思っている。
「子どもがほしい」と言われていたら、私はきっと夫と一緒に居られなかっただろうから。
私は夫のことがやっぱり好きだ。
だから、夫にはマジで幸せになってほしいと思っている。
そして夫の幸せが「子どもを持つこと」なのであれば、とにかく急いで私と離婚をして急ピッチで婚活を頑張って相手の女性を見つけて結婚し、子どもを授かってほしいのだ。これが私の本心なのだ。
だが、こんなことをもしも夫に言ったら、夫は
「そんなに簡単に俺のことを捨てるの!?」
と悲しみ嘆くだろうと思う。
だけど、夫に幸せになってほしいんだからしょうがない。こうするしかない。私は、かつてブログで見たような
「夫のためだけに子供を産みました」
という女性にはなれないからだ。
だから、夫に言われた「あなたの子どもはいりません」というこのセリフ。
私は、結果としてよかったと思っている。
今、私が夫と一緒に夫婦でいられるのは、夫が子どもを欲しがらなかったおかげなのだから。
■「どうして子供が欲しかったの?」と母に聞いた日のこと
こうして私は、子どもを持たない人生を選んだわけだが(選んだというか、選択肢にそもそも入ってなかったのだから選んだも何もないのだが)、若いころは
「私ってやっぱちょっと変なのかな?」
と思ったことはあった。
だって、子どもを持たないことを選んだ女性があまりにも周りにいなかったから。
大学生の頃、母に質問したことがある。
「お母さんは、どうして子供を産もうと思ったの?」と。
すると母はあっけらかんとして、ニコニコしながらこう答えた。
「好きな人の子供を産みたいと思うのは、自分にとっては自然なことだったのよねぇ~」
と。
「そっかー」と思った。
と同時に、「全くもって、理解ができない」と思った。
しかし、理解ができないことは、イコール相手の考えを否定していることでは決してない。別に母のこの言葉や、母の気持ちを否定するつもりは一切ない。
なぜなら生物とは、すべからく多様であるべきだからだ。
多様性を担保するために。
多様性を担保して生き残るために。
我々ヒトをはじめとした、ありとあらゆる生物が命を懸けてリソースを全部そこに投下している。
だから、「自分と他人は違う」のはデフォルトなのだ。
「違うこと」は、生物のデフォルトなのだ。生物が、種が、そして人間が生き残るために採用した生存戦略なのだ。
だから、
母と私の考えが違うことは当たり前なのだ。
なので、母が「好きな人の子供を産みたいと思うのは、自分にとっては自然なことだった」と考えたことは、私にとっては
「そうなんですね」
で終わりだ。なぜなら私と母は「違う個体」だからだ。
名著『7つの習慣』を書いたスティーブン・コヴィーもこう書いている。
二人の人間の意見がまったく同じなら、一人は不要である。
私とまったく同じ意見を持つ人とは、話す興味は湧いてこない。
あなたは私とは違う意見だからこそ、あなたと話してみたいのだ。私にとっては、その違いこそが大切なのである。
と。意見というものは当たり前に個々人で違うものだし、その違いにこそ価値があるのだ。
でも、やっぱりちょっと理解はしてみたいなと思ったりもする。
だってさ、多くの女性が「好きな人との子供が欲しい」って思うんでしょ?
私というメスの個体には、その多くの女性が抱くであろう感情を抱く機能が搭載されていなかった。
だから、「マジョリティ」に属せなかったある種の寂しさを感じてしまうのだ。
「好きな人と一緒になったのなら、その人の子供が欲しいと思うのは自分にとっては自然なことだった」
じゃあ、夫の子供を産みたいと思わない私は、夫のことが好きではないのかもしれない。
いや、好きではあるものの、「子どもを産みたい」というレベルの好きに到達していないのかもしれない。
あるいは、「子どもを産みたい」というレベルの好きに到達はしているものの、
「自分の子どもを、より強固な個体として産むために優秀なオスの遺伝子を組み込みたい」
という本能がないのかもしれない。
***
クジャクのオスは、見事な羽を広げてメスにアピールをする。
小さい頃、動物図鑑でそのオスのクジャクの美しい羽を見て思ったことがある。
「これ、邪魔じゃね?」
と。
だが、その「邪魔であること」こそが強さの証なのだ。なぜならば、
「これほどまでに邪魔な大きい羽を持っていても、自分は生き残る力があるんだぞ」
とメスにアピールすることができるからだ。
だから、メスは美しく大きな羽を持つオスを交尾の相手として選ぶ。そういう「強いオス」を相手に選べば、これから生まれてくる自分の子供の生存率を上げることができるからだ。
……こういう、メスとしての本能が私には搭載されていないのかもしれない。
■「なんで、子供産まないの?」という質問をもらった時に思うこと
私は、「子どもが欲しい」という母の気持ちが理解できなかった。
繰り返しになるが、これは「子どもが欲しいと思う母の気持ち」を否定しているわけではない。
私はベンツを欲しいと思わない。
だから、ベンツを欲しいと思って買った人の気持ちはわからない。
だが、その人の気持ちが分からないからといって、ベンツを欲しがる気持ちを否定しているワケではもちろんない。むしろ
「憧れのベンツ、手に入って良かったやん!!」
という気持ちすら抱いている。
これと、一緒だ。
自分が欲しいと思わないから、「欲しいと思っている人の気持ちがわからない」。
ただ、それだけの話だ。
そして、「子どもが欲しい人の気持ちを私が理解できない」ということは。
当たり前のことであるが
「子どもが欲しくないという私の気持ち」
も他人から理解はされないのである。
***
先日、大阪の「樟葉(くずは)」という駅に行った。
大学時代の友人Aに会いに行くためだった。
Aは既婚者で、小さい子供がいる。だから、中々私がいる東京まで出てくることができない。なので、毎回私が大阪まで遊びに行っているのだ。
ところが、珍しいことに友人Bも来ることになった。Bも既婚者で、その時奥さんが妊娠中だった。だから、私は
「え!!奥さん妊娠中なの!?」
「じゃあ、今回だけは奥さんのそばに居てあげたほうがいいんじゃない?」
と伝えた。だが、Bから返ってきた返事は
「安定期に入ったし、奥さんは里帰り出産で自分の実家にいるから大丈夫」
だった。
ということで、AとBと私の3人で、樟葉の駅前でご飯を食べた。
GWの最終日あたりだったと思う。パスタ屋さんで、お酒を飲みながらワイワイ喋っていた。
Aはすでに子供がいるし、Bももうすぐ子供が生まれる。なので自然と話題は子供のことになった。
うんうんと話を聞いていたのだが、話題が途切れたところでBが私にこう質問した。
「お前さぁ、なんで子供うまないの?」
と。
ビール瓶で頭ぶんなぐってそのまま帰ろうかと思った。
「子どもを産まないの?」と聞かれたことに対して怒ったのではもちろん、ない。
そうではなく、
「もしかしたら相手は不妊治療中かもしれない」
「もしかしたら不妊治療を頑張ったけどあまりに辛くて断念したのかもしれない」
「もしかしたら流産や死産を経験したことがあるかもしれない」
「もしかしたら子供を持ちたくても持てなかったかもしれない」
といった、「人として当たり前の想像力」すら働かせなかった、その雑な扱いをされたことに対して怒りを覚えたのだった。
その場に来てくれていたAの顔を立ててその場はにこやかにふるまったが、内心これから子供が生まれてくるBに対して、
「お前、そんなんで人の親になれんの?」
と怒り心頭だった。
■どうしても、他人に興味が持てない私はやっぱちょっと変なのかも
「お前、なんで子供産まないの?」と聞かれて改めて思った。
なぜ、そこまで他人に興味が持てるのだろうか。
皮肉で言っているのでは全くない。自分自身が他人に興味を持てないから心底知りたいのだ。
ぶっちゃけ言ってしまうと私は初めて付き合った彼氏の名前すら憶えていない。
部活の仲間たちから「ノリ」とだけ呼ばれていたのは覚えている。
多分、「ノリスケ」とか「ノリオ」とかそういう名前だったのだろう。
私が興味があるのは、
「なぜ蟻は高度三千メートルの高さから落ちても死なないのか」
「なぜ温度はマイナス273℃までしか下がらないのか」
「インドのカレーはスープカレーなのに、なぜインドから伝わった日本のカレーはスープカレーではなくドロドロのルーなのだろうか」
「南北戦争、南北朝時代など南北で争うことはあるのに、なぜ東西戦争、東西朝時代はないのだろう」
「シマウマって毛を刈り取ったらその下もしましま模様なのかな」
「登山すると、山頂に近づくほど寒くなるけど、なんで熱源である太陽に近づくほど寒くなるのかな」
といったことなのだ。
「あの人は子供を産んだんだな」、「あの人は子供を産まないことを選んだんだな」とか。
私は、他人に対して、どうしても、どうしても、どうしても興味が持てない。
私は、私の人生を生きるのにあまりに忙しすぎるからだ。
どうして、みんな、そんなに、他人に、興味が、もてるの?
なんか時々自分がここまで変であることに不安を覚える。
他人に興味がなさすぎて、芸能人のスキャンダルとかも一切頭に入ってこない。
ってか、もはや「アイドルといったら山口百恵」ぐらいで時代が止まってる。
小さい頃、ちびまる子ちゃんが好きだったのだが、まるちゃんの漫画には当時のアイドルである山口百恵さんがたびたび登場する。
だから、百恵ちゃんのことだけは覚えることができたのだ。
……このレベルで他人に興味が持てないのである。
やっぱもうちょっと、他人に興味を持った方が良いのかもしれない。
***
私は「最寄りのコンビニまで車で40分☆」みたいなド田舎で生まれ育った。
ド田舎ではとにかく「他人の行動を監視することが極上の娯楽」である。
「〇〇さんちの奥さん、子どもを保育園に預けてドラッグストアで働き始めたらしいわよ」
「車が朝8時半から夕方16時までないから勤務時間はきっと9時から15時半ごろなのね」
「まだ子供が小さいのに保育園に預けちゃって、かわいそうだと思わないのかしら、ひどい母親だわ」
「9時から15時半ってことは時給換算すると月に〇円稼いでいることになるわね」
「旦那が大企業に勤務しているのに、奥さんを働かせるなんて甲斐性がないのねぇ、もしかして給料低いのかしら」
なんて会話が平然と行われるのだ。
そして当然、こういった田舎では「他人が子どもを産んでいるのかどうか」に対して異常なまでに関心が寄せられるのだ。
■子供を持つことを選んだ女性に対して、関心がない理由
私は正直、「子どもを産むことを選びました」という女性を見ても次のような感想しか浮かばない。
「あなたはその戦場で生きることを選んだんですね」
という感想しか浮かばないのだ。
誰しもが、それぞれの戦場で生きている。
誰しもが、それぞれの地獄で生きている。
そしてその地獄は実に個別的なものである。
そして、「子どもを産める環境にいながらも、子どもを持たないことを自ら選んだ女性」たちに対しても関心がない。
理由はシンプル。これだ。
「私には、一切、関係がないから」
だ。
なぜなら、その人の人生はその人のものであって、その人が「どう生きるのか」はその人が決めることだからだ。
私に決める権限は一切ない。
っていうか、「決める権限が私にある」と思い込んでいたらむしろ大問題だ。
結婚しようが結婚しまいが。
子どもを持とうが子どもをもたまいが。
賃貸で暮らそうが持ち家を買おうが。
地方に住もうが東京に住もうが。
会社員で働こうが独立して起業しようが。
それはもう、その人の人生だ。
その人が決めるべきことであって、私には一切関係がない。だから、関心がない。
「あなたはその人生を選んだんですね」、で終わりだ。
「あなたは」、その戦場を選んだんだな。
お互い、生きて帰ろう。
グッドラック。
そう思って終わりなのだ。
■「子どもを持たないことを本当に選んでよいのだろうか」という女性たちの苦悩
世の中には、
産まないことを選んだ女性たち
を描いた書籍がたくさん出版されている。
▼ちょっとAmazonで検索しただけでワンサカ出てくる
どの書籍にも、
「子どもを持たないことを本当に選んでよいのだろうか」
という苦悩が描かれていた。
正直、かなり驚いた。
「子どもを持てる環境にいながらも、
子どもを持たないことを選んだ女性たち
あるいは子どもを持たないことを
選ぼうとしている女性たち」が
こんなにも苦しみながら生きていることに。
「子どもを産むことを選んだ人を見ると『あ、私の仲間ではないのね』と思ってしまう」
「子どもを産んだ人に囲まれると、なんだか責められているように感じる」
「自分の居場所が無いような気がする」
「子どもを産めるのに産まないことを選ぶのは、なんだか悪いことをしている気がする」
世の「子どもを持たないことを選んだ女性たち」はこんなにも苦しみながら生きているのか。
「つらかったね」、と思うと同時に、一抹の不安に襲われた。
私も少しは罪悪感を抱いた方がいいのだろうか。
子どもを持たないことを後悔した方が良いのだろうか。
子どもを産んだ女性に対して、引け目を感じたほうがいいのだろうか。
だけど、私はシンプルに。見てのとおり本当にマジで頭が悪いので、そんなことを考えているとどんどん思考が逸れていく。
「今日マジでねっむ」とか
「かっっっったいクッキーが食べたいな」とか
「次の休み、車運転して軽井沢でもドライブすっかな」とか
「やばい、原稿の締め切りまであと14日しかない」とか
「バスクリンがそろそろなくなりそうなんだよな、次の入浴剤はどれにしようかな、ユズにしようかな」とか
そういうことを考え始めてしまうのだ。
一生懸命、「子どもを持たないと決めたことで苦しんでいる女性たち」と同じように苦しむべきなのかを考えていると思考がそれていってしまうのだった。
先日も年配の女性から
「女のくせに会社辞めて起業するなんて」
「OLとしてお茶くみするのが身の丈にあってるわよ」
「旦那さまの一歩後ろを歩きなさい」
「旦那さまより稼いではいけません」
「子どもはどうするの?」
「年齢的に急がないと」
と言われ咄嗟に「お前のために生きてないんで大丈夫です」って言いそうになったけど、ここは耐えねばと思い、グッとこらえて「お前のために生きてないんで大丈夫です」って大人の回答をしておいた。
「女性はこう生きるべき!」
という価値観を持ち、その自分の価値観に従って生きることは(皮肉なしに)素晴らしいことなのだが、それを他人に押し付けてはいけないと心から思う。
だって人はみな、自由なのだから。
■生物のメスは子供を産むために存在しているのか?
村上龍が書いた小説の中で、忘れられないセリフがある。
「こういう女性を放置すると、またポロポロと子供を産むかもしれない」というセリフだ。
マジですまんが、どういう文脈でこのセリフが出てきたのかは完全に忘れた。
たしか『愛と幻想のファシズム』という小説に出てきたセリフだ。
「性に関する知識がない年若い女性たちをどう管理するのか」について、男たちが議論するシーンで出てきたセリフだった気がする。
まぁどういうシーンだったのかはさておき。
私が強烈にショックを受けたのは「ポロポロ」という副詞だ。およそ、「産む」という動詞を形容するには不適切であるように思える。
なんだかまるで、「何にも考えずに子供を産んでいる」ように聞こえてしまったのだった。
***
「シロアリ」と呼ばれる、人間から忌み嫌われる昆虫がいる。
シロアリはコロニーを作って生活する。
そのコロニーの頂点に立つのは、王である「オスのアリ」と、女王である「メスのアリ」である。その下に兵隊アリや働きアリが国王たちに仕えて仕事をしている。
このコロニーの中で、子どもを産むことができるのは女王アリだけだ。他のメスのアリたちは、子どもを産む能力を持っていない。
だから、種を保存するために他のアリたちは女王が産む卵の世話をせっせと行う。女王は卵を産む以外のことは一切しない。
エサも他のアリが運んでくれるし、自分の排せつ物の世話も、卵を産むための部屋の掃除も他のアリがやってくれる。
なぜなら卵を産むのが女王の仕事だからだ。それだけが、彼女の仕事なのである。
女王アリは、なんと一日に数百もの卵を一年中休むことなく産むのだという。
365日、年中無休で産み続ける。
もし私が女王アリなら、気が狂ってしまうかもしれない。
しかし、一つだけ問題がある。
女王がいるこの「卵を産むための部屋」は木の中にあるということだ。
木の中に部屋が存在し、その部屋の壁や天井を引きちぎって食べている。つまり、食べ続けているからいずれ女王が暮らしているその部屋はなくなってしまうのだ。
「じゃあ部屋がなくなったら、新しい木を見つけてそこに引っ越すんですね」
と、思いきやそうではない。女王は、移動ができないのだ。なぜなら卵を年中無休で産むために異常なほど腹部が発達しているからだ。
大きな大きなお腹をかかえているから、女王アリは自分では動くことができない。
じゃあ、今まで女王の世話をかいがいしく行っていた働きアリたちが運んでくれるのかと思いきや。
そうではないのだ。
なんと女王に仕えていたアリたちは、女王を連れて引っ越しをするとは限らないのだ。
女王のすぐそばには、女王が死亡した時のために「副女王」が控えている。
そして、引っ越しをするその時がやってきた瞬間。
もしも今の女王が、働きアリたちに「卵を産む能力が低い」と判断されれば、働きアリたちは女王を運ばないのだという。
そして、女王を残して次の木に引っ越しをし、副女王が次の女王の座につく。
「子どもを産めなくなったら、もう用済み」。
すごい最期だと率直に思う。
私が女王だったら命乞いをするだろう。助けてくれと。
だが働きアリたちから見れば、もう卵を産めない女王に用はない。
副女王と一緒に、一匹、また一匹と部屋から出ていくアリたち。
残されたのは自分が今まで卵を産み続けてきた部屋の残骸。
もう誰もご飯を運んできてくれない。排せつ物の掃除もしてくれない。
一人ぼっちで、残された狭いこの部屋で餓死するしかないのだ。
***
イギリスの初代女王は?
とAIに聞いたことがある。
案の定、「エリザベス1世」と答えてきた。
ネットに書いてある情報をなんとなく収集して、「それっぽい答え」を生成したのだろう。
まぁイギリスの初代女王が誰なのかは歴史家によって回答が違うだろうから、そこはいったん置いといて。
エリザベス1世は、実は望まれて生まれてきた子供ではなかった。
なぜならエリザベス1世の父親である当時の国王は、「男の子がほしい」と思っていたからだ。
「……私なら、男の子を生めますよ」
そう言って、エリザベス女王の父に近づいてきた女性がいた。
彼女の名はアン・ブーリン。
この女性こそが、エリザベス女王の母親なのである。
こうしてアン・ブーリンはめでたく国王の妃になった。妃になったアンは懐妊したが、生まれてきた子供は「残念ながら」女の子だった。
こうして、アンは処刑された。
1536年5月19日のことだった。
もともとの処刑予定日は、5月18日だったそうだ。しかし、この日は処刑の準備が間に合わず
「ごめーん!今日処刑するのムリだからやっぱ明日にするわ!」
と処刑日が翌日に延期になったそうだ。
こうして、翌日。アンは剣で首をはねられて処刑された。
5月18日に予定されていた処刑が、翌日の19日に延期になる。
「自分が生きるはずのなかった1日を生きさせられる」のはどんな気持ちだったのだろうか。
アン・ブーリンは一般的に、悪人として描かれることが多い。
だが、別にこの世には「悪人」と「善人」がいるわけではないのだ。
一人の人間が、善いことも悪いこともする。それだけの話だ。
アンが残した最後の言葉は
「王は、善良な人でした」
だったそうだ。
アンからすると、ぶっちゃけ
「んなワケあるか」
という気持ちだっただろうと思う。なにせ、アンにとっての夫は
「男の子を産めなかったがゆえに自分を殺害した人間」
なのだから。
だが、アンは夫である国王のことを「善良な人でした」と言った。その目的は明白だ。
残された娘、エリザベスを守るためである。
客観的に見れば、アンにとってエリザベスは「自分が処刑されることを決定づけた因子」である。場合によっては、
「お前が男として生まれてくれば、私は殺されずに済んだのに」
とエリザベスを憎んでもおかしくはない。
だが、アンが最後の言葉として選んだのは、「王は善良な人でした」だった。
ひとえに、エリザベスを大切に思っていたが故の言葉である。
毎年5月19日になると、アンのことを思い出す。
男の子を産むためだけに国王の妃に選ばれ、男の子を産めなかったがゆえに、首を切られたアンのことを。
***
子どもを産めなくなったら用済みとなるシロアリの女王。
望んだ性別の子を産めなかったから処刑された国王の妃。
「産めないことを悪とする」
その価値観の是非は今はいったん横に置いておくとして、この価値観そのものは日本にも存在している。
日本には「産女(うぶめ)」という妖怪がいる。
産女とは、出産の途中や妊娠中に亡くなった女性の霊が妖怪となったものだ。
かつての封建社会では「家を存続させること」が重要であった。そのため、
子を産めずに亡くなった女性は「血の池地獄」に堕ちる
と考えられることもあった。その無念や執着が、産女という妖怪の姿として語り継がれたのである。
「産めないことは、イコール悪である」。
現代人である私たちがどう感じるかはさておき、この価値観は昔から存在しているらしい。
***
とある番組で、黒柳徹子さんが「結婚しなかったこと、子どもがいないことについて後悔はないのか」
と質問をされ「ごめんなさいね。これっぽっちもないわ」と回答したそうだ。
それが本当なのかどうか私は知らない。その番組を実際に見てないからだ。
だがそれが本当なのだとしたら、なんか、ちょっぴり押しつけがましい雰囲気を感じてしまうのだ。ってか実際、黒柳さんも
「(あなたが期待するような回答ができなくて)ごめんなさいね」
と、含みのある回答をしているし。
だからこの質問からは、
「子どもを産まなかったことを、お前は申し訳なく思うべきだ」
というニオイをどことなく感じてしまうのである。まぁ、私の考えすぎかもしれないが。
子どもを持たないことを選んだ女性が書いたブログか何かで読んだのだが、子どもを産んでないその女性は出産経験のある女性から
「これだから分娩台に上ったことがない人は」
という言葉を投げられたことがあるそうだ。
子どもを産まない女は、社会の癌なのだろうか。
***
少子化対策とは、出産を望まない女性に出産を強要することではない。
しかし、
「子どもを産まない女は社会の癌である」
と信じ、本当に自国の国民に「出産を強制する政策」を行った独裁者がかつて実在したのをご存じだろうか。
最低5人を産むことが、女性の国民に事実上強制された国があったのだ。
しかも、その独裁者本人は5人産んでいない。
彼女が産んだ人数は3人だった。
「国の人口を増やす」ことを目的に行われたこの政策の結果、一体何が起こったか。
・避妊具の入手を困難にしたため望まない妊娠が増加し
・中絶を事実上禁止にしたため危険な闇中絶が横行し
・そして生まれたとしても、親がその子を育てることができない
・だから孤児院への大量収容が発生し
・孤児院に入れなかった子どもたちは路上で暮らす
……という結末を迎えたのだった。
そしてこの独裁者は銃殺刑に処され、その様子はTVで世界中に放映された。
1989年、クリスマス当日。
午後2時50分のことだった。
***
子どもを産まないことを選んだ女性が書いた本は何冊か存在する。その本の中で、とある著者が
「子どもを産まない代わりに、世の中にいる子どもを産んだ女性たちをサポートしている」
といったことを書いていた。
すごくよく分かる。私自身も、子供を産まない代わりに非常に高額な税金を国に納税している。なんと納める税金が高額すぎて、国から
「来年の分の税も払ってね」
と言われる始末だ。高額納税者は、あらかじめ税金を来年の分もあわせて支払う必要があるからだ。
だが、それでいいのだ。
高額な納税をすることによって、子育て世代の支援を行っているのだから。
さて、この
「子どもを産まない代わりに、子供を産んだ人のサポートをしている」
というその文章を読んで、思い出したことある。
生物学の本に書いてあった「他のメスの出産をサポートするメス」の話だ。
ある生物の群れの中で、「周りの大勢のメスをサポートするメス」がいたとする。このメスは、ひたすら他のメスの出産をサポートする。
すると、サポートしてくれる個体がいるため、当然他のメスはどんどん子どもを産み育てることができる。結果、群れ全体を見た時に「個体数」はかなり増えることになる。
ところが、である。
周りをサポートしすぎるがゆえに、こういったサポートに徹するメスは自分の子孫を残すことができない。
だから、「サポートに徹するメス」がいたとしても、サポートに徹するメスの遺伝子は次世代に引き継がれない。
だから、「自分の子供を産むことを最優先にするメス」が子どもを残す。そうして、種全体を見た時に
「自分の子供を産むことを最優先にする個体」
が増えていく。
つまり、である。
進化によって広まるのは、種を繁栄させる性質ではなく、「自分の」遺伝子を増やす性質ということだ。
「進化が種を繁栄させるように見えるのは、自分の子孫を増やす性質が広がり、結果的に個体が増えるから」
なのだそうだ。
ってことは、だ。
生物というのは、子孫を残すためにいるんじゃなくて、「自分の」子孫を残すために存在していると推断できそうだ。
こういうことを書くと、
「じゃあ自分の子孫を残さない個体は価値がないってことですか!?」
というお声が聞こえてきそうだが、もちろんそんなことはない。
子孫を残すために生まれてきたワケではない個体も、少なからず存在している。
たとえば、アブラムシがそうだ。
私は昆虫が好きだ。その中でも特に好きなのがアブラムシである。
アブラムシには4,000以上の種類があるのだが、そのうち50種は兵隊アブラムシという階級を持っているそうだ。
兵隊アブラムシとは、その名の通り
「闘うためだけに生まれてきた戦闘用の個体」
である。
兵隊アブラムシは全員メスであり、生まれた時から武器を持っている。
口針を持っているのだが、その針には毒があり、「アブラムシを餌として捕食する天敵」の厚い皮膚を貫通させることができるそうだ。
そして、なんとも驚くことに、彼女たちは全員大人にはなれない。
全員、少女兵のまま死んでいくという。
普通のアブラムシは卵から生まれ、一齢幼虫から脱皮を繰り返して成虫となり子供を産む。
しかし、兵隊アブラムシは一齢幼虫のまま生涯を終える。つまり、子どもを産むことがない。子供を産めない幼虫のまま、闘って死んでいく。
闘うために生まれてきたから、子どもを産む必要がないのだ。
だから、「子どもを産むための体」に成長することなく死んでいく。
アブラムシの寿命は1カ月程度だそうだが、兵隊アブラムシの場合は天寿を全うできない個体が多いだろう。
なぜなら前線で天敵と常に死闘を繰り広げる運命にあるからだ。幼虫のままだから、彼女たちの体は1ミリメートルにも満たない。そんな小さな体で、自分の何十倍もの大きさのある天敵に襲い掛かる。
生物は、子どもを産むために生まれてくるワケではない。
「子供を産んだ個体」が、ただ子孫を残しているにすぎない。
ただそれだけの話なのかもしれない。
■「あなたの人生は、あなただけのものだ」
12歳の時、「あなたがもしこの先結婚したら、嫁ぎ先のお墓に入ることになるのよ」と母に言われたことがある。
私は見ての通り本当にバカなので、「なんで!?」と反射的に思った。
だから、本当にそのまま「なんで!?」と母に言ってしまったのである
その瞬間、母は黙った。
そしてしばらく沈黙した後、
「今のは忘れて」
と言った。
この時のことはよく覚えている。そして、その日の夜、布団の中でこう考えた。
「私の体は、私のものなのに、どうして、私が死んだ後ですら、自分の自由にできないんだろう?」
と、12歳の私は思ったのだ。
私は社会学者ではないので、
なぜ「嫁いだら嫁ぎ先のお墓に入らなければいけないのか」
その理由はわからない。
分からないが、なんとなく
「嫁いできた嫁は死んだ後ですら嫁ぎ先の所有物である」
という感覚が、家父長制度が根付いた社会の根底にはあるのだろう。
「今のは忘れて」といった母は、
「家父長制でつらい思いをしてきたまさに自分が、家父長制を再生産することに寄与することなど、あってはならない」
という顔をしていた。
***
高校の2年か3年になったころ、
「あんたみたいに、好きなところに行き、好きに生きることができるのは、当たり前じゃないんだよ、
そうできない人もたくさんいるんだよ、だから、感謝しないといけないんだよ」
と母に言われたことがある。
この瞬間、私は反射的にこう思った。
「好きなところに行き、好きに生きられるのって、当たり前なんじゃないの!?」
と。
だって憲法で「移動の自由」が認められてるじゃん!?「職業選択の自由」が認められてるじゃん!?
憲法で「好きなところに行き、好きに生きる」ことが許されてるじゃん!?
ってか憲法で明文化されてなかったとしても、小学校の社会の授業で
1776年のアメリカ独立宣言、1789年のフランス革命で
「どうやら人には人権っつーもんがあるらしいぜキャッホオオオウ!!!」
と、人権が「発明」されましたって。アタシそう習ったんですけど!?もしかして私の知らないうちに
「やっぱ人には人権ねーわ、さっきのナシな!!」
とか、何かそういう感じになっちゃった感じっすか!?授業中にノートにひたすらラクガキして遊んでたから、聞き逃しちゃった感じっすか!?
……と高校生の私はそう思ったのだった。
本当に、バカだった。
好きなところに行き、好きに生きる。
その権利は確かにすべての人に与えられている。
だが、その権利を行使できない環境に「強制的に」置かされている人も大勢いるのだ。そんな簡単なことも、想像する力が私にはなかった。
「好きなところに行き、好きに生きな」。
映画『もののけ姫』で、サンがヤックルに言ったセリフだ。
そして私自身、この「好きなところに行き、好きに生きな」というメッセージを全身全霊で受けながら父と母に大切に育てられた。
「好きなところに行き、好きに生きな」。
これ以上の愛が、果たしてこの世に存在するだろうか。
あぁ、なるほどなと思った。
やっと、理解できた。
私が「子どもを産まない人生を歩む」ことに対して、一切の罪悪感を覚えないのは、きっと「好きなところに行き、好きに生きな」と言われて育ったからなのだろう。
好きなところに行き、好きに生きていけるよう、いろんな経験をさせてもらった。
いろんな知恵を与えてくれた。たくさん叱って、たくさん褒めて、毎日毎日「大好きだよ」と言われて育てられた。
「好きなところに行き、好きに生きな」と娘に伝え続け、その上で「好きなところに行き、好きに生きていける力」を授けてくれたのだ。
おかげで私は、マジで好きなところに行き、好きに生きている。
そうか、と思った。
愛されて育ったから、私は何のためらいもなく自由に自分の人生を生きることができてるのだ。
だから、「子どもを産まない人生を歩む」ことに対して、一切の罪悪感を覚えないのだ。
だって「子どもを産まない人生」は、私が望んで選んだ人生だから。
……やっぱアレだな。感謝が足りてねぇな。
私の母は
「あんたみたいに、好きなところに行き、好きに生きることができるのは、当たり前じゃないんだよ、そうできない人もたくさんいるんだよ、だから、感謝しないといけないんだよ」
と、高校生である私にそう言った。
本当に、その通りだね、お母さん。
私、感謝が足りてないね。
こんなに自由に生きていけるよう、目いっぱいの愛情をもって育ててくれて、本当にありがとう。
■おわりに
今回、「なぜ子供を産まない人生を選んだのか」、その理由を丁寧に言語化して言葉をつむいでみた。
きっと、私の姿を見て、多くの人が「こんな人間がこの世に存在するのか」と驚いたことだろうと思う。
私はマイノリティの中でもさらにマイノリティなのだ。
だって、「産みたくない」を通り越して、産むという発想がなかったのだから。
でも、これでいいのだ。
私は「8人は軽く産めるよ」とかつて産婦人科で言われた。
だが、産むことは選ばなかった。なぜなら、
「できること」は、イコール「必ずすべきこと」ではない
からである。
これまで見てきたように、生物はとにかく多様性を担保することに莫大なリソースを割いてきた。
42億年前にルカが生まれた時は「無性生殖」を採用していたが、その後
「やっべぇ、ただのコピーじゃ全滅しちゃうじゃん」
と気づき、生命はオスとメスを「発明」した。そして、たった一組の夫婦から、70兆種類もの人間を産めるようプログラムした。
このように、とにもかくにも生命は
「いかに一人ひとりを違う個体にするか」
にリソースを割いてきたのだ。
だから、
「他の人みたいに、子どもを欲しいと思わない私はおかしいのかもしれない」
「子どもを産みたいと自然に思える人たちと違っている私はおかしいのかもしれない」
とか思う必要はない。
違うことは、おかしくない。
なぜなら今まで見てきたように「いかに他の個体と違う個体に作り上げるか」に、我々生物は膨大なリソースを割いてきたのだから。
「違うことはおかしい」とかそういう話ではない。
っていうか、むしろ「同じだとマズイ」のである。
同じだと、多様性を担保できなくなっちゃうじゃん。多様性を担保できなくなれば、環境変動が起きた時に一度に全員死んじゃうじゃん。
じゃあ、他の人と同じじゃマズイじゃん。
だから、である。
人類の中には時々、私みたいに
「子どもを産む選択肢が頭からスポーン!と抜け落ちている個体」
が生まれてくることもあるのだろう。
これも、種を保存するためなのかもしれない。
子どもを産まないことを選択すると、
「子を産んだ場合に起こるであろう体の変化」
が私には起こらない。そうすると、
「子を産んだ他の個体とは体のつくりが違う個体」
が出来上がる。そうすることで、多様性を担保しているのだろう。
種そのものを、絶滅させないために。
***
これまでに出版されてきた「子供を持たないことにした女性たち」の本は、
「子どもを持たない人生を選ぶことに、悩んでいる女性」
を救ういわば「読むカウンセリング」だと思った。
一方、私が書いた今回の作品は、真逆だ。
すなわち、『「子どもを持たない人生を選んだことに、これっぽっちの後悔もないのだが、
少しは悩んだり後悔したり罪悪感を覚えた方が良いのでは」と悩みつつも、
悩んでいるうちに「プリン食べたいな」と思考が逸れてしまいそのまま外に出てコンビニを買ってプリンを食べて満足した後に
自分の人生を全力で生きることに集中する毎日に自動で戻ってしまう女性』に寄り添うために書いた文章だ。
……まぁ、長々と書いてきたが結論はたったの一行である。
「好きなところに行き、好きに生きればいい」。
これだけだ。
ねぇ、みんな。今どこにいる?
家の寝室かな。電車の中かな。車の中かな。カフェの中かな。
どこにいるのかはわかんないんだけど、窓開けて外見てみ?
今が昼なら太陽が見えるでしょ。
あのね、太陽の寿命って、100億年ほどしかないんだって。
でね、今、太陽が生まれてから46億年が経過しているんだって。
単純計算で太陽の寿命は残り54億年ってことなのよ。
54億年経てば、太陽は消えてなくなっちゃうの。なぜなら、燃料となる水素がなくなるから。
燃料となる水素は、核融合反応によりヘリウムに替わるんだって。そうすると、太陽の中心にヘリウムが貯まり続けて太陽がどんどん膨張していく。
膨張した太陽がどれくらいの大きさになるのかというと、なんと今の200倍と推定されている。つまり、それだけ大きくなれば当然地球は飲み込まれて消えちゃうのよ。
54億年後には、地球が無くなる。
そうなんだよ。ぜ~んぶ、無くなっちゃうのよ。
たとえば、子孫を残しても。
起業して自分の会社をつくったとしても。
本を出版して自分が生きた証を残しても。
家を買って自分の持ち家を建てたとしても。
偉業を成し遂げて歴史に名を残したとしても。
最後には、ぜ~んぶ消えてなくなる。
だからもう、好きに生きたらいいんじゃないかな。
漫画『ヘルシング』に出てくる、不老不死のドラキュラはこう言っていた。
「永遠なぞというものは、この世には存在しない」
そうなのだ。最後には全部なくなっちゃうのだ。そのことを、やっぱり意識して生きてったほうが良いと思うんだ。
ってことで、ありったけの愛をもってこの言葉で締めようと思う。
好きなところに行き、好きに生きよう。
おーーーーーーわりっ!!!!!
(了)
■あとがき
今回のエッセイ、すさまじい大反響でたくさんのご感想をいただいた。その感想の中で、一番「たしかに!」と思ったのがこちらの一行だ。
「子どもを産む人は理由を説明しなくていいのに、
子どもを産まない人はなんで理由を説明しなくちゃいけないんだろう」
すごい。私こんなこと考えたこともなかった(笑)。たしかに、なんでなんだろうね。
ちなみにこのご感想を書いてくださった方は、同じ感想マシュマロの中でこんな言葉を残していた。
▼原文がこちら
マロ主さんの文章の中に
「私の両親は、『子供はまだか』みたいなことは言ってきません」
って書いてあったけど、いやほんっとごめん、
でしょうねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ってコンマ2秒で思ったよ(笑)。
いや、だってさ。そんなん手に取るようにわかるよ。
「子どものことをここまで優先してくれる素敵な両親に育てられた」
ってお子さんに言われるような親御さんなんだよ??
そりゃ~「子供はまだか」なんて。マロ主さんを傷つけるような、こんな心無い言葉を言うわけがない。
たとえ銃口突き付けられても、こんなひどい言葉、絶対に言わないと思うよ。
だってこれ、「孫の顔が見たい」という欲望を叶える道具として、娘を使おうとしてるってことだからね。
(まぁ、「親の顔が見たい」と思っているかどうかは、そのご家庭の親御さんによる。だから、一概に「地球上にいるすべての親が、孫の顔を見たいと思っている」とは断定できないんだけどね)
自分、欲望を、叶えるための道具として、娘を「使う」。
これってね、立派な暴力なんですよ。
わかりますか、暴力なんです。
だからマロ主さんのご両親が、「子どもはまだか」と言ってこないのは当たり前なんですよ。
マロ主さんがご両親と同居しているか、それとも別々に暮らしているのかはわからないんだけどさ。
マロ主さんのご両親はね、賭けてもいい。
マロ主さんが「元気でいるか」、そして「幸せでいるか」のこの2点にしか興味がないよ(笑)。
よ~く観察してみ??たとえば半年ぶりに帰省した時に、ご両親が
どんな質問をしてくるのか
よ~く観察してみるの。
すると、絶対にこんな質問してくると思う。
「ちゃんとご飯食べてるの?」
「お仕事は辛くない?」
「ちゃんと眠れてる?」
「風邪ひかないようにね」
って聞いてくるでしょ。
これはですね、マロ主さんが「元気でいるか」、そして「幸せでいるか」にしか興味がないからですよ(笑)。そしてこれらの質問はね、翻訳すると
「大好きだよ」
って意味なんですよ。
そんな風に、自分のことを大好きでいてくれる両親がいるんだよ?そんな両親への一番の恩返しは、
「思いっっっっきり自分の人生を楽しむこと」
なんですよ。これが一番喜ぶと思うよ(笑)。
だから、
「私の人生は私だけのものって、強く思って生きていきたいです」
と書いてくれたその覚悟を、ぜひ忘れないでほしい。
……ってか、「私の人生は、私のものだ」なんて小泉構文を言わなくてはいけない世の中って、なんかちょっと変だよね(笑)。だってそれ、当たり前のことだからさ。
マロ主さん、
「親を喜ばせるために、子どもを産んだ方が良いのだろうか」
なんて考える必要、一切ないよ。
もちろん、マロ主さんご自身が
「自分は結婚をしたい!」
「子どもを産んで、母になりたい!」
「それこそが、自分の望む人生なんだ!」
と思うなら、もちろんその人生を歩んだらいいんだよ。
なぜなら、あなたの人生は、あなただけのものだからだ。
だけど、
「結婚をして子どもを産むことは自分が望んでいる人生とは違う……」
「でも親が喜ぶだろうから……」
「だから、自分を押し殺してでも、結婚して出産して孫の顔を見せて親孝行をしたい」
と考えることがあるのなら、
それは「ちょっと待った」
って話になってくるわけよ。
マロ主さんはお子さんがいらっしゃらないから、えーと……例えば実家で一緒に暮らしている愛犬とか、猫ちゃんとか、ハムちゃんとか、うさぎさんとか、鳥さんとか。
どんな子でもいいんだけど、マロ主さんが心から愛している子がいたとするじゃない?
で、すっごく極端な話さ。たとえばマロ主さんが
「スプラッタ映画が大好き」
だったとするじゃない?で、それを知った愛犬が
「ご主人さまは、スプラッタ映画が大好きなんだ!」
「じゃあ、ご主人さまを喜ばせるために、自分の体を傷つけて、血をブシャーって出そう!」
「怖いし、痛いの嫌だけど、ご主人が喜ぶだろうから、自分で自分のお腹にナイフを当てて、お腹を切ろう!」
と、自分を傷つけたら。
どう、思う?
「どおおおおおおおおおおして、そんなことするんだよおおおおおおおおおおおおお!!!」
って泣き崩れると思うんだよね。
元気でいてくれれば、それでいいんだよ!!!!!!!!!
幸せでいてくれれば、それでいいんだよ!!!!!!!!!
自らを傷つけてまで、飼い主である自分を喜ばせることなんて、しなくていいんだよ!!!!!!!!!
きっと、そう思うと思うんだよね。
「自分を愛してくれる人を喜ばせるための道具」として
自分を使う必要なんて、ないんだよ。
むしろ、そんな風に自分を道具みたいに扱ったら、自分を愛してくれてる人を悲しませることになるんだよ。
だからね、マロ主さんが書いてくれた
「私の人生は私だけのものって、強く思って生きていきたいです」
というこの一行はね。ご両親が聞いたらすっごく喜ぶと思うよ~!!!(笑)
だってこの意志があれば、ご両親はきっとこう思うはずなんだよ。
「私の人生は私だけのものって、強く思って生きていきたいです」と、娘は言ってくれた。
だとしたら、たとえ親である自分たちがこの先天寿を全うしたとしても。
残された娘は、好きなところに行き、好きに生きてくれるだろう。
そうすれば、娘はきっと、幸せな人生を歩み続けるだろう。
そう確信できるからさ。
私はね、大学生の時にとある講義を受けてる時に教授からこんな言葉を言われました。
「人はね、世界への信頼感がないと、死ねないんですよ」
と。この言葉がずぅ~っと忘れられないんだけど、きっとこういうことなんじゃないかな。
自分たちがいなくなった後も、大好きな娘が本当に幸せな人生を歩めるのか確信が持てないなら、安心して天寿を全うできないじゃない。
でも、大好きな娘が
「自分たちがいなくなった後もきっと幸せに生きてくれるだろう」
と確信できたら、安心して旅立つことができるでしょ?
だから、
「私の人生は私だけのものって、強く思って生きていきたいです」
というこの言葉。ぜひご両親にも伝えてほしい。きっと、すっごく喜ぶと思うよ(笑)。
そして、マロ主さん自身も絶対にこの言葉を忘れないでほしい。
もちろん、人生いろいろあるから、時々忘れちゃうこともあると思う。
ほら、「人生は心電図」って例えがあるじゃん。
まるで心電図のように、人生には波がある。良い時もあれば悪い時もある。で、悪い時にはマロ主さんが書いてくれた
「私の人生は私だけのものだ」
って覚悟を忘れちゃうこともあるかもしれない。
だって心電図って、波がなくなって
「-----」(ピー)
ってなったらさ。
これ、生きてないってことじゃん?逆を言えば、波があるってことは、生きてるってことじゃん?
だから、生きている限り波はあるんですよ。なので、人生の浮き沈みで時々「私の人生は私だけのものだ」ということを忘れる時もあると思う。
だけどね。
瞬間的に忘れてもいいけど、絶対に、必ず、「私の人生は私だけのものだ」と思い出す自分に戻ってきてほしい。
そうじゃないと一度きりの人生、何のために生まれてきたかわかんないじゃん(笑)。
あたしらって、幸せになるために生まれてきたんだよ?
じゃあ「私の人生は私だけのものだ」なんて大切なこと、忘れちゃダメじゃん。
ってことで、改めてありったけの愛をこめてこの言葉で締めようと思う。
「好きなところに行き、好きに生きな」。
おーわりっ!!
***
ということで、今回のエッセイはこれにて閉幕としよう。
さて、今回のエッセイはどうだっただろうか。私自身はね、読んでくれた人が私の姿を見て
「へぇー、こんなメスの個体もいるんだな」
と、物珍しく思ってもらえたらそれで良いと思っている。
そうすれば、「生物がいかに多様であるか」を改めて実感してもらえる。
多様であることを実感してもらえれば、お互いがどれほど違った生き物であれ、「ま、こういう人もいるよね」と思うことができる。
そうなれば、お互いがお互いに、生きやすくなるかなと思ってるのだ。
そしてぜひ、感想をマシュマロで送ってほしい。
どんなことをみんなが考えたのか、ぜひとも知りたいのだ。なぜなら、私自身も「多様な考え」を知っておきたいから。
▼感想、ぜひ送ってほしい!!!お願いっ!!!
今回の作品以外にも、いろんなエッセイを書いているからぜひ読んでみてね!!
ではまた!
華より
あ!もしよかったら、別居婚のエッセイも読んでみてね~!!
・別居婚を決意した意外な理由
・実際に別居婚をやってみた率直な感想
・想定していなかった意外なメリット
をせきららに書いてるよ♡
この「別居婚を、8年やってみた」はnoteのエッセイコンテストでグランプリを受賞した大傑作!
▼ぜひ読んでみてね!
いいなと思ったら応援しよう!
もしこのnoteが面白かったら300円サポートお願いします!😭肩こりと背中の痛みがひどくて椅子に座れないことが多くて……。整形外科で回300円の電気治療してるんだけど、いただいたサポートでもっと電気治療通いたい!!頂いた治療費、大切に使わせて頂いてます🙇



