『クロエとテオの時間旅行』Part.9

第九話:いつわりの夫婦


「ちょっとテオ、
このコルセットきつすぎるわ!

息ができないんだけど!」

「我慢しろ。

19世紀末のパリの社交界に潜入するんだ、
服装の乱れは命取りになる」

1889年、ベル・エポック(古き良き時代)のパリ。

絢爛豪華なオペラ座の近く、
とある大貴族の邸宅のひかえ室で、
クロエは鏡の前で盛大なため息をついていた。

深い夜空のようなネイビーブルーのシルクドレスは、
修復師として見ても惚れ惚れするような
アンティークの最高級品だったが、
いかんせん着心地は最悪だ。

「大体、なんで私たちが
『アメリカから来た大富豪の夫婦』のフリをして、
こんな窮屈なパーティーに出なきゃいけないのよ」

「文句を言うな。

侵略者たちの狙いは、
この館の地下金庫に保管されている
『黄金のアストロラーベ(天体観測儀)』だ。

奴らに時空の座標を狂わされる前に、
俺たちが先回りして盗み出す。

……いいか、
今日は絶対に目立つようなマネは——」

説教をしながら
振り返ったテオドールの言葉が、
ふいにピタリと止まった。

「……テオ?」

クロエが小首を傾げる。

仕立ての良い漆黒のタキシードに身を包んだテオは、
いつも以上に背が高く、
端正な顔立ちが際立っていた。

しかし、今の彼は
まるで石像のように固まり、
クロエの姿を
瞬きもせずに見つめている。

美しく結い上げられた髪。

デコルテを大胆に見せたドレス。

普段の動きやすさ重視のラフな格好からは想像もつかないほど、
今のクロエは、圧倒的なまでの「淑女」の艶やかさを放っていた。

「……なによ。変?」

クロエが少し恥ずかしくなって視線を逸らすと、
テオはハッと我に返り、
ごまかすように口元をおおって、せき払いをした。

「……いや。
少しはマシに見えると言おうとしただけだ。
行くぞ、『ハニー』」

「なによそれ。
絶対無理してるでしょ、
その呼び方」

憎まれ口を叩きながらも、
差し出されたテオのエスコートの腕に手を絡めると、
彼の体温がドレス越しにじんわりと伝わってきた。

クロエの胸の奥が、
コルセットの締め付けとは違う理由で、
きゅうっと小さく鳴った。

シャンデリアがまばゆく輝く大広間は、
ワルツの音楽と、シャンパンの香りに満ちていた。

二人は招待客の波を優雅にすり抜け、
地下金庫へと続く立ち入り禁止の廊下へと向かう。

しかし、その廊下の入り口には、
いかにも屈強な警備兵が二人、
するどい目を光らせて立っていた。

「まずいわね……
あそこを通らないと地下に行けないのに」

クロエが扇子で口元を隠しながらささやく。

「……俺に合わせろ」

テオは小さくつぶくと、
突然、クロエの腰をぐっと引き寄せた。

「えっ、ちょっとテオ——」

「しっ。笑え」

テオはクロエを腕の中にすっぽりと収めると、
まるで世界に彼女しか見えていないような、
とろけるほど甘い視線で彼女を見つめ下ろした。

普段の不機嫌な彼からは想像もつかない、
完璧に計算された「恋に狂う大富豪の夫」の演技。

そのまま二人は、
ふらつくような千鳥足で
警備兵のもとへ歩いていく。

テオの顔がクロエに近づき、
その鼻先が彼女のほおをかすめる。

シトラスの香水がふわりと香り、
クロエは演技ではなく本気で顔を真っ赤にした。

「おい、そこは立ち入り禁止——」

警備兵が槍を交差させて止めるが、
テオはクロエの首筋に顔を埋めたまま、
酷く気怠げな、
そして色気を含んだフランス語でささやいた。

『すまないね。

妻が少し酔ってしまって……
少しばかり、
二人きりで「休める」静かな部屋を探しているんだ。

邪魔しないでくれないか?』

テオの手が
クロエのドレスの腰のラインを
艶かしくなぞる。

「ひゃっ」というクロエのリアルな声が漏れ、
警備兵たちは「あぁ、なるほど」と
あきれたように顔を見合わせ、
気まずそうに道を空けた。

廊下の死角に入った瞬間、
テオはパッとクロエから離れた。

「……よし、突破したぞ。
行くぞ」

「あ、あんたねぇ……!」

耳まで真っ赤にしているクロエに対し、
テオは平然と前を歩いているように見えた。

しかし、クロエの目には、
彼の後ろ首が火の出るように
真っ赤に染まっているのが
しっかりと見えていた。

(……なによ。

余裕ぶってるけど、
そっちも相当無理してたじゃない)

クロエは少しだけ胸のすく思いで、
足早に彼の背中を追った。

地下金庫の重厚な扉は、
テオが持ち込んだ特殊なピッキングツールで
あっさりと開いた。

薄暗い保管庫の中央に、
目的の『黄金のアストロラーベ』が鎮座している。

しかし、その周囲には、
今まさに展示室へ運ばれるのを待っている
「等身大の大理石の彫刻(ローマ皇帝の胸像)」が、
車輪のついた展示台に乗せられてズラリと並んでいた。

「あったわ!
テオ、あれね!」

クロエがアストロラーベを手に取った、
その瞬間だった。

金庫の反対側にある通気口の鉄格子が蹴り破られ、
青い光線を放つ銃を構えた黒服の侵略者たちが、
数人なだれ込んできたのだ。

「遅かったな、ネズミ共。
そのアーティファクトを置いて——」

「テオ、耳を塞いで!」

クロエは敵の口上を最後まで聞くことなく、
近くにあった「重厚なベルベットの巨大なカーテン」の留め金を
思い切り引っ張った。

バサァァァッ!! と音を立てて、
分厚いカーテンが
敵の頭上からすっぽりと被さり、
彼らの視界を完全に奪う。

「な、なんだ!?
前が見えん!」

「さあ、ローマ皇帝のお通りよ!」

クロエはドレスのすそを豪快にたくし上げると、
車輪のついた大理石の展示台を、
ボウリングの球を転がすように
「ドンッ!」と連続で蹴り飛ばした。

ゴロゴロゴロ!!!

百キロ近くある重たい大理石の胸像たちが、
カーテンで目を塞がれてもがく敵兵たちに向かって
一直線に突進していく。

「ぐわぁっ!?
何か硬いものが——」

「痛っ、足が!」

カエサルやアウグストゥスといった歴代皇帝の硬い大理石の頭が、
次々と敵の鳩尾や脛にクリーンヒット。

見事なストライクを連発し、
侵略者たちは、あっという間に気絶して床に転がった。

「ふふっ。
ごめんあそばせ、皇帝陛下!」

クロエがアストロラーベを抱えて
ウィンクをした、その時。

気絶を免れた敵の一人が、
朦朧とする意識の中で
銃の引き金を引いた。

光線はクロエたちを外れたが、
あろうことか「金庫の電子ロックの基盤」を撃ち抜いてしまった。

ガシャンッ!!

分厚い鉄の扉が凄まじい音を立てて閉ざされ、
ロックが完全に焼き切れてしまう。

「まずい!
扉が完全にロックされた。

この時代の工具じゃ
二度と開かないぞ!」

「なら、ここから跳躍するしかないわね」

しかし、銃撃で空調システムも破壊されたのか、
金庫室の温度が急激に下がり始めていた。

冷たい石の床から冷気が這い上がり、
薄着のドレス姿のクロエは
「くしゅんっ」と小さくくしゃみをして肩を震わせた。

「……少し、冷えるわね」

「無理をするな」

テオはすかさず自分のタキシードのジャケットを脱ぎ、
クロエの華奢な肩にふわりと掛けた。

彼自身の体温が残るジャケットの温かさと、
シトラスの香りがクロエを包み込む。

「ありがとう……」

薄暗い金庫室。

敵は気絶し、外の音は完全に遮断されている。

世界から切り離されたような静寂の中、
二人はごく自然に、
顔が触れ合いそうなほどの至近距離で見つめ合った。

テオが、ふと手を伸ばす。

その大きな手がクロエの頬に触れるかと思いきや、
彼はクロエの美しく結い上げられた髪にそっと指先を滑らせた。

「……銃撃の時に、
天井の漆喰(しっくい)の粉が落ちてきたらしい」

テオの長く綺麗な指が、
彼女の髪から白い粉を優しく払いのける。

その眼差しは、
先ほど廊下で警備兵を騙した時の
「演技」の甘さとは全く違っていた。

不器用で、真剣で、
どこか泣きたくなるほど優しい、
クロエだけが知っている『本物のテオ』の視線だった。

(……ズルいわよ、そんな顔)

クロエの胸の奥で、
トクン、とこれまでで一番大きな音が鳴った。

パラドックスを起こすための落下や恐怖なんて、もう必要なかった。

彼の手が髪に触れ、
その真摯な瞳に見つめられているという事実だけで、
クロエの心臓は破裂しそうなくらいに高鳴っている。

テオもまた、
クロエの瞳の奥に吸い込まれるように、
ゆっくりとその顔を近づけた。

吐息が混ざり合う距離。

「……クロエ」

「テオ……」

甘い緊張感が最高潮に達し、
二人の唇が触れ合うかと思った、その瞬間。

『——扉を爆破しろ!
中にいるぞ!』

金庫の外から、増援の侵略者たちの声と、
爆弾を仕掛ける物騒な音が聞こえてきた。

「……っ、ムードも何もないわね!」

クロエがハッと我に返って顔を赤くする。

テオも慌てて視線を逸らし、
乱暴に咳払いをした。

「……っ、跳ぶぞ!
掴まれ!」

テオはクロエの腰に腕を回し、
彼女を力強く抱き寄せた。

二人の間にアストロラーベと銀貨、
そして星隕鉄で修理された時計が挟み込まれる。

「あんたの心臓、すっごくうるさいわよ」

クロエが彼の胸に耳を押し当てながら、
意地悪くクスクスと笑う。

「……君の音も、たいがいだろう」

ドクン、ドクン。

恋する二人の激しい鼓動が、
寸分の狂いもなく完璧に同調する。

金庫の扉が爆破され、
紅蓮の炎が室内に吹き込んだコンマ一秒前。

黄金の光が二人を包み込み、
甘い香水の匂いだけを残して、
二人は時空の彼方へと消え去った。

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