ゾロアスター教とユダヤ教・キリスト教・仏教 歴史的なつながり? | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

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 高校生の時、通学電車内でよく読んでいた本がある。ドイツの哲学者・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』という哲学書であり、よく理解できない箇所があるものの、なぜか引き寄せられるところがあった。これは当時流行いていたフランスの哲学者ジャン=ポールサルトルなどの実存主義思想の出発的をなす書とも言われる。

 このニーチェ本のタイトルにある「ツァラトゥストラ」は、「ゾロアスター」とも言われ、いわゆるゾロアスター教の開祖的な存在とされている。なお、ニーチェの本は、基本的にはゾロアスター教徒はほとんど関係がない。

 文献史料が残される前の時代の人なので、この古い時代の人物が何時の時代の人かもはっきりしないが、紀元前1200年ほど前の人と考えられている。「ゾロアスター」というのは現在の英語風の発音であり、当時の言語(つまりアヴェスタ語、ペルシャ語の祖先にあたる言語)では、Zaratushtra(ザラトゥーシュトラ)のように発音されたらしい。

 長い間、私は、このゾロアスター教についてほとんど興味を持つことはなかったが、あるきっかけで関連する本を読んでみようという気持ちになった。その本は、三枝充直心『仏教入門』である。そこには大乗仏教の成立についての箇所で、弥勒菩薩や阿弥陀仏の説明がなされており、それらが西方、特にイラン(ペルシャ)の影響によるものであることがはっきりと書かれていた。一部分だけを引用すると、

 

 「弥勒の言語のマイトレーヤは、ミトラという語に由来し、ミトラはイランのミスラ神やインド一般のミトラ神とつながる。また普通名詞のミトラは親友を意味し、ミトラから派生した普通名詞のマイトラは友情・親切をあらわして、マイトリーとともに「慈」の原語に相当する。・・・

 この弥勒仏は未来仏として立てられ、(以下略)」(132~133ページ)

 

 これは、ある意味で大変なことを意味していないだろうか? しかし、そもそも古代における人々の移動を調べてみると、今から4千年ほども前に中央アジアのステップ地帯(草原)あたりから、イラン=インド人の共通祖先が南下して来て、東はインドに、西はイラン(ペルシャ)に住み着いたことは、考古学研究によって知られていた。またペルシャ語とサンスクリットが共通祖先集団の話していたと思われる言語に由来していることも明らかになっている。さらに最近のDNA解析でも、ペルシャ集団とインド集団(特に北西部集団)にはかなりの類似性があることもはっきりしている。したがって両地域間で相互に宗教的思想上の交流があったということは、当然、考えられることである。

 

 一方、ゾロアスター教の歴史を概観している本を読んでいると、インド思想との関連だけでなく、ペルシャの西方に位置している地域、すなわち小アジアやパレスティナとの思想的交流について、あたかも当然であるかのように、思いもかけなかったような事実がさらりと書かれていることに気づいた。そのうちの2、3を、ざっと箇条書き記すと、

 1,ゾロアスター教は、最初、イラン東部から広まりはじめ、しだいに東方や西方にまで広がっていったが、紀元前7世紀、サン朝ペルシャが成立したときに、特にパレスチナのユダヤ人社会に大きい影響を与えた。キュロス大王は、捕囚(バビロンの捕囚)状態にあったユダヤ人を解放したばかりでなく、異教徒(非ゾロアスター教徒)に対して宗教的な寛容を示し、信仰の自由を保障したことである。

 ユダヤ人たちがこの2重の方策に対して大いに喜び、キュロスとその帝国に感謝したであろうことは想像に難くなく、事実、『イザヤ書』(イザヤⅡの書いたとされる書)に、キュロスをたたえる文言を並べていることからもわかる。ここでは、その長い文章を引用することは控えるが、旧約聖書『イザヤ書』の42~46あたりを読めば、そのことは確認できるだろう。

 2,ここで序に、いわゆる「モーセの出エジプト」譚について触れておくと、それはエジプト新王国ラムセス王の時代(つまり紀元前13世紀)のこととされている。しかし、現在の研究では、それは虚構であり、「モーセの律法」が成立したのは、紀元前7世紀の頃とされている。なぜか? 13世紀には、隆盛を誇っていたエジプトはシナイ半島にまで支配領域を拡大しており、モーセがシナイ半島にたどり着いても、そこもエジプトの支配地だったからである。また仮にモーセがユダヤ人を引き連れて、

出エジプトを離れたという話が真実ならば、エジプトの地はスカスカになったはずである。他方、シナイ半島は、モーセの引き連れた人々を決して養うことができるような肥沃な土地ではなかった。きわめつけは、それほどの大事件をエジプトの文書はまったく語っていない。

 現在では、多くの研究者は、モーセの律法なるものが6~7世紀に成立したと想定している。そして、そこにはペルシャの宗教の影響があるというのが、専門家の意見である。

 3,リングア・フランカとしてのアラム語(アラマイ語)

 歴史上のイエス(ナザレのイエス)は、アラム語を話したと考えられている。実際、『マルコ』では、イエスは刑死のときにアラム語で「神よ、神よ、どうして私を見捨てるのですか?」と言ったとされている。

 ところで、詳しい事情はよく分からないが、このアラム語は、当時の小アジア(現在のトルコ)、パレスチナ、ペルシャの地における<リングア・フランカ>(lingua franca)だった。リングア・フランカというのは、母語を異にする人々の共通語のようなものであり、例えば今で言えば英語のようなものである。中国語、韓国語、日本語などの話者が会議をするとき、自国語で話すならば、お互いに意志疎通をはかることはできない。そこで、誰でも話せる・易しい共通語がある共通語が選ばれることになる。

 当時のペルシャでは、サトラピー(太守区)や州によってお互いに意思を伝えることが難しいほどに言葉が異なっており、そこで手紙などの文書を書く場合でも、アラム語とそれを記す文字を知っている書記がアラム語を使って書いたという。おそらく、アラム語は、小アジア、パレスチナ、ペルシャなどを行き来して商業活動を行っていた商人の言葉だったのであろう。(ただし、こうしたアラム語の共通語としての役割は、紀元0年頃には、終わりかけていたようである。)

 

 さて、歴史上のイエスの話になると、人々の中には、たくましい想像力を駆使して、若かりしイエスは、20年間ほど、東方に旅に出かけており、中央アジアやインドにまで出かけていたというストーリーを展開している人もいるらしい。私は、この話などはまったく空想の産物であると考えており、まともな話とは思わない。しかし、紀元前7世紀以降のユダヤ教の教義の中に、パレスチナの東方にあったペルシャ人の宗教、つまりゾロアスター教の影響があったということは、必ずしも否定できないのではないかとは思う。そして、もしそうならば、ナザレのイエスの宣教もその影響圏の下で成立したことになるだろう。(また、ユダヤ人イエスの教えがヘレニズム世界に広まることによって、ペルシャ人と祖先を同じくするヨーロッパの人々に古ペルシャ人の教えの一端が受け入れらたことになるだろう。)

 

 

 しかし、そのことを説得的に説明するのは、きわめて難しく、事実上不可能としても、両者を比べて、それらの異同を示すことくらいはできるかもしれない。そこで、きわめて素人っぽい方法になるかもしれないが、無謀な試みを行ってみたい。

 (以下、続く)

 

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