「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.10
第十章 不変項
水曜の夜、「錨と山査子」の三階で、
二人は最後の照合に取りかかった。
観潮院の檻で写し取った六十余件。
三行広告で集めた十二件。
イヴの正規証言と、ニノ自身の夢。
卓上に広げると、帳面は四冊になっていた。
「線ごとに、仕分けるわよ。
揺れる細部で束ねて、揺れないものを抜く」
夜半までに、壁は付箋で埋まった。
霧。罅。火傷。
いつの間にかの刃物。
そして——紙。
「紙の出方を、全部読み上げてください」
ニノの指示で、
イヴが帳面を繰っていく。
「荷運びの男。
倒れた側の胸の上で、
手が紙を握り潰してた」
「仕立屋。
落ちた刃物の横に、
丸めた新聞の切れ端」
「檻の写しの十九番。
刺した側の左手に、四つ折りの紙。
揉み合いの間も離さなかった」
「二十六番。
倒れた男の懐から、紙の束。
古いのが何枚も」
「三十一番。
刺した男、
直前にポケットの紙を確かめてから、
路地に入った——」
読み上げが進むほど、
ニノの中で、
何かが噛み合わなくなっていった。
紙は、不変項のはずだった。
だが出方が揺れている。
刺す側が握っている線。
刺される側が握っている線。
両方が持っている線。
これでは骨にならない。
揺れるなら、捨てるしかない——
「待ってください」
ニノは、付箋の壁の前に立った。
校閲の目が、活字の海から
一画の違いを拾い上げるときの、
あの感覚が来ていた。
「揺れてるのは『誰が持ってるか』です。
でも——紙そのものの描写は、揺れてますか?」
イヴが帳面を繰り直す。
沈黙が、少しずつ温度を変えていった。
「……刺した側の紙は、
十九番『四つ折り、角がまだ立ってる』。
三十一番『ポケットから出して確かめた。
インクの匂いがした』。
あんたの夢、
『汗で湿って、インクが指に移った』——」
「刺された側の紙は?」
「荷運びの『握り潰されて、毛羽立ってた』。
二十六番『古いのが何枚も、すり切れて』……」
二人は、同時に顔を上げた。
「新しい紙と、古い紙」
ニノは、震えそうになる手で、
壁に新しい紙を貼り、書き付けた。
『不変項・改——
どの線でも、先に手を出す側は、
刷られたばかりの切り抜きを握っている。
インクの匂いの残る、その朝の潮見表を』
「……引き金は、紙なのよ」
イヴの声は、囁きに近かった。
「二人とも、四ヶ月、
切り抜きを集めて潮を測ってる。
古い切り抜きは、ただの観測記録。
でも、どこかの朝——
潮見表に何かが載る。
それを読んだ瞬間、
どちらかが『今夜だ』と確信する。
確信した方が、
刷りたての紙を握り締めて、路地へ行く」
「凶器は刃物じゃない。その朝の新聞だ」
言ってしまってから、
ニノは、自分の言葉の重さに気づいた。
その朝の、新聞。
灯標新聞。角枠の版表記。金曜から。
「……イヴさん。
観潮院は、近いうちに公報を更新します」
「どうして言い切れるの」
「証言の件数です。
檻の中に六十件。
俺たちの広告で、さらに増えた。
俺たちが増やしたんです。
件数が膨れれば、
観潮院は黙殺を続けられない。
何かを刷る。
安心させる文でも、警告でも——
何を刷っても、あの二人は『信号』として読む」
部屋が、静かになった。
調べることが、潮を寄せる。
それは知っていた。
覚悟もしていた。
だが、これは一段、性質が悪かった。
自分たちの調査が証言の山を築き、
その山が公報を絞り出し、
その公報が引き金になる。
「私たちが」イヴが、ゆっくりと言った。
「引き金を、製造してたのね」
「……いいえ。違います」
ニノは首を振った。
振りながら、自分に言い聞かせてもいた。
「誰も死ななかった九つの線を、
思い出してください。
あの線でも、二人は路地に来てた。
つまり引き金は引かれてた。
——それでも死ななかった。
差を作ったのは、引き金の有無じゃない。
割って入った男の、読み上げです。
引き金は止められない。
なら、引き金が引かれる場所に、
先に立つしかない」
木曜の朝、
社に着いたニノを、
組版場のドジェが手招きした。
「坊主。
妙な版下が降りてきとる。
観潮院の公報の差し替えだ。
——明日の朝刊用」
差し出されたゲラを、ニノは受け取った。
校閲の回付印が、もう自分の欄まで来ている。
読む前から、指先が冷えた。
『観潮院公報——
先月来の「霧の路地」の夢に関し、
合議は再審理の結果、左の通り公示する。
当該案件、収束。潮は遠のきつつあり。
市民は平静に。
なお今後、同件の証言は受理を停止する』
収束。潮は遠のく。受理停止。
完璧な、安心の文面だった。
そして、ニノには読めてしまった。
この紙が明日の朝、
二つの引き出しと一つの壁の前で、
どう読まれるかが。
セルゲは読む。
観潮院は目を瞑った。
もう誰も止めない。
動くなら、潮見の網が閉じる前の、今夜だ。
ウォルダは読む。
潮は遠のいた。終わったのだ。
——四ヶ月ぶりの安堵。
安堵した男は、何をする?
閂を外す。
鎧戸を開ける。
そして、怖くて開けられなかった引き出しの、
三通の手紙を——
三通目には、日付が書いてある。
「……どうした、坊主。
顔が白いぞ」
「ドジェさん。
この公報、差し止めることは」
「できるわけがなかろう。
観潮院の公示は、契約で素通しだ。
儂らにできるのは、誤植を直すことだけよ」
誤植を、直すこと。
ニノは、赤鉛筆を握ったまま、
ゲラの上で長いこと動けなかった。
直せる。
いや——歪められる。
「収束」を「継続」に。
「平静に」を「警戒を」に。
たった数文字。
組版場は混むし、
観潮院は明日の朝まで刷り上がりを見ない。
やれる。
この赤鉛筆一本で、
引き金の文面を書き換えられる。
赤鉛筆の先が、
紙に触れる寸前で、止まった。
——善意の編集は、
暴いても、向こうは胸を張る。
保管庫の檻の前で、自分が一番憎んだものの形が、
今、自分の手の中にあった。
読者を怖がらせないため。
二人を死なせないため。
理由なら、向こうの条項と同じだけ、
立派に並べられる。
ニノは、赤鉛筆を置いた。
ゲラの誤植を二箇所——
本物の誤植だけを——
直し、回付印を押して、
次の欄へ送った。
それから、洗面所で顔を洗い、
鏡の中の青い顔に向かって、小さく言った。
「……紙は、本当のまま通す。
止めるのは、路地でやる」
木曜の夜が、作戦会議になった。
「整理するわ」
イヴが帳面を開いた。
「公報は金曜の朝刊。
新版表記の使用開始も金曜。
セルゲの三通目の日付は不明だけど、
潜り手の検算なら、
自分の集計で潮が極まる日を選ぶ——
条件が全部、金曜の夜で重なる」
「確定では、ありません」
「ええ。確定じゃない。
でも、金曜を外して何も起きなかったら、
それはそれで一本の検算よ。
一番怖い日付から、先に潰す。
あんたの鉄則でしょ」
役割は、自然に決まった。
ニノは、日没前から印刷所裏の路地に入る。
持ち物は、証拠の綴り——
版表記の決裁の写し、
檻の証言の写し、
筆跡の照合表、
そして六十余件の線別仕分け。
誰も死ななかった線の男が
「読み上げていた」もの。
あれを、自分の声でやる。
イヴは、宿で潜る。
狙いは金曜の夜の、最も近い線。
テオに教わった限界深度まで降りて、
揉み合いの直前の二人へ、
虫の知らせを叩き込む。
振り返れ。紙を確かめろ。——
一秒の躊躇いを作れれば、
路地のニノの声が間に合う。
「記録係は、テオに頼んだわ。
今夜のうちに防波堤から越してくる。
砂時計と、頬を張る係」
「……戻る声は」
ニノは、訊かずにいられなかった。
テオの教えの、最後の一行。
深みから戻る岸は、
自分の脈と、呼んでくれる声だけだ。
イヴは帳面を閉じ、
ランプの灯を一段絞った。
横顔に、影が落ちた。
「決めてある」
「誰の——」
「決めてある、って言ったの」
それ以上は、言わせない声だった。
代わりに彼女は、
自分の左手首をニノの前に差し出した。
潜航の夜と、同じ仕草で。
「脈、覚えておいて。
明日は取ってもらえないから。
——あんたは路地で、
私はこの深さのどこかで、
別々に同じ夜と喧嘩する。
せめて、拍子だけ揃えておきましょ」
ニノは、指を当てた。
規則正しい拍動が、指の腹を叩いた。
初めての夜より、少しだけ速かった。
それが恐怖なのか、別の何かなのか、
訊くのはやめておいた。
校閲者は、
書かれていないことを、勝手に読まない。
窓の外で、金曜の霧が、
もう沖から育ち始めていた。
(第十章 了)


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