『クロエとテオの時間旅行』Part.12

第十二話:秒針の帰還


テオの腕から放たれたクロエの身体が、
時計塔の吹き抜けを、鳥のように舞い上がった。

「馬鹿な……
届くはずが——!」

特異点ジェネレーターの前で待ち構えていたリーダーが、
驚愕に目を見開く。

クロエは空中で見事な身のこなしを見せると、
ドレスのすそをひるがえし、
ピンヒールのかかとを
リーダーの顔面めがけて
思い切り振り抜いた。

「ごめんあそばせ!!」

ゴスッ!!

完璧な角度で決まったドロップキックが
リーダーの顎を打ち抜き、
彼は悲鳴を上げて
後方へと吹き飛んだ。

その衝撃で、
彼の手から『銀貨』がすっぽ抜けて宙を舞う。

クロエは着地と同時に手を伸ばし、
キラリと光る銀貨を
空中で見事にキャッチした。

「銀貨、確かに取り返したわよ!」

クロエが叫んだのも束の間、
背後のジェネレーターが
不気味な紫色の閃光を
激しく放ち始めた。

周囲の空間が
メキメキと音を立ててひび割れ、
ロンドンの空が
完全に別の世界線に飲み込まれようとしている。

「しまった、もう起動が始まってる!
エンジンそのものを破壊しないと止められない!」

クロエはジェネレーターのコアに向かって、
銀貨と急造の時計を突き出した。

しかし、何も起こらない。

「なんで!?
遺物はあるのに……!」

(——そうか。

私一人の脈拍じゃ、
パラドックスの出力が全然足りないんだわ!)

クロエがハッとして下を見下ろすと、
テオがぶら下がっていた鉄骨の梁(はり)が、
ジェネレーターの振動に耐えきれずに
今まさに折れようとしていた。

「テオ!!」

「……クロエ、やれぇっ!」

ミシッ、という凄まじい音とともに鉄骨が折れ、
テオの身体が、暗い塔の底へと、真っ逆さまに落ちていく。

「——テオッ!!」

クロエは一瞬のためらいもなく、
ジェネレーターを背にし、崩れゆく足場から、
落下していくテオに向かって頭から身を投げた。

猛烈な風が耳元を吹き抜ける。

クロエは両手を伸ばし、
重力に逆らうように
空気をつかんでテオへとせまる。

「馬鹿野郎!!
なぜ跳んだ!!」

落下しながら、
テオが信じられないものを見る目で怒鳴った。

「お前一人なら、
その銀貨で別の世界へ逃げられたのに!!」

「うるさい!!」

クロエは空中でついにテオの身体に追いつき、
彼の首に両腕を回してしがみついた。

「私が逃げるわけないでしょ!
私の命綱はあなたしかいないって、何度言わせるの!」

クロエは、テオの顔を両手ではさみ込み、
至近距離で彼をにらみつけた。

「テオ!
ジェネレーターを吹き飛ばすわよ!
パラドックスを最大出力にする!」

「無茶を言うな!
こんな空中で、どうやって出力を上げる気だ!」

「決まってるでしょ!」

クロエはニヤリと笑うと、
遺物を握り込んだまま、
テオの顔を強引に引き寄せた。

「——あなたを、本気でドキドキさせるのよ」

クロエの柔らかい唇が、テオの唇に重なった。

「……っ!?」

テオの目が大きく見開かれる。

落下する無重力の世界の中で、
風の音も、塔が崩れる轟音もすべてが消え去った。

強引で、大胆で、それでいてひどく不器用なキス。

クロエの真っ直ぐな想いが、
唇を通してテオの全身に流れ込んでくる。

テオの頭の中が真っ白になり、
これまでどんな絶体絶命のピンチでも保っていた冷静さが、
完全に、そして木端微塵に吹き飛んだ。

ドクンッ!!

テオの胸の奥で、
心臓が爆発するかのような
凄まじい鼓動が打ち鳴らされる。

彼自身もあらがうことをやめ、
クロエの腰を折れるほど強く抱きしめ返し、
その熱い口付けに応えた。

ドクン、ドクン、ドクン!!!

二人の極限まで高まった心拍が、
完全に、寸分の狂いもなく同調する。

クロエの手の中で、
銀貨と急造の時計が
かつてないほどの激しさで共鳴した。

青白かったパラドックスの光が、
太陽のような眩い黄金色へと変わる。

「いっけぇぇぇぇっ!!」

クロエとテオを中心に爆発した黄金のパラドックス・エネルギーが、
巨大な光の柱となって時計塔の内部を駆け上った。

その圧倒的な光の奔流は、
暴走していた特異点ジェネレーターを真っ向からのみ込み、
紫色の光を完全に粉砕する。

パリンッ……!!

世界を覆っていた時空のゆがみが、
ガラスが割れるように崩れ去っていく。

眩すぎる光の中、固く抱き合った二人の意識は、
優しく、穏やかな波の中へと溶けていった。

——カチッ、コチッ。

規則正しい時計の音と、香ばしい紅茶の匂いで、
クロエはゆっくりと目を覚ました。

「……んん」

身を起こすと、
そこは彼女が見慣れた、ロンドンの自分のアパートメントだった。

散らかったアンティークの家具も、
修理中の椅子も、すべてが元通りになっている。

「…目が覚めたか」

部屋の隅のキッチンで、
エプロン姿のテオドールが
不機嫌そうに紅茶を淹れていた。

傷一つない綺麗なシャツ。

外からは平和なロンドンの雑踏の音が聞こえてくる。

歴史の改ざんは防がれ、世界線は無事に修復されたのだ。

「テオ!
私たち、帰ってこれたのね!」

クロエはベッドから飛び起きると、
キッチンにいるテオの背中に思い切り抱きついた。

「…っ、おい!
危ないだろう、
熱湯を持ってるんだぞ!」

テオは文句を言いながらも、
その耳の裏は、かすかに赤く染まっている。

空中のあの強烈なキスのことを思い出しているに違いない。

クロエはわざと意地悪く、彼の背中に顔をすり寄せた。

「ねえテオ、
世界も救ったし、これであなたの任務も終わり?」

クロエが尋ねると、テオは少しだけ黙り込み、
それからカップをテーブルに置いて振り返った。

「……あぁ。
本来なら、局へ帰って事のてん末を報告し、
元の『退屈な監視官』に戻るのが俺の仕事だ」

テオの真面目な声に、クロエの胸がチクリと痛んだ。

(そっか……
もう、一緒に時空を跳び回る理由はないんだわ)

クロエが少しだけうつむいて彼から離れようとした、その時。

テオの大きな手が、クロエの手首をガシッとつかんだ。

「……っ」

「だが」

テオはクロエの手首をつかんだまま、
彼女をグッと自分の方へ引き寄せた。

「君を一人で置いていったら、
今度はどこの時代の、
どんな貴重なアンティークを
ぶち壊すか分かったもんじゃない」

「え……?」

テオはあきれたようにため息をつきながらも、
その瞳には隠しきれない優しい光が宿っていた。

「局には『銀貨を回収したが、
監視対象の女が危険すぎるため、
引き続き専属のアンカーとして同行する』
と報告しておいた」

「それって……」

クロエの顔が、パッと花が咲いたように明るくなる。

「つまり、これからもずっと私のパシリ……じゃなくて、
アンカーをしてくれるってこと!?」

「パシリと言うな!
俺はお前の命綱だと言っているだろう!」

「ふふっ、あはははっ!」

クロエは嬉しさのあまり、
再びテオの首に腕を回して抱きついた。

テオも今度は突き放すことなく、
不器用な手つきで彼女の背中に腕を回し、
そっと抱きしめ返した。

「……まったく、君には本当に敵わない」

彼の胸の奥から、
静かで、温かい鼓動の音が聞こえてくる。

「ねえテオ。
次はどこへ行く?」

クロエが満面の笑みで見上げると、
テオは肩をすくめた。

「君の行きたいところへ行けばいい。
どうせ俺が止めても、勝手に跳ぶんだろう?」

「ふふっ、わかってるじゃない!」

クロエはテオの手を引き、
部屋のドアへと向かって歩き出した。

「そうね……じゃあ次は、
ルネサンス期のイタリアに行きましょ!
本場のジェラートが私を呼んでるわ!」

「また食べ物か……いい加減にしろよ、クロエ」

文句を言いながらも、
彼の手はクロエの手をしっかりと握り返し、
絶対に離そうとはしなかった。

ドアを開けると、
雲ひとつない現代のロンドンの青空が広がっていた。

二人の果てしない時間旅行は、まだ始まったばかりだ。

(『クロエとテオの時間旅行』 完)

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