『クロエとテオの時間旅行』Part.10
第十話:交錯する世界線、奪われた銀貨
パリの金庫室から逃れた二人が降り立ったのは、
見慣れた現代のロンドン——のはずだった。
「……嘘でしょ。
何なの、これ」
テムズ川の河畔に投げ出されたクロエは、
どんよりと曇った空を見上げて絶句した。
ロンドンの象徴である巨大な時計塔、
ビッグ・ベンの背景に、
蜃気楼のように
「古代ローマのコロッセオ」と
「荒廃した未来の廃墟」が
半透明になって重なり合っているのだ。
空にはオーロラのような不気味な時空の亀裂が走り、
行き交う人々はパニックに陥って逃げ惑っている。
「……奴ら、
ついに『特異点ジェネレーター』を起動しやがったんだ。
歴史が混ざり合い、この世界線が崩壊し始めている」
テオが血の滲む唇を噛み締めた、その瞬間。
『——その通り。
お前たちの逃避行も、ここまでだ』
背後の空間が歪み、
冷戦のベルリンで工場の下敷きになったはずの男——
片目に傷のある侵略者たちのリーダーが、
数十人の武装した部下を引き連れて現れた。
「しぶといわね!
何度やられれば気が済むのよ!」
「小娘が。
貴様らのせいで計画は遅れたが、
最後の一つが手に入ればすべて終わる。
……やれ!」
リーダーが手を振り下ろすと同時、
部下たちが一斉に未来の銃器を構えた。
「クロエ、伏せろ!!」
テオがクロエの身体を突き飛ばし、
自ら盾となって前に出る。
凄まじい光線の雨。
テオは手にしたカットラスで
数発を弾き落としたが、
リーダーが放った特殊な衝撃波が、
彼の身体を容赦なく吹き飛ばした。
「がはっ……!」
「テオ!!」
テオの身体が石畳に叩きつけられ、鮮血が舞う。
そして、その衝撃でクロエの胸ポケットから、
あの『銀貨』がこぼれ落ちてしまった。
チャリン、と虚しい音を立てて転がった銀貨を、
リーダーが冷酷な笑みとともに拾い上げる。
「パラドックスの鍵、確かに頂いた。
これでジェネレーターは完全な出力を得る」
「返して!
それは私がノミの市で買ったものよ!」
「クロエ、行くな……!」
テオが血まみれの手で
クロエの足首をつかんで止める。
リーダーはクロエたちにトドメを刺すことすら
時間の無駄だと判断したのか、
「特等席で世界が消えるのを見ているがいい」
と冷たく言い捨て、
部下たちとともに
時空のゲートの向こうへと姿を消した。
空が不気味な紫色に染まりゆく中、
クロエは意識を失いかけているテオを引きずり、
近くにあった大英博物館の展示室へと逃げ込んだ。
館内には、避難をうながす警報が鳴り響き、
誰一人いない。
「テオ!
しっかりして、テオ!」
壁に寄りかからせたテオの腹部からは、
ひどい出血があった。
いつもクロエの手首を
力強くつかんでいた彼の手は、
今は氷のように冷たくなっている。
「……クロエ、聞いてくれ」
テオが掠れた声で、
途切れ途切れに紡ぐ。
「俺のコートの裏地に……
局が用意した、
緊急用の『一方通行の跳躍リング』がある。
それを使えば、君一人だけなら、
まだ無事な別の並行世界へ逃げられるはずだ……」
「……は?
何言ってんの?」
「俺は……もう助からない。
それに、銀貨を奪われた今、
パラドックスを起こす手段がない。
だから……お前だけでも……」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、
クロエの瞳に大粒の涙が浮かび——
次の瞬間、彼女はテオの胸ぐらを
両手で思い切りつかみ上げていた。
「ふざけないでよ!!」
クロエの怒鳴り声が、
静まり返った博物館に響き渡った。
「私が、あなたを置いて
一人で逃げるわけないでしょ!?
私の命綱はあなたしかいないの!
あなたがいない平和な世界なんて、
ちっとも面白くないわよ!!」
テオは驚きに目を見開いた。
彼女の頬を伝う涙が、
テオの顔にポタリと落ちる。
「……直すわ。
修復師の意地を見せてあげる」
クロエはテオの懐から、
ベルリンで壊れたままの「懐中時計」を
乱暴に取り出した。
そして、周囲を見渡す。
ここは歴史博物館。
目の前のガラスケースの中には、
エジプトの隕石から作られた短剣や、
中世の錬金術師が使った奇妙な羅針盤など、
あらゆる時代の「遺物」が眠っている。
「銀貨がないなら、
代わりのパラドックスを作ればいいんでしょ!」
クロエが展示ケースを叩き割ろうとしたその時、
博物館の入り口のガラスが派手に砕け散り、
侵略者の追手たちがなだれ込んできた。
リーダーが念のために残していった部下たちだ。
「いたぞ!
息の根を止めろ!」
「もーっ!
本当に空気が読めない連中ね!!」
クロエは立ち上がり、
追手たちの頭上——
吹き抜けになった二階の回廊に展示されていた、
ある巨大な展示物に目をつけた。
それは、中世ヨーロッパの
重装甲の騎士の甲冑(かっちゅう)が、
騎馬に乗った状態で
ズラリと十体並んでいるという、
大迫力の展示だった。
(……ふふっ。
いくら未来の武器でも、
中世の物理的質量には勝てないわよ!)
クロエは近くの壁にあった
展示用の巨大なタペストリーのはしをつかむと、
力任せに引っ張った。
メリメリッ! と留め具が外れ、
何十メートルもある重厚な布が、
二階の回廊から
一階にいる敵兵たちの頭上へと
バサァァァッ!とおおいかぶさった。
「うわっ、前が見えない!」
「さあ、騎士様たち、
出陣の時間よ!」
クロエは、二階へ通じる階段の装飾柱を
全力で蹴り飛ばした。
その振動で、
バランスをギリギリで保っていた先頭の
騎馬甲冑の台車がズレる。
ガシャァァァン!!
重さ数百キロの鉄のかたまりが、階段をすべり落ちる。
それが後ろの甲冑にぶつかり、
次々とドミノ倒しのように押し出されていく。
ガラガラガッシャァァン!! という凄まじい轟音とともに、
鉄の騎士たちの雪崩が、
タペストリーで身動きが取れない敵兵たちを
物理的な重さで完全に押し潰した。
「ストライク!
さあ、今のうちよ!」
クロエは急いでガラスケースを割り、
古代の羅針盤の歯車と、
エジプトの隕石の欠片を取り出した。
自分の髪留めのピンを使い、
壊れた懐中時計の基盤に
それらを強引に組み込んでいく。
アンティークを知り尽くした彼女の指先は、
迷いなく異時代の部品をかみ合わせていく。
「……クロエ、そんな急造品で……
跳躍できるはずが……」
「黙ってて!
私のカンが『いける』って言ってるの!」
カチッ、と。
不格好につなぎ合わされた時計が、
不規則な、しかし確かな鼓動のような音を立てて動き始めた。
「できた!
でも、銀貨がない分、
時空に穴を開けるための
パラドックスの出力が足りない……!」
クロエは時計を握りしめ、
血を流して座り込むテオの前に
ひざをついた。
「テオ。聞いて。
出力が足りないなら、
私たちが強引に心拍数を上げるしかないの」
そう言うと、クロエは迷うことなく、
テオのひざの上にまたがるようにして座り込んだ。
「なっ……クロエ、
お前、何を……っ」
重傷を負っているテオの顔が、
一瞬で真っ赤に染まる。
クロエは彼の首に両腕を回し、
自分の身体を、彼の分厚い胸板に
これ以上ないほど密着させた。
「いつも、あなたが強引に引き寄せてくれたでしょ。
今日は、私があなたをリードする番よ」
クロエの顔が近づく。
彼女の大きな瞳が、
テオの視線を真っ直ぐに捕らえて逃がさない。
鼻先が触れ合う距離。
クロエの甘い吐息が、テオの唇を掠める。
「……っ」
テオの胸の奥で、
心臓が爆発しそうなほどの勢いで跳ね上がった。
血を流して死にかけているというのに、
目の前にいる、世界で一番無鉄砲で、
世界で一番愛おしい女性の温もりが、
彼の全神経を強制的に呼び覚ましていた。
「……本当に、敵わないな……お前には」
テオは血に濡れた右腕をゆっくりと持ち上げ、
クロエの背中を、折れるほど強く抱きしめ返した。
ドクン、ドクン、ドクン!!
死の淵にいる男の鼓動と、
彼を絶対に失いたくないという女の鼓動。
二つの激しい脈拍が、
これまでで最高の振幅で重なり合い、
完璧な同調を果たす。
「行くわよ、テオ!
私たちの世界を取り戻しに!」
急造品の時計が、
二人の熱に呼応するように
黄金の光を吹き上げた。
世界の空が完全に崩落し、
ロンドンの街が
異次元に飲み込まれるコンマ一秒前。
固く抱き合った二人は、
敵の親玉が待つ「特異点ジェネレーター」の中心部へと向け、
捨て身の跳躍を敢行した。


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