僕の自己紹介をさせて頂きます。
はじめに
こんにちは。堀 鉄平(ほり てっぺい)と申します。
本日は、改めて私の自己紹介をさせて頂こうと思います。
私のWikipediaのページによると、私の肩書は、以下のように記載されています。
堀 鉄平(ほり てっぺい、1976年3月28日 - )は、日本の経営者、男性弁護士(第一東京弁護士会所属)、元総合格闘家、投資家。
弁護士、元格闘家、経営者、投資家――今でこそ、私には様々な肩書きがついています。
しかし、最初からこれらの職業を目指していたわけではありません。自然に努力していたら、勝手に手に入った成功というわけでもありません。
どんな風に生きていけば、転機となるチャンスが舞い込んでくるのか。チャンスが目の前に現れた時に、どうやってそれを掴めばいいのか。
まずは私自身の半生を振り返りながら、それを言語化してみたいと思います。
少年時代からニート生活を経て、司法試験へ
子供の頃は、自分に自信がなく、身体もひ弱だった片田舎の少年でした。
成人してからもバイトと遊びに明け暮れ、司法試験に落ち続けた実家暮らしのニート。
それが自分の出発点でした。
(この時の詳細や、成功法則については、拙著「マインドチェンジ」を是非ご覧ください)
中学、高校くらいまでは、本当に普通の学生でした。強いて言えば、そこそこ勉強ができたというぐらいだったと思います。育ちは名古屋でしたが、中学時代は一応学年トップで、当時愛知県で一番偏差値の高かった愛知県立旭ヶ丘高校というところに進学しました。
とはいえ高校時代ははっきりとした目標もなく、漠然と過ごしていたと思います。「勉強できる人は理系にいく」という風潮があったのでとりあえず理系進学したものの、学校の勉強が将来にどう繋がるかもわからず、退屈に感じていました。部活も一応入っていましたが、「別にプロになるわけでもないしな」と思って、あまり真面目にやりませんでした。
生徒会活動みたいなものもやっていませんでしたし、学園祭も何が面白いのかわからず、全く手伝わなかったり。そんなことやっていても、「その他大勢」に埋もれてしまうだけではないか。そのようなことを考えながら過ごしていた記憶があります。
文転して弁護士を目指そうと考えたのはその時期でした。ただ、「絶対弁護士になりたい」という積極的な意志があったわけでもなく、「なんとなく最高峰の資格だし、取っておいて損はないかな」というぐらいの曖昧な気持ちです。
他にやることもなかったので、勉強自体はしっかり取り組んで、中央大学の法学部に合格。進学を機に上京することになりました。
大学に進学し、すぐに司法試験の勉強に邁進――とはならず、結局進学してからも、いまいち夢中になれるものが見つからずにいました。弁護士になりたいというビジョンが弱かったのもあり、結局司法試験にも4回落ちています。
それでも、大学時代には人生の転機となるような大きな経験をすることができました。それは、「引っ越し」のバイトです。意外に思われるかもしれませんが、この時の経験が後のビジネスに大いに役立ったのです。
当時は大学の近く、八王子あたりに住んでいたのですが、その地域で引っ越しのバイトを始めました。日当は1万円ぐらいだったと思うのですが、すぐにその金額に疑問を持つようになりました。
お客様の支払う金額は、引っ越しの規模によりますが1家庭で15万円から30万円ほど。複数人での作業とはいえ、自分のところに1万円しか入らないのはおかしいだろうと。
だったら、集客から作業まで全部自分でやってしまおうと考え、当時の社長に啖呵を切って個人事業主として引っ越し屋を立ち上げました。
バイトでだいたいの作業は経験していたので、やるべきことはわかっていました。自分でチラシを作って、近隣の団地にひたすらポスティング。当時は携帯電話もまだ出始めたぐらいの時期でしたが、携帯でお客様からひたすら電話を受けていました。自宅訪問して見積もりをとって、元のバイト先からトラックを借りて、人を雇って作業して、というサイクルをひたすら回すわけです。
当時は本当に寝る暇もなく働いていたので、繁忙期は月に500万円ほど売上がありました。普段でも月に100万円ぐらいは普通にあったはずです。
雇っていたバイトにもいくらか支払いますが、それでも結構残るので、車を買ったり友達と飲み歩いたりしていました。この状態で司法試験に合格するはずもありませんでした。
人に使われるのは割に合わない、という感覚は当時から非常に強かったのだと思います。普通はバイト代が多少安いなと思っても、愚痴って終わりなのかもしれません。しかし私にはそれが耐えられなかったのです。
「なんでこんなに忙しいのに、15万円の売上をほとんど取られてしまうのだろう」と。
衝動的に始めた商売ではありましたが、これがうまくいったことで、大きな成功体験が得られました。
「ビジネスの仕組みを自分で作れば、多くのお金を手にすることができる」、そして「ビジネスの仕組みを自分で作るのは、それほど難しいことではない」という気づきです。
「起業しよう!」と意気込んでいたわけではありませんでしたが、そのときに多少読んでいたビジネス書の内容が、自分で商売を始めたことで腹落ちしたような感覚はありました。
ちなみに、バイトとして雇っていたのは、元の引っ越し屋で一緒に働いていたバイト仲間たちです。みなさん八王子周辺のヤンキーで、当時の私はまだ格闘技も始めていなかったので結構怖かったりもしたのですが、引っ越し屋としては私の方が先輩でしたので、みなさん慕ってくれていました。「力が正義」というところがありましたので、冷蔵庫をひとりで運んだり、段ボールを3つ抱えて階段を走ったりしていると、意外と敬意を払っていただけたのです。
いかに作業をスピーディに、確実にできるかを競い合う文化がありました。そういうのも含めて楽しかった記憶があります。
それでも、さすがに司法試験の勉強もしなければということで、司法試験に3回落ちたあたりで引っ越しは休業しました。お金はよかったものの、とにかく肉体的につらかったのもありました。寝る時間もなかったために、トラックの信号待ちで寝てしまいそうになったりもしていました。引っ越しは予定通りに進まなかったりもするので、ついつい長時間労働にもなりがちです。
ちょうどそのころ、両親が転勤で横浜に来ることになり、自分も横浜の実家に戻りました。でも、実家にいることでダラダラしてしまって、あまり勉強できませんでした。引っ越し屋をやめた後も、過去に撒いたチラシから電話がかかってきたりもしました。一件で20万円ほど稼げるので、依頼があるとやはり引き受けてしまうのです。
そのようなことを繰り返しているうちに、気づいたら4回も司法試験に落ちていました。
両親からも「もう諦めて就職しろ」と散々言われました。今思えば、そう言いたくなるのもわかります。自分としても、「今年で最後」と毎回思いながらも、ずるずると2、3年受け続けていました。
結局、背水の陣で集中していなかったということだと思います。5回目の挑戦はさすがに合格しないとまずいと思い、覚悟を決めて実家を出て、部屋を借りました。多少貯金があったとはいえ、弁護士になれないと家賃を払っていけない。誘惑を遮断し、退路を断ち、本気で勉強を始めたわけです。
本気で勉強を始めて気づいたのは、自分だけのサンクチュアリ(聖域)を持つことの大切さです。集中できる静かな環境や自由な時間をしっかりと確保することで、初めて深い集中が得られます。集中していない状態でいくら時間をかけても、望む結果は得られません。
その後、背水の陣で臨んだ5度目の試験は、なんとか合格することができました。
ただ、合格してから先の人生のことは、そのときもまだあまりイメージできていなかったと思います。というのも、司法試験に通りさえすれば、あとは華の人生が待っていると思っていたのです(笑)。
当然ですが、そんなことはありませんでした。自分の人生に挫折があるとしたら、1度目は司法浪人の日々です。そして2度目は、弁護士として働き始めた最初の3年間だとはっきり言えます。そのぐらい、自分の思い描いていた生活とは真逆だったのです。
弁護士として
一般的に、弁護士を目指すのであれば、司法試験に合格したあとに1年半の司法修習を経て、たいていどこかの弁護士事務所に所属することになります。いわゆる雇われ弁護士「イソ弁(※)」です。
弁護士といっても、雇われている以上はサラリーマンと同じなので、「人に使われたくない」と考える自分にとってはとにかく苦しかったです。
もちろん、当時は単純に私自身がペーペーでレベルが低かったというのもありますが、先輩やボスのやり方で正しいと思えない部分があったり、意見が噛み合わなかったりすることばかりでした。
自分の力をうまく発揮できないもどかしさを感じる上に、業務量は多くていつも長時間労働。年収は600万円ほどからスタートしたので、一般的な新卒サラリーマンに比べたらもらえていたと思いますが、朝から夜中までずっと働きづめでしたので、「これはたぶん続かないな」と最初から思っていました。
※イソ弁とは、居候(いそうろう)弁護士の略
仕事の内容としては、おもに企業の労働事件を扱っていました。例えば、労働組合から賃上げの要望を出された企業が、それにどう対応していくか、といったことなどです。
率直に言って、まったく面白みを感じられませんでした。
困っている人を助けたい、またはスタートアップやベンチャー企業の仕事をしたい、少なからずそのように思っていたので、大企業を依頼者とする仕事に興味がわかなかったのです。ならばなぜそのような事務所に就職したのかという話になってしまいますが、当時は本気でそう思っていました。
ですので、働きながら独立する準備を着々と進めることにしました。自分で伝手をたどって、中小企業やベンチャー企業の社長と顧問契約を結んでいくことにしたのです。
ベンチャー企業の社長は、当時の自分とだいたい同年代。彼らが日々直面する法律の問題について相談に乗っていくと、彼らのビジネスを自分の力でサポートしているという実感も得られて、前向きで楽しかったです。
顧問契約はだいたい月額5万円から10万円くらいなので、顧問先がだいたい15社ぐらいになったところで、毎月100万円弱ぐらいは入ってきそうだなという見込みが立ちました。独立を決心したのはそのタイミングです。
独立してからは、仕事は一気に楽しくなりました。同期の弁護士を誘って一緒に始めたのですが、最初の頃は売上に応じて事務所がどんどん大きくなっていくので、その成長過程は楽しかったです。
秘書も最初ひとりだったのが、2人、3人と増えていきました。雇われているときには、自分がいくら頑張っても、ボスのクライアントは私のことを下働きとしてしか見てくれません。独立してからは、自分のクライアントに直接感謝してもらえるというのも、やりがいにつながっていました。
業務内容としても、大企業を相手にしているときには、すでに企業の法務部が練りに練った内容の確認をするのがメインです。それがベンチャー企業相手だと、法については素人のプレイヤーたちが巻き起こす生のトラブルに直面することになります。法律のプロとしては、未知の問題に取り組む方が遣り甲斐がありました。
あるとき、ある地方の企業を創業した方の奥様からの相談で(創業者は逝去)、息子さんから会社を乗っ取られて、生活にも困窮することになってしまい、かつ、裁判でも一審で負けてしまって、困っているという依頼がありました。息子は会社を私物化して、実の母親を追い出して、遺産も一人占めしているような状況でした。息子は、その会社と自分との契約書などを巧みに作りこんで、会社の利益を自分の関係会社へ上手に還流させていたのです。
そのような困り果てた母親の長女(息子とはきょうだい)が、「どこかに闘ってくれる弁護士はいないのか?」とインターネットで「闘う弁護士」と検索したところ、私がヒットして、事務所に法律相談に来たのでした。
私は、この訴訟に全身全霊で取り組むことにしました。
確かに契約書などの形式上は息子有利ではありましたが、この結末は母親にあまりに酷であり、私は、息子のやり方は「権利の濫用」に当たると主張して、高裁で逆転勝訴を勝ち取ることが出来ました。
この1件は、依頼者に相当感謝され、正規の報酬金とは別に、50万円もするスーツをプレゼントしていただくなど、私にとってはとても遣り甲斐のある事件となりました。
ただ、この件を最後に、私は弁護士業務から遠ざかることになります。少々、燃え尽きてしまったのです。
投資家として
弁護士事務所は順調に成長し(最終的には、弁護士8名、従業員50名規模の事務所に成長しました)、ある程度の資産を築けたことと、法人の決算書も「ピカピカ」になり金融機関からも融資がつきやすくなったことで、後の不動産ビジネスをやるための準備も整いました。
ただ、実際に不動産投資の世界に飛び込んだのは、本当にいくつもの偶然が重なった結果です。もし条件が揃っていなかったら、挑戦はもっと後になっていたかもしれません。
ひとつ目の偶然は、たまたま購入した自宅用のマンションが大幅に値上がりしたことです。
ちょうど2011年ごろに、六本木駅徒歩3分の『THE ROPPONGI TOKYO』というマンションの1室を1億円ほどで購入しました。弁護士としての信用もありましたので、1億円の住宅ローンを引くことができました。
そして2年後に、家を移る必要があってその部屋を売却したのですが、そのときに何と1億5000万円で売れたのです。それで借りていた1億円のローンを返済し、そこから税金も4割ほど引かれましたが、それでも手元に3000万円が残りました。何かをしたわけではなく、ただマンションを買って、住んで、そして売っただけです。利益を得ようとはまったく考えていませんでしたが、単純に売るだけでこんなにお金が増えるのか、と驚きました。
いま思えば、リーマンショックや東日本大震災の直後でしたので景気が悪く、不動産の価格も暴落していたためにたまたま安く手に入っただけなので、完全にビギナーズラックです。安く買った後に価格が急騰したのも、都心のマンション価格がたまたま上昇局面だったからでしょう。ただ、そのときの経験は非常に印象に残りました。
不動産投資で得られるリターンには、インカムゲイン(家賃収入で継続的に受け取る利益)とキャピタルゲイン(保有していた資産を売却することによって得られる売却益)の2種類がありますが、私は、このときの経験から特に後者のキャピタルゲインに魅了されました。
ふたつ目の偶然は、弁護士業務の顧客に不動産会社が何社かあったことです。契約書などを作成するので、ビジネスモデルをヒヤリングする機会もあるのですが、非常に儲かっているなという印象がありました。
たとえば投資用のワンルームマンションを売っている会社も、「投資で儲けたい」と思っている投資家(志望者)に、利益をかなり乗せた価格でマンションを売っているわけです。ということは、投資家よりもその販売会社の方が儲かるのは間違いない。ただ、販売会社も自分たちで土地を仕入れたり、建物を建てたりしているところばかりではなく、デベロッパーから物件(商品)を仕入れていたりする。となると、デベロッパーはもっと儲かっているわけです。
この構造が、自分が引っ越し屋を立ち上げたときに似ていると思いました。土地を仕入れてから物件を売却するまでの一連のフローをもし自分でできたら、パッケージとして売られている物件を買うよりもはるかに大きな利益が得られるだろう。そう確信しました。
そこで、2013年ごろに、自宅マンションの売却益として残った3000万円を頭金に4億円ほどの融資を引き出し、南青山の土地を仕入れて建物を建築しました。結果的にその物件は、6億3000万円ほどで売却できたので、1件目の投資にしていきなり2億円ほどの利益です(このころ、不動産を本格的に行う決意をして、宅建業者登録をしています)。 この成功で自信を深めて、どんどん土地を仕入れて新築物件を建てていったという流れになります。
ポイントは、自分で土地から新築したことです。
私は、自ら土地を仕入れて、設計事務所と工務店に依頼して建物を建てるという、「一人デベロッパー」的な手法で資産を築きました。
そこで学んだのは、業者が販売する「投資商品」をただ買ってもお金持ちにはなれないということ。生産者側に回り、投資のための部品を「仕入れる」ところから自分でやらなければ、大きな利益を手にすることはできないのです。
投資商品を買うのではなく、自分で投資商品を作る。
たしかに知識やコツも必要ですし、相応の資金力も求められます。
しかし、その分参入障壁も高く、一度やり方を確立すれば、圧倒的に資産を増やしていけます。
経営者として
まず、私が最初に起業したのは、2009年に自分の弁護士法人を設立した時です。事務所の名前は「弁護士法人Martial Arts」です。Martial Artsとは、直訳すると「武道や格闘技」となるのですが、当時、現役の格闘家をやっていた私なりの「闘う弁護士」ブランドの確立でした。
もう起業して15年程度になりますが、こちらの法人はパートナー弁護士に任せてあり、私自身は現在、弁護士業務をやっておりません。
私が今経営している会社は2019年に起業した株式会社UMITO(旧:HORIJUKU株式会社)でして、当初は「弁護士堀鉄平の不動産投資塾(堀塾)」という不動産投資のスクールからスタートしました。
前述の通り、もともと、弁護士としての与信を利用して、不動産投資で財を成したのですが(7年間で30億円以上の売却益を出しています)、そのノウハウを共有するスクールです。
不動産業者ではない個人の方でも、生産者側に回ることで、大きなリターンを得ることが出来ます。デベロッパーになるわけなので、もちろん開発リスクを負うことになりますが、不動産の知識、法律の知識をしっかりと身に着けていただけるように毎月講義をさせていただいております。
塾生さん同士も懇親会や合宿を通して、かけがえのない人脈を築いています。
「本当に人生が変わりました!」と喜んでいただける塾生さんの声をお聞きすると、起業して良かったなと思います。
このように、株式会社UMITOは、個人の投資家が自ら不動産を開発するノウハウを提供することで、「1人デベロッパー」を養成するプラットフォームとなっています。
UMITOについて
当社では、「ワクワクする不動産を作り出す」というミッションに従って、「UMITO」と呼ばれる海一列目の立地にリゾートホテルを複数開発しています。
UMITOはホテルですが、実は買うことが出来ます。しかも、ホテル一棟まるごとを買わないでも、1部屋を複数人でシェアで買うことが出来ますので、大きな投資をしないでも、ホテルを所有することが出来るのです。
また、旅行に行く際には通常、ホテル宿泊代がかかりますが、UMITOオーナーになれば、UMITOに泊まるのに都度の宿泊代は不要となります。シェアで購入する代金を1泊あたりに換算すると、ホテルに泊まるよりもリーズナブルであることも分かっていただけます。
例えば、沖縄に360㎡もある広い客室があるのですが、年間10泊の権利を3000万円で売りに出しています(当初、2580万円で販売していましたが、ほぼ完売となった今、価格を改定しました)。
50年間で毎年10泊分の権利が得られますので、合計すると500泊分となり、1泊あたり6万円で泊まれる計算となります(3000万円÷500泊)。実際にホテルとしてその部屋に泊まっていただく場合は、時期によりますが、1泊30万円程度の宿泊費が必要ですので、かなりのお得感があると思います。
私は常々、もし日本中・世界中に自分の家があって、暮らす場所に制限がなかったら、次はどこに行こうか?と考えることで世の中はもっと面白くなるし、人生が楽しくなるんじゃないかと思っていました。
次はどこに行こうか?と、旅行の計画を立てているときが一番幸せです。
国内のホテルであれば、一番好きなのはガンツウ。船のホテルです。
あとは、リッツ・カールトンや、HIRAMATSU HOTELSも好きでよく泊まります。
ただ、ホテルの場合は、自分の好きなラグジュアリーホテルは宿泊費が高いですし、繁忙期に予約が取れないこともあります。また、そもそも大規模なホテルよりも、私は10室以内のプライベート感のあるホテルが好きなのですが、ホテルの経営の効率性を考えると既存ホテルはどこもある程度の規模となっています。
では、ということで、別荘を自分で建てたり、買うこともしてみました。ハワイにコンドミニアムを買ったり、福岡、札幌、大阪にはマンションを別荘代わりに買いました。
しかし、別荘は何といっても管理が大変で、行った際も自分で掃除をしたり、食事も出てこないので、不便極まりないです。別荘を買うのは投資額も大きいので、限界があります。
そこで、私は、ホテル×別荘のハイブリッドの仕組みを考えました。
私の理想のホテルを建築しつつ、別荘所有の不安や不満を解消する方法はないだろうか?
・自分が「滞在したい」と思えるようなスモールラグジュアリーなホテルを自分で建築するのはどうだろうか?
弁護士×不動産の経験を生かして、海一列目の一等地を次々に押さえて、最高の食と最高のホスピタリティを提供する、カッコよい建築のスモールラグジュアリーホテルを作ってしまおう。
・作ったホテルを多くの人にシェアで共有していただくことで、次々に理想のホテルを建てていくことができるのではないか?
・自分も泊まりつつ、泊まらない場合は収益を生み出すようにホテルとして運営することで、シェアで買っていただく方にとっても合理的なのではないか?
これこそが私が「UMITO」を始めた理由です。
UMITOのこだわり
UMITOの立地は、海一列目の特等席です。入手困難な海のアリーナ席のみをご用意しています。
その昔、私はイタリアのアマルフィ海岸を旅行で訪れた際、あまりの美しさに感動しました。断崖絶壁の傾斜地にそびえたつ住宅。よくもあのような崖地に建物を建てることができたな、と。風景として傾斜地と住宅を見ても絵になりますが、その建物(私の宿泊したホテル)の中から見る景色は感動的でした。
と同時に、私の計画しているUMITO熱海別邸は、ここイタリア・アマルフィに負けていないのではないか?と思うに至りました。遠くイタリアまで来ましたが、実は熱海でも良かったのではないか??
ほんとうに大切なものは、意外とシンプルで、そして身近にある。しかしだからこそ、その価値に気づくのが難しいのかもしれない。そんなことを思ったイタリア旅行でした。
UMITOの一番の自慢は、食事です。超一流のシェフを取りそろえています。
ミシュランガイドで12個の星を獲得したランベリーの岸本直人氏、故ジョエル・ロブション氏の下で長年料理長を務めた朝比奈悟氏、レストランひらまつ広尾(本店)の料理長を務めた小川大樹氏など、錚々たるシェフが監修しています。
UMITO鎌倉腰越は、小川シェフ自らが料理長を務めます。ひらまつを退職して、地元広島で友人の経営する焼き鳥屋を手伝っていた小川さんを口説きに、私は日帰りで広島まで行きました。小川さんの求める海沿いのスモールラグジュアリーホテルを用意します!と。
小川さんの料理とワインをマリアージュでいただきつつ、そのままUMITO鎌倉腰越に宿泊。朝日で目を覚まして、そのまま江の島まで散歩。帰ってきて、小川さんの朝食を食べるというのは、至福のひと時です。
このようなUMITOですが、今後、全国20か所から、将来的には50か所まで次々と増えていく予定です。
北はニセコから、湘南エリア(鎌倉、稲村ケ崎、秋谷)、静岡エリア(熱海、箱根)、沖縄エリアには沖縄本島のみならず、瀬底島、宮古島、石垣島、奄美大島まで、どんどん増えていきます。
そして、一度、UMITOのオーナーになっていただければ、ご自身で所有する物件以外も相互利用できますので、自分のホテルが日本各地に次々に増えていくのを楽しみしていただけます!
お客様の1年中をワクワクさせたい・・それがUMITOのミッションです。
UMITOは、世界を代表するホテルブランドとなっていくことをお約束します。
元格闘家として
ところで、私には弁護士や経営者、投資家だけでなく、もうひとつの肩書きがあります。それは、「元格闘家」です。
「闘う弁護士」というキャッチフレーズにもあるように、「格闘技」は私の人生に不可欠な要素です。私の人生に大きな影響を与えている格闘技との出会いを、簡単にお話したいと思います。
格闘技に興味を持ち始めたのは、大学生になってからです。最初にはまったのはK-1(※)で、TVでアンディ・フグやピーター・アーツを熱心に見ていました。当時は引っ越しのバイトをしていたので腕っ節には自信があり、格闘技の経験が全く無いにもかかわらず、なぜか自分が強いと思い込んでいました。素人ゆえの、根拠なき自信です。
ただ、在学中は司法試験の勉強もしなければいけなかったので、本格的に格闘技を始めることはできませんでした。したがって格闘技を始めたのは比較的遅くて、司法試験合格後の26歳ごろです。当時は「PRIDE(※)」全盛期で、グレイシー(※)を「格好良い」と思っていたので、ブラジリアン柔術道場に入りました。当然、自信満々の状態です。
しかし、いざ道場で先輩道場生とスパーリングしてみると、自分よりも小柄な人に手も足も出ず、ボコボコにやられてしまったのです。いま考えれば当たり前ですが、その時は本当に驚きました。悔しいと言うよりも、むしろ「格闘技ってすごい!」と目覚めてしまって、そこから本格的に練習を始めました。
そこからは弁護士の仕事をしながら練習に励み、「THE OUTSIDER※」に出場して、不良出身の若者とリアルファイトでバチバチに戦っていました。
戦績も33戦17勝13敗3分と勝ち越して、最終的にはプロ契約も結ぶことも出来ました。
※K-1とは、1993年に日本で産声をあげた、立ち技格闘技「K-1」(ケイワン)。重量級ファイターたちが激突する世界最高峰の戦いが支持を集め、ピーク時には国内地上波3局と135カ国でテレビ放映され、最高9万人の大観衆を集める。
※PRIDEとは、日本の総合格闘技イベント。2000年代前半の総合格闘技においては名実ともに「世界最高峰の舞台」であり、日本における総合格闘技人気の火付け役となった。
※グレイシーとは、ブラジルの柔術家一族。
※THE OUTSIDERとは、元プロレスラー前田日明氏が旗揚げした総合格闘技イベント。「不良たちよ覚醒せよ」をキャッチコピーに、不良の更生をテーマに掲げて、青少年の健全な育成を目的とした格闘技のイベント。
なぜ弁護士である私が、不良出身の若者の大会に出ることになったのかといいますと、「不良更生」というコンセプトに共感したからです。街中で喧嘩をしていたような若者が、リングの上で格闘技をスポーツとして競い合うことで更生していく姿は、確かに想像できました。
そして、そこに弁護士である私が出場することによって、彼らの壁となって立ちはだかり、勉強でも社会的地位でも上位の私に対して、悔しかったら試合で勝ってみなさい、勝つためにはそれ相応の努力が必要なのだよ、というメッセージを伝えるのは、私にしかできないことだと思いました。
そして、実際、多くの元不良と呼ばれる若者たちが、一生懸命に努力をして「更生」し、卒業後、タレントになったり、起業したり、一般企業に就職したりと、THE OUTSIDERは社会に馴染めなかった若者たちにとって、輝きを取り戻す場所となっていました。
当時、私は試合中の怪我(眼窩底骨折)で2回手術しています。直後は右目の眼球が動かなくなり、今でも後遺症は残っていますが、この時のリアルファイトの経験が、私の強靭なメンタルやビジネスを構築する推進力に生きているのは間違いありません。ビジネスを継続するための無尽蔵のスタミナと、絶対に折れない精神力を手に入れることが出来たのです。
その後、私自身は42歳となった2018年に引退しています。
そして、この「THE OUTSIDER」に出場していた朝倉未来と朝倉海に魅了されて、彼らの生活の面倒を引き受けることとなったのが、2017年です。
当時の2人は、愛知県豊橋市で、兄弟だけで練習していたのですが、東京に引っ越して来て、プロのトップ選手に揉まれることで世界に通用する選手になる、そう確信していました。
そこで、私は、彼らの雇用を確保するため、港区赤坂に格闘技ジムを立ち上げ、そこのインストラクターをやってもらうことにしたのです。それが、今の「JAPAN TOP TEAM」です。
当初は、トライフォース赤坂というブラジリアン柔術の支部だったのですが、名称を途中で変更しました。理由は、このジムから、世界に通用するような日本人選手を発掘していきたいと思うに至ったからです。私は、THE OUTSIDERに出場していた頃の経験から、環境に恵まれず、将来に希望を持てない若者でも、格闘技を通して人生を再構築していくチャンスを掴めると思っています。そのような若者にチャンスを与えたいし、日本の格闘技のレベルも底上げしていきたい、そのように思ってこの名前を付けました。
なお、「JAPAN TOP TEAM」は、今は私の手を離れています。本業の株式会社UMITOの経営に集中するためです。また、朝倉海がUFC(※)王者となった際には、彼に事業を譲る約束となっています。
彼らには、定期的に書籍も渡してあげました。格闘家だけではなく、ビジネスの才能もありそうだったので、ビジネスに関連する本を読むように伝えたのです。そうしたところ、私の渡す本を素直に読み込んで、自分たちで YouTubeを起点に複数のビジネスを持つようになり、今ではそれなりの稼ぎを得るようになりました。
また、当初より、自分のことは自分でやるように指導していましたので、RIZIN(※)との契約交渉やスポンサーとのやり取り等も、彼らは自分たちでやっていました。通常は、所属ジムがマネジメントで間に入って、報酬を受領するのですが、私は単に「練習環境を整えるだけ」という方針でしたので、そこには関与しませんでした。
最後に、私自身は、今は株式会社UMITOの社長業に専念していますので、今後、ジム経営に関わることもないのですが、朝倉兄弟やJAPAN TOP TEAM所属選手の活躍を陰ながら応援はしていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
※RIZINとは、日本の総合格闘技団体。事実上の「PRIDE」の後継団体。
※UFCとは、Ultimate Fighting Championship(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ、略称:UFC)の略で、アメリカ合衆国の総合格闘技団体。世界最高峰の総合格闘技団体である。
UMITO https://umito.jp/
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コメント
1初めまして😊
私はnoteのおすすめクリエイター一覧であなたを見つけました✨
あなたの記事はとても素晴らしいですね💖
今、私は台湾に住んでいます🌏 ひとつ質問してもよろしいでしょうか?🙇♀️