『クロエとテオの時間旅行』
第一話:蚤の市の銀貨
日曜日。
ロンドン郊外の蚤の市は、
古ぼけたガラクタと宝物が入り混じる、
クロエにとって最高の遊び場だった。
「おじさん、この銀貨、見れば見るほど変ね」
アンティーク家具の修復師として働くクロエは、
露店の木箱から拾い上げた一枚のコインを
太陽に透かして目を細めた。
表面の肖像画はどの国の王室にも該当しない。
裏面には、どう見ても存在し得ない架空の年代が刻まれている。
歴史の教科書からこぼれ落ちたような、強烈な「違和感」。
古いものを愛するクロエの好奇心を刺激するには、十分すぎる逸品だった。
「気に入ったなら安くしておくよ、お嬢ちゃん」
「もらうわ。……って、あれ?」
クロエが財布を取り出そうとした瞬間、背後の空気が妙に張り詰めた。
振り返ると、黒ずくめのコートを着た大柄な男たちが三人、
こちらを真っ直ぐに見据えて人混みをかき分けてくる。
彼らの手には、この平和な蚤の市には絶対に似合わない、
鈍く光る銃が握られていた。
男の視線は、クロエの顔ではなく、
彼女の指先にある「奇妙な銀貨」に釘付けになっている。
(……スリ? いや、強盗? ううん、なんだか様子がおかしいわ)
「おい、女! その銀貨をこっちへ渡せ!」
男の一人が声を荒らげ、銃口を向けた。
周囲の客たちが悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「ちょっと、私が先に見つけたんですけど!?」
クロエは口ではそう文句を言いながらも、
足元はすでに逃走の準備を完了していた。
銀貨をジーンズのポケットにねじ込むと、
男たちが引き金を引くより早く、
ひらりと身を翻して石畳の坂道へと駆け出した。
「追え! その『遺物』を取り返せ!」
男たちの怒号が響く。
クロエはブーツの踵を鳴らして、
入り組んだ市場の坂道を駆け下りた。
しかし、前方の十字路からも別の黒服たちが現れ、
退路を塞ごうとしている。
絶体絶命のピンチ——と思いきや、
クロエの目の前には、
まるで彼女の逃走を歓迎するかのように
「中身の詰まった巨大なワイン樽」が
ピラミッド状に、しかも坂の頂点という
奇跡的なポジションに積み上げられていた。
しかもご丁寧に、
一番下の樽を止めている木の車輪止めが、
今にも外れそうにグラグラしている。
「嘘でしょ、映画のセットじゃないんだから!」
クロエは走りながらクスッと笑うと、
躊躇なくその車輪止めを思い切り蹴り飛ばした。
ゴロゴロゴロゴロ!!
重低音を響かせ、巨大な樽の群れが
急な下り坂を猛烈な勢いで転がり落ちていく。
「なっ、うわあああっ!?」
十字路から登ってこようとした黒服たちは、
まるでボウリングのピンのように
見事なストライクで樽に薙ぎ払われ、
次々と空を舞って気絶した。
「ごめんあそばせ!」
クロエは転がっていく樽の横をすり抜けながら、
軽快に坂を駆け下りる。
なんて運がいいのかしら、
と鼻歌すら歌いたくなる爽快感だった。
しかし、背後から追ってくる最初の三人はまだ諦めていない。
クロエは身を隠すため、
時計塔の裏手にある薄暗く狭い路地裏へと飛び込んだ。
「痛っ!」
角を曲がった瞬間、
クロエはまるで石の壁にぶつかったような衝撃を受けた。
誰かと正面衝突したのだ。
勢い余って、相手の男と一緒に
濡れた石畳の上へ
派手にもつれ込んで転がる。
「……っ、どこに目をつけて歩いているんだ、君は」
上から降ってきたのは、酷く不機嫌そうな低い声だった。
クロエが顔を上げると、
そこには眉間に深い皺を寄せた、
黒髪の端正な青年が倒れていた。
仕立ての良いコートを着たその青年——テオドールは、
痛そうに頭を押さえている。
「ごめんなさい! でも急いでるの、どいて!」
クロエが立ち上がろうとしたその時、
テオドールの懐から、
銀色の古い懐中時計が転がり落ちた。
ふとそれを見たクロエは、目を丸くした。
「……ねえ、あなたの時計、
針が『逆回転』してるわよ?」
「! 見るな!」
テオドールが慌てて懐中時計を隠そうとした瞬間、
路地の入り口に複数の靴音が響いた。
追いついてきた黒ずくめの男たちだ。
彼らは今度こそ容赦なく、
二人に向かって複数の銃口を向けた。
「そこまでだ。その女ごと撃ち殺せ」
冷酷な声。
今度は都合のいいワイン樽も、
逃げ道もない行き止まりの路地裏だ。
テオドールが舌打ちをし、
クロエを庇うように前に出ようとした。
その時だった。
クロエのポケットに入っていた「奇妙な銀貨」と、
テオドールが握りしめている「逆回転する時計」。
二つの物質が極近距離に近づいたことで、
空間にバチバチと青白い火花が散り始めたのだ。
(何これ……この時計と銀貨が、反応してる!?)
クロエの持ち前の異常な勘と好奇心が、フル回転した。
理由はわからない。
でも、この二つをくっつければ「何か」が起きる。
「おい、君! 離れろ、それは別の世界線の——」
「いいから、黙って私を抱きしめなさい!」
クロエはテオドールの胸ぐらを両手でガシッと掴むと、
彼に勢いよく抱きついた。
「はぁっ!?」
テオドールは裏返った声を上げた。
見ず知らずの女性に突然抱きつかれ、
端正な顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「ちょっと、あんたの心臓、
すごい音で鳴ってるわよ!
緊張してるの?」
「君が突然しがみついてくるからだろうが!
離れろ、撃たれるぞ!」
「いいから、絶対に手を離さないで!」
クロエの銀貨と、テオドールの時計が、
二人の密着した身体に挟まれて完全に触れ合った。
ドクン、ドクン。
極限のピンチによるクロエの早鐘のような心拍と、
突然の抱擁に動揺したテオドールの激しい脈拍が、
嘘のようにピタリと同調(シンクロ)する。
男たちが引き金を引いた。
銃口から火を噴くコンマ一秒前。
二つの「存在してはならない遺物」が最大出力で共鳴し、
空間がガラスのように砕け散った。
「わぁっ!?」
「くそっ、巻き込まれた!」
猛烈な光の渦が二人を包み込み、
重力が消え去る。
弾丸は残像をすり抜け、
二人の身体は
時空の深い底へと
真っ逆さまに落ちていった。
——バシャァッ!
「きゃっ!」
「……っ!」
激しい落下の後、
二人が着地(落下)したのは、
泥水が跳ねる石畳の上だった。
空には分厚いスモッグ。
行き交うのは自動車ではなく、馬車。
ガス灯の甘い匂いが立ち込めている。
どう見ても現代のロンドンではない。
「……ちょっと、なんなのここ!
映画の撮影所?」
クロエは泥だらけになったジーンズを払いながら立ち上がった。
状況はまったく理解できないが、なぜかワクワクが止まらない。
一方、泥まみれのコートを重そうに揺らして立ち上がったテオドールは、
頭を抱えてしゃがみ込みたい衝動と戦っていた。
「最悪だ……」
彼はクロエを鋭い目で睨みつけた。
「別の世界線の遺物同士を接触させた上に、
脈拍まで同調させるなんて!
君のせいで『パラドックス・ショート』が起きて、
俺たちごとはじき飛ばされたんだぞ!」
「はぁ? なによそれ!
あんたが変な時計持ってたからでしょ!」
クロエも負けじと腰に手を当てて言い返す。
「それに、私が抱きついたくらいで
心臓バクバク言わせてたのはそっちじゃない!
感謝してよね、おかげで弾に当たらずに済んだんだから!」
「あれはただの生理的な驚きだ!
だいたい君は、自分がどれだけ危険なことを——」
「はいはい、わかったわかった!
それより見てよ!」
クロエはテオドールの小言を完全に無視し、
目をキラキラさせて馬車が通り過ぎる街並みを指差した。
「馬車よ! ガス灯!
アンティークじゃなくて、本物よ!
ねぇ、ここってまさか、19世紀のロンドン!?」
「……あぁ、そうだよ。
君の無鉄砲な行動のせいで、
俺たちは19世紀にタイムトラベルしてしまったんだ」
テオドールが深い溜息をつくのをよそに、
クロエのテンションは最高潮に達していた。
「最高じゃない!
それじゃ、まずはベイカー街に行って、
本場のスコーンを食べに行かなくちゃ!」
「は?
追手を撒いたばかりで何を——
おい、待て! 勝手に歩き回るな!」
不機嫌に怒鳴るテオドールの声を背中で聞きながら、
クロエは軽やかな足取りで霧の都へと歩き出した。
目的も、帰る方法もわからない。
でも、退屈な日常に戻るよりはずっといい。


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