「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.11

第十一章 霧の校閲


金曜の朝刊は、定刻に街へ出た。

最終面の右下。観潮院公報。

『当該案件、収束。
潮は遠のきつつあり』。

欄外には、刷りたての角枠の版表記が、
今日から初めて、小さく並んでいた。

ニノは社の屋上から、
配達の自転車が
霧の坂を散っていくのを見ていた。

あの紙が今、
八十三個の時計の鳴る店の郵便受けに落ちる。

波止場の下宿の階段を上がっていく。

自分が誤植だけを直して通した、
本当のままの紙が。

引き金は、配達された。


時計店の朝を、
後にウォルダは何度も思い返すことになる。

公報を読んだとき、最初に来たのは、音だった。

四ヶ月ぶりに、店の八十三個の時計が、
ただの時計の音に聞こえた。

秒読みではなく、時を刻む音に。

潮は、遠のいた。

ウォルダは椅子に座り込み、
長いこと、ただ呼吸をした。

それから立ち上がり、
カウンターの下の、
一番深い引き出しを開けた。

切り抜きの束の奥。三通の手紙。

終わったのなら、読める。

何も始まらないのなら、もう、読んでいい。

一通目は、詫びだった。

三年前のこと。あの潜航のこと。

二通目は、問いだった。

おまえも見ているのか、と。

そして三通目——
十日前の消印の、
几帳面な、傾いで跳ねる字。

『——会って、互いの夢を突き合わせたい。
どの日でもいい、店の閉めた後に、
昔の道具置き場——印刷所裏で待つ。

ただし、金曜だけは来るな

俺の集計では、金曜が峠だ。

峠の夜に現れたら、
俺は、夢の方を信じる。

それ以外の夜に来てくれ。

頼む。

S・N』

ウォルダは、手紙を持ったまま、壁の暦を見た。

金曜の欄に、理由も分からず自分で付けた、あの印。

今日だった。

——今夜を過ぎれば、また一週間、
この手紙を引き出しに戻すのか。

閂を掛け、正の字を数え、
震える指でねじを巻く一週間を、もう一度。

潮は、遠のいたのだ。

新聞がそう言った。

峠など、もう無い。

なら、今夜行って、この紙を見せて、終わらせる。

四ヶ月ぶんの夜を、今夜で。

ウォルダは公報を丁寧に切り抜き、
四つに折って、胸の隠しに入れた。

インクの匂いが、まだ残っていた。


日没の一時間前、
ニノは印刷所裏の路地に入った。

霧は、この秋一番の濃さだった。

ガス灯が、夢で見た通りの間隔で、
夢で見た通りに揺れている。

左から三枚目の敷石。

稲妻形の罅。

ニノは路地の中ほど、
罅の見える位置の壁際に立ち、
外套の下の綴りを確かめた。

決裁の写し。

檻の証言の線別仕分け。

筆跡の照合表。

誰も死ななかった九つの線の原票の写し。

——そして、待った。

宿の三階では、同じ頃、
イヴが寝台に横たわっていた。

枕元にテオ・ガリ。

砂時計と、帳面と、革の水筒。

老人は皺だらけの指を、彼女の手首に当てた。

「いいか、嬢ちゃん。
叫ぶのは一度きりだ。
一度叫んだら、何も考えるな。
岸のことだけ考えろ」

「分かってる」

「岸の声は、決めたか」

イヴは目を閉じた。

答えの代わりに、唇の端だけで笑った。

「……野暮ね、爺さん」

彼女の呼吸が、深く、
ゆっくりと、変わっていった。


最初に路地へ現れたのは、セルゲだった。

霧の奥から、足音もなく。

外套の襟を立て、路地の北の口に立つ。

待ち合わせ場所を見渡し、誰もいない——
壁際の暗がりのニノには、まだ気づいていない——
ことを確かめて、彼は懐中時計を見た。

来ないことを、確かめに来たのだ。

金曜に来ないことが、ウォルダの答えになる。

来なければ、夢は遠い線の話で、
手紙の続きを書ける。

南の口で、足音がした。

セルゲの体が、石になった。

霧の中から、ウォルダ・キリクが歩いてきた。

胸の隠しから四つ折りの紙を出し、
掲げるように持って、口を開きかけ——

来るなと言ったはずだ

セルゲの声は、
ニノが夢で聞いた通りの、湿った低さだった。

「今夜は、来るなと」

「……手紙なら、今朝読んだ。
聞いてくれ、セルゲ。
潮は——」

今朝?」

セルゲの声が、割れた。

「十日前に出した手紙を、今朝?
……ああ、そうか。そういうことか。
読んでなかったんじゃない。
読まずに取っておいたんだな。
一番効く夜に、俺を呼び出すために——」

「違う!
読めなかったんだ、怖くて——
今朝の新聞で、潮が遠のいたと——
だから——」

「新聞だと?」

セルゲが、嗤った。

嗤いながら、半歩、踏み込んだ。

「観潮院の紙切れを信じて、
よりによって峠の夜に来たのか。

先に決めたのは、おまえだろう——
三年前、俺の最悪の線を覗いて、
黙って札を返したのは、おまえが先だ!」

夢の台詞が、二つとも、
現実の霧の中で発火した。

掴み合いが、始まった。

外套の布の裂ける音。

壁に背中の当たる鈍い音。

揉み合う二人の手の間に——
どちらのポケットからか、
霧そのものからか——
細く冷たいものが、
いつの間にか、覗いていた。

今だ。

ニノは暗がりから踏み出し、
両手を広げて、
二人の間合いの中へ割って入った。

灯標新聞、校閲部、
異同の読み合わせを始めます!

役所の告示のような、場違いに平板な大声。

揉み合う二人の動きが、混乱で一瞬、緩んだ。

ニノは綴りを開き、構わず読み上げた。

一番疑わしい行から。

「一!
セルゲ・ナダル、
あなたの集計した『峠』——
あなたは自分の見た夢の数で割り出した。

だがあなたが見ていたのは、
あなたが刺される線だけだ

観潮院の檻には六十三件あった。

あなたが刺す線が、二十二件。
あなたが刺される線が、二十六件。
どちらも見なかった線が、九件

あなたの集計には、
自分の死しか入っていない。

分母が欠けた計算は、計算じゃない!」

セルゲの目が、揺れた。

「二! ウォルダ・キリク、
あなたが今朝信じた公報——
『潮は遠のく』。
原本の決裁を読み上げます。

『市民の動揺を招く虞、大。
動揺防止条項を適用し
公報は遠い線の残響とする』。

あの安心は、観測の結果じゃない。

編集の結果だ

あなたの胸の切り抜きは、
まだ何も確かめていない!」

「黙れ——」

セルゲの腕が、
ニノの綴りを払おうとした。

「盗み見た写しを、誰が信じる!」

私が信じます

霧の北の口から、声がした。

灰色の制服外套。

一筋の乱れもない霜混じりの髪。

ドミニ・ロウが、角灯を提げて、路地に立っていた。

背後に、当惑顔の書記官が一人。

「その写しの原本は、私の決裁です。

文面に、相違ありません。

——本日付で、私は条項適用の再審理を、
自分の決裁に対して請求しました。

観潮院首席審理官として、
ここに口頭で告知します。

霧の路地案件、
『収束』の公報は、保留

セルゲの腕が、止まった。

四ヶ月、彼の世界の重しだった
「誰も信じてくれない」が、
制服を着て、目の前に立っていた。

その一瞬の隙間に——

二人の男が、同時に、ぶるりと震えた。

理由のない悪寒。

首筋の冷え。

誰かに、強く、強く見られている感覚。

振り返れ。紙を確かめろ。

——言葉の形をしていない何かが、
二人の骨の芯を、同時に通り抜けた。

(宿の三階で、イヴ・マルセナは、
声にならない叫びを、
深みの底から二人の夜へ叩きつけていた)

ウォルダの膝が、敷石についた。

がくり、と。

糸の切れた人形のように。

その拍子に、
揉み合いの間に覗いていた細く冷たいものが、
彼の手の届かない敷石の上へ滑り落ち——

こん、と鳴った。

夢の音だった。

だが、その横に倒れる者は、いなかった。

「……読み上げの、最後です」

ニノは、綴りの最後の頁を開いた。

声が、掠れていた。

「誰も死ななかった九つの線の、共通項。
読み上げる男が、いたこと
それだけです。

あなたたちの線は——
この夜は——
まだ、刷られていない。

版は、組み終わっていない。
未校了です

直すなら、今、ここで」

霧の路地に、長い沈黙が降りた。

ウォルダが、膝をついたまま、
胸の隠しから今朝の切り抜きを出した。

震える指で、それを開き、
初めて——
本当に初めて——
疑う目で、読んだ。

それから、四つ折りに戻さず、
ゆっくりと、握り潰した。

セルゲは、壁に背を預けて、
ずるずると座り込んだ。

両手で顔を覆い、
その指の間から、
笑いとも嗚咽ともつかない音が漏れた。

「……五十回だ」

呻くように言った。

「五十回、自分の死に方を見た。
なあ、ウォルダ。
おまえは何回——
自分が俺を殺すところを」

「……数えてない」

時計師は、敷石を見たまま答えた。

「数えるのが、怖かった。
だから紙の方を、数えてた」

二人の間に、もう間合いはなかった。

あるのは、四ヶ月ぶんの夜の残骸と、
握り潰された今朝の紙だけだった。


その後のことは、事務的に進んだ。

ドミニの書記官が細いものを布に包んで回収し、
二人の男から、それぞれの聞き取りの約束を取った。

逮捕者はなかった。

死者は、いなかった。

霧だけが、変わらず濃かった。

人が引き上げ、ニノは一人、路地に残った。

綴りを閉じる気力もなく、壁にもたれ、
左から三枚目の敷石を見るともなく見ていた。

罅の上に、今夜は、何も広がっていない。

そのとき。

首筋が、すうっと、冷えた。

誰もいない路地で、見られている。

理屈より先に、骨が分かった。

テオの言った通りだった。

窓ガラスは、夜には鏡になる。

今、この夜のどこかの面に、
薄く、誰かの影が映っている。

この路地を——
この自分を——
どこかの線の眠りの底から、
覗いている誰かが。

ニノは、ゆっくりと顔を上げた。

霧の出口に向かって。

夢の中で、あの影が立っていた、まさにその位置に、
今、自分が立っていることに——
顔を上げた、その動きの途中で、気づいた。

口が、勝手に開いた。

いや、勝手にではない。

これを言うために、
自分の夢は、あんなにも怖かったのだと、
言いながら分かった。

「——見ていたな

霧は、答えなかった。

ただ、どこか遠くの、
別の夜の寝床で、
一人の青年が
銅貨の音とともに跳ね起きたことを、
ニノはもう、知っていた。

あの夜、霧の出口からこちらを覗き込んだ影。
あの声。
あれは、間に合わなかった線の——
倒れた男の傍らに立ち尽くした夜の——
自分だったのだ。

そしてその自分は、
知っていてああ言ったのだ。

乗っている誰かを、震え上がらせるために。

震え上がった男が、翌朝、
敷石の罅の前にしゃがみ込み、
確かめ始めるように。

恐怖が、最初の校正刷りだった。

刷ったのは、自分だった。

ニノは霧の中で、
長いこと、笑うとも泣くともつかない息を吐いた。

それから綴りを抱え直し、
宿へ向かって走り出した。

確かめなければならないことが、まだ一つ——
一番大事なのが、一つ、残っていた。

深みに潜ったまま、
まだ戻らない人の、脈が。

(第十一章 了)

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「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.11|古井和雄
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