「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.9

第九章 浅瀬の老人


港の外れ、防波堤の付け根に、
その小屋はあった。

流木と古い船板を継ぎ接ぎした、傾いだ住まい。

戸口の前で、老人が七輪に貝を並べていた。

日に灼けた首筋に、白い無精髭。

手の甲は古い網のように皺だらけだが、
貝を返す指先だけは、奇妙に若かった。

「テオ・ガリ。

観潮院を作った側で、
観潮院を最初に出た人」

道々、イヴはそう説明していた。

「潜り手の腕は、
歴代でいちばん深かったと言われてる。

——深すぎた人でもあるけど」

老人は、近づく二人を見もせずに言った。

「マルセナの嬢ちゃんか。
札を取られたってな。

出世したじゃねえか」

「免停が出世?」

「あすこで上に行くより、
外に出される方が、
潜り手としちゃ上等よ」

テオは貝を一つ、
殻ごと二人の方へ放った。

座れ、という意味らしかった。

ニノとイヴは、
流木の腰掛けに並んで座った。

海は凪いで、
霧はまだ沖の方に低く溜まっている。

「で?
嬢ちゃんが手土産も持たずに来るってことは、
よっぽど深い話だな」

「ルールの二番目のこと、教えてほしいの。

届く方の話」

老人の、貝を返す手が、
一拍だけ止まった。


「……夢ってのはな、坊主」

テオは、ニノの方を見て話し始めた。

嬢ちゃんではなく、
素人の方へ説明する口調だった。

「覗き窓だと思われとる。

こっちから向こうを、
一方的に見る窓だとな。

観潮院の連中も、潮見表の客も、
みんなそう思って商売しとる。

——半分しか合っとらん」

「半分?」

「窓ガラスってのはな、
夜になりゃ、鏡にもなる。

こっちが向こうを見とるとき、
向こうにも、こっちの影が薄く映っとるんだ」

老人は、焼けた貝の汁を啜った。

「乗られとる側はな、感じるんだよ。

首筋のあたりが、すうっと冷える。

誰もおらん部屋で、ふっと振り返る。

理由もなく、今夜は出るのをやめとこうと思う。

——みんな、誰かに見られとる晩の話だ」

ニノの脳裏に、運河の対岸の影が浮かんだ。

それから、霧の路地の出口の、あの目が。

「それだけじゃねえ。

見とる側が、よっぽど強く何かを思うとな——
叫ぶとな——
それは、届く」

「届くって……
言葉が、ですか」

「言葉の形はしとらん。

届くのは、勘だ。

虫の知らせだ。

岸はそっちじゃねえ、右だ、
思わせることができる」

ニノの心臓が、一度、大きく打った。

隣でイヴが、
ちらりとこちらを見たのが分かった。

九つの年の話は、
彼女にしかしていない。

「……それは、誰にでも?
いつの相手にでも?」

「届く先に、いつも昨日もあさってもねえよ。

線の向こうも、こっちもな。

夢ん中で叫んだことはな、坊主、
届いとるんだ。

いつでも、どこへでも、薄ーくな」

テオは火箸で炭を直しながら、こともなげに続けた。

「ただし、薄い。紙より薄い。

だから普段は、勘の悪い奴には届かん。

届かせたきゃ、二つしかねえ。

相手の命がかかっとる瞬間を狙うか——
こっちが、声の届く深さまで、潜るかだ」

「深さまで、って」

イヴが、初めて口を挟んだ。

声が硬かった。

「テオ。

それ、限界深度の話でしょう。

叫びが届く深さって、
戻りの保証がない深さのことじゃないの」

「だから儂は、
嬢ちゃんが手ぶらで来た時点で、
嫌な予感がしとったんだ」

老人は火箸を置き、
初めて正面から二人を見た。

深く潜るほど、よく届く。

よく届く深さほど、岸が遠くなる

潜り手の最後の教えだ。

観潮院じゃ、もう教えとらんがな。

——教えた奴が、出ていっちまったから」


それから老人は、創設の頃の話をした。

最初の潮見表は、
届いた証言を、全部、刷ったのだという。

死の夢も、火事の夢も、
外れた夢も、当たった夢も。

読む側が自分で選り分けるのが当たり前だった。

「ある年、沖の時化の夢が重なってな。

漁協が騒いで、船を全部止めた。

時化は来なかった。

来なかった年の水揚げの損を、
誰が被る? それで偉い連中が言い出した。

刷る前に、選り分けてやろうとな」

「親切で」

「ああ、親切でだ。

読み手は素人だ、
怖がらせるな、迷わせるな、
答えだけ刷ってやれ。

——儂はそこで降りた。

理屈で負けたからじゃねえ。

理屈じゃ、向こうの方が立派だった」

テオは、凪いだ海を見た。

「ただな、
選り分けてもらうことに慣れた人間は、
選り分ける筋肉が落ちる。

十年もすりゃ、
潮見表に載っとらんことは、無いことになる。

二十年もすりゃ——
載っとらん夢に追い詰められた人間は、
相談する先が、どこにも無くなる」

時計店の、二重の閂。

波止場の下宿の、紙で埋まった壁。

二人とも、何も言わなかった。

言わなくても、老人には届いているようだった。

「……時に、坊主」

テオが、ふいに目を細めた。

焦点が、ニノを通り越して、
どこか遠くを見る目になった。

「おまえさん、前にも来たな?」

「いえ。初めてです」

「来とらんか。来とらんなあ。

……来とらんが、儂は覚えとるんだ。

おまえさんが、ずぶ濡れで、
ここに座っとったのを。

今より、少しだけ年を食った顔でな」

ニノの背中を、冷たいものが這った。

イヴが、そっと老人の肩に手を置いた。

「テオ。混ざってる。

それ、どこかの線の記憶よ」

「ん……ああ。すまんな。

深く潜りすぎた人間の、悪い癖だ」

老人は、自分のこめかみを、
節くれだった指で軽く叩いた。

「ここん中にな、
儂じゃない奴の覚えが、
何人ぶんか住んどる。

漁師の女房の暮らしを十年ぶん。

会ったこともねえ男の、足の古傷の痛みを。

——どれが儂で、どれが借り物か、
もう仕分けがきかん。

深さの代金ってのは、
こういう払い方をするのさ」

それは笑い話の口調で語られたが、
誰も笑わなかった。

海鳥が一羽、防波堤の上で鳴いた。

「だから嬢ちゃん。

最後にもう一遍だけ、爺の小言だ」

テオはイヴに向き直った。

「叫びに行く気なんだろう。

誰かの夜に、虫の知らせを届けに。

——なら、岸を太くしておけ。

深みから戻る道はな、
自分の脈と、呼んでくれる声だけだ。

記録係の声が、戻る岸だ。

安宿の女将でも、新聞屋の坊主でもいい。

潜る前に、決めとけ。

誰の声で、戻るのかを」

イヴは答えなかった。

ただ、隣に座るニノの方を、見もしなかった。

見ないことが、答えのようだった。


帰り際、戸口でテオがニノを呼び止めた。

「坊主。
九つの年に、溺れたな」

足が、止まった。

その話は、今日、一度もしていない。

「……どうして」

「おまえさんの座り方だ。

海に背を向けて座る奴は、
一度、海に呑まれた奴だけだ」

老人は、七輪の残り火を見つめたまま言った。

「あの晩の声の主を、探しとるんだろう。

やめとけ、とは言わん。

ただ一つだけ覚えとけ。

——命がけの叫びってのはな、
いっとう薄く、いっとう強く、
線を三つ四つ平気で跨いで届く。

そういう叫びを上げられるのは、たいてい」

残り火が、ふっと揺れた。

おまえさんに、いっとう近い人間だ

霧が、沖から岸へ、上がり始めていた。

(第九章 了)

いいなと思ったら応援しよう!

コメント

コメントするには、 ログイン または 会員登録 をお願いします。
「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.9|古井和雄
word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word

mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1