「自然淘汰」を騙る愚かな「人為的選抜」
〈「役に立たないなら自然淘汰されていくのが全体最適」という意見に対し〉
役に立つ・立たないという価値基準持ち出した時点で既にそれは「自然淘汰」ではなく「人為的選別」でしかないと思う。
昔、盲腸なんて役に立たないばかりか虫垂炎の原因になるだけだから取っちゃえ!って言われて手術して取り除くことも行われたけど、その後、腸内細菌保存器官だということがわかって「役に立つ」ものだと分かった。
ヘリコバクター・ピロリは胃がんの原因菌だから全部除去しちゃえ!ということで完全除菌することが流行ったけど、この菌が胃液逆流症を防ぎ、結果として胃がんより厄介な食道がんの確率を下げていることがはっきりしてきて、胃がん体質の人以外は除菌を勧められなくなった。
もし「自然淘汰」であるならば、盲腸はとうの昔に消えてなくなってるはずだし、ヘリコバクター・ピロリは胃がんで宿主たる人間を殺しまくって胃袋から消えてなくなっているはず。でも残ってる、ということは、何らかの意味があるのかもしれない。そんなふうに現代の科学では捉えるようになりつつある。
元ポストは、そうした最新の科学の捉え方とは逆に、「昭和前期以前かよ」という古臭い「人為的選別」の思考に囚われている気がする。自然淘汰のフリして、人間の価値判断という、実に愚かな基準で判断しようとしているもののように思う。自分の愚かな選別を「自然淘汰」という、あたかも神による賢慮であるかのようにカモフラージュする傲慢さが臭う。
その昔、共産主義国では「役に立たないものは不要」という考えで、たとえば中国なんかはみんな人民服になり、ファッションなんかムダ、と排除した。確かに人間の愚かな合理性に鑑みれば、ファッションなんて何の役に立つのか分からない。ムダ、という判断がなされても当然だろう。で、役に立たないものとして「自然淘汰」されたかに見えた。でも結局、中国でさえファッションは復活した。復活したということは、それは「自然淘汰」ではなく「人為的選別」でしかなかったということなのだろう。役に立つ・立たないという、人間自らが立てたはずの価値基準ですら、人間は守ることもできない。
一角獣のキバは不必要に長い。たぶん何の役にも立ってない。でもメスに気に入られるには必要であるらしい。キジやクジャクは、ムダにオスがきらびやか。メスに気に入られるために必要であるらしい。メスの愛を獲得するために「役に立ってる」とは言えるものの、もっと大きな視点から立てば、役に立たないとも言える。でもさらに大きな視点に立てば、「そうしたムダな機能を維持することができるくらいに強い個体である証拠」を示すという意味で役に立ってるのかもしれない。でもやっぱりムダなのかも。
と、人間の浅はかさでは、役に立つ・立たないがはっきりしない。一定の浅はかさがあると思考の一部を断ち切り、「人為的選別」することは可能だけど、少し視点をずらすだけで役に立つ・立たないの判断すら逆転する。「人為的選別」は人間の浅はかさに根拠がある以上、自然淘汰のマネなどできやしない。そして自然界にはたくさんのムダがある。自然淘汰されていないムダがたくさんある。なぜそうしたムダが保存されているのかは、人間にはまだまだ推し量れない部分が大きい。
人間は「自然淘汰」を語れるほど賢くない。そう弁えることが大切だと思う。自然淘汰を騙る人間は傲慢のそしりを免れないように思う。


効率重視の人間界が不具合起こしまくってるのはまさにそのせいですね