薄暗いリビングの空気が、これ以上ないほど冷たく張り詰めていた。ローテーブルの上に置かれたハルトのスマートフォンには、見知らぬ男からの熱烈なメッセージ通知が明滅している。
それを冷徹な瞳で見下ろしていたソウタが、静かに立ち上がった。ハルトがいつものようにケラケラと笑おうとした瞬間、その細い手首を、骨が軋むほどの獰猛な力が掴み取った。
「……おい。何をするんだよ、ソウタ」
「行くぞ、ハルト」
ソウタの低い声には、いつもの冷静沈着な響きが欠落していた。その瞳の奥で、制御不能になった圧倒的な狂気がゆらゆらと燃えている。
「お前も、お前をこんな風にしか愛せない僕も、どちらも異常だ。……精神科に行く。今すぐ、力ずくでも連れて行く」
スマートフォンの液晶を叩き割るよりも冷酷で、ある意味で決定的な「拒絶」に近い言葉。 ハルトの脳内の論理回路が、一瞬だけシステムエラーを引き起こした。
(ソウタが、俺たちを『治療』しようとしている?)
もし精神科に行き、この甘美な共依存を「病気」として切り離されてしまったら、自分を縛り付けるこの美しい檻は消えてしまう。
ソウタの理性を狂わせる「特別で代替不可能な俺」という存在理由が、跡形もなく消滅してしまう。
「……ごめんなさい」
ハルトは掴まれた手首の力をわざと抜いて、ふらりとソウタの胸へと崩れ落ちた。 黄金色の髪がソウタの視界を遮り、色素の薄い瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
それは、かつて数年おきに孤独を味わわされ、実の親から犬という記号を押し付けられたときに張り付けていた、あの「手のかからない、完璧に健気な子供」の笑顔と泣き顔のハイブリッドだった。
口角の角度まで計算し尽くされた、ソウタの罪悪感を最も効率的に抉る表情。
「僕が間違ってた。ソウタが最近、大学の課題や将来のことで忙しそうだったから……僕を置いて、どこか遠くに行っちゃいそうで、怖かったんだ。我が儘を言ってソウタのエネルギーを奪いたくなかったから、あんなアプリで気を引くような真似をして……っ」
ハルトは怯えたように肩を震わせ、ソウタのシャツの裾を細い指先でぎゅっと掴んだ。
「病院になんか連れて行かないで。捨てないで、ソウタ……。お医者さんに僕たちのことを話したら、きっと引き離されちゃう。そんなの死ぬより嫌だ。ソウタが怒るなら、もうアプリも消すし、筋トレもやめる。スマホだって、今ここでソウタが叩き割ってよ……!」
ソウタの身体が、電流が走ったかのように硬直した。 手首を掴むソウタの指先が、小刻みに震え始める。
ハルトのこの涙が、自分をこの場に繋ぎ止め、精神科という「ノイズ」から遠ざけるための精巧な演技であることは、鋭いソウタなら分かっているはずだった。 分かっているはずなのに――ハルトの細い首元から伝わる熱と、「捨てないで」という呪詛のような甘い言葉が、ソウタの理性を確実に焼き切っていく。
「……ハルト」
ソウタの声から、病院へ連れて行こうとする硬質な意志が急速に融解していく。 ソウタは投げ捨てるようにハルトの手首を放すと、今度はその細い身体を、壊れ物を壊すかのような矛盾した強さで強く、強く抱きしめた。
「……本当に、ずるい奴だ」
耳元で響くソウタの低く、諦めに似た吐息。その瞬間、ソウタの胸に顔を埋めたハルトの口元に、涙に濡れたままの、ひどく冷ややかでうっとりとした「本物の笑み」が浮かび上がった。
精神科医の正論など、この焦土の楽園には届かない。 ハルトの計算通り、二人の檻の鍵は、内側からさらに強固に締められたのだった。