「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.8
第八章 編集された潮
観潮院は、
夜の方が大きく見える建物だった。
港湾会館の古い翼棟。
昼間は役所くさい灰色の箱が、
霧の夜には、波と灯火の紋章だけを浮かび上がらせて、
黒々とわだかまっている。
「裏の荷受け口は、夜は閂だけ。
鍵は要らない」
イヴは慣れた足取りで
建物の裏手に回り込んだ。
「保管庫は地下。
証言の原票は、
受理した月ごとに棚へ入る。
照合済みの束には合議の判が押されて、
奥の架に移される。
——ここまでは、首席だった頃の知識。
三年前と変わってなければね」
「変わってたら?」
「夜明けまでに探し当てられずに、
朝の小使いに見つかって、おしまい」
荷受け口の閂は、
イヴの言った通りの場所にあった。
忍び込んだ廊下は、紙の匂いがした。
膨大な紙が、ゆっくり古びていく匂い。
新聞社の資料室と同じ匂いだったので、
ニノは場違いに、少しだけ落ち着いた。
地下の保管庫は、書架の森だった。
天井までの架が、
暗がりの奥へ何列も続いている。
掲げた角灯の明かりが届くのは、
せいぜい三列先までだ。
「先月と先々月の受理棚。
霧の路地の証言は、
まとめてそこにあるはず」
あるはず、の棚は——空だった。
正確には、空ではない。
他の夢の証言は几帳面に並んでいる。
だが「霧の路地」の標題札が付いた区画だけ、
束ごと、ごっそりと抜けていた。
「……移された?
照合済みの架へ?」
「早すぎる。
合議が『遠い線』と断じた案件は、
塩漬けが通例よ。
わざわざ奥へ——」
イヴは言いかけて、口をつぐんだ。
それから、保管庫の最奥、
鉄格子で仕切られた一角を、顎で示した。
「審理保留架。
合議でも処理を決めかねた案件の檻。
首席でも、入るには審理官の立ち会いが要った場所」
鉄格子の扉には、錠が下りていた。
だが、潜り手の世界の狭さが、ここでも効いた。
イヴは髪の編み紐から細い芯金を抜き出し、
錠の前に膝をついた。
「……一等潜り手の七つ道具?」
「免停潜り手の、よ」
錠は、三度目の角度で開いた。
霧の路地の証言は、檻の中にあった。
一束ではなかった。三束。
受理印の日付は、四ヶ月前まで遡る。
ニノとイヴが三行広告で集めた十一件など、
ほんの上澄みだった。
観潮院には、六十件を超える証言が届いていたのだ。
二人は床に座り込み、
角灯を挟んで、束を解いた。
夜明けまでの時間との競争が始まった。
ニノが一枚ずつ繰り、
要点を読み上げ、
イヴが帳面に書き取る。
役割は、潜航の夜と逆になっていた。
証言は、見覚えのある揺れ方をしていた。
刺す側と刺される側の入れ替わり。
路地の位置。足。最後の言葉。
——不変項も、揺れていなかった。
霧。罅。火傷。
いつの間にかの刃物。握られた紙。
そして、三束目の半ばで、ニノの手が止まった。
その原票には、他と違う判が押されていた。
『浅夢につき不採用』
「イヴさん。これ——」
読み上げる声が、自分でも分かるほど掠れた。
『揉み合いの途中、
横合いより男一名割って入る。
両手を広げ、何事かを大声で読み上げる。
火傷の手の男、膝をつき、刃物を落とす。
死者なし』
「……水夫の証言と、同じ筋」
「まだあります」
不採用の判を押された原票は、一枚ではなかった。
五枚。六枚。七枚——
誰も死ななかった線の証言が、九件、
不採用の束に綴じ込まれていた。
割って入る男の描写は、
霧でどれも朧げだった。
だが二枚に、同じ細部があった。
『胸元に、丸い硝子が光って見えた』
イヴの書き取る鉛筆が、止まっていた。
二人とも、その先を口にしなかった。
一件は偶然。九件は——
もう、別の言葉が要る数だった。
「なぜ、これだけ不採用に……」
「判の理屈は分かるわ。
『誰も死なない夢』は起伏がないから、
浅い夢の作り話と区別がつきにくい。
だから疑わしきは弾く。
でもね」
イヴは不採用の束を、
角灯の明かりにかざした。
「弾いた九件を、塩漬け棚じゃなく、
檻に入れて鍵をかけた。
作り話だと思ってる紙に、誰が鍵をかける?」
そして、最後の数枚に、それはあった。
証言の原票ではなかった。
観潮院の内部用箋。
各証言の扱いを指示する、決裁の綴りだった。
『霧の路地案件——
市民の動揺を招く虞、大。
動揺防止条項を適用し、
合議公報は「遠い線の残響」とする。
死者なしの証言は浅夢として不採用。
当事者特定に繋がる証言は
審理保留架へ封鎖。
以上、首席審理官決裁』
決裁印の名は、ドミニ・ロウ。
その綴りの最後に、もう一枚、
見覚えのある書式の紙が綴じられていた。
潜り手の正規証言。二ヶ月前。
几帳面な細い字。
『——遠い線にあらず。寄っている。
至急、続報の収集と当地照合を具申する』
イヴ・マルセナの、あの証言だった。
余白に、決裁の朱筆が走っていた。
『具申は条項に抵触。
取り下げを命ず。
応じざる場合、免許停止』
イヴは、自分の証言の原票を、
長いこと見下ろしていた。
怒鳴るかと、ニノは思った。
紙を破るかと。
彼女はどちらもしなかった。
ただ、原票の端を指先で揃え、
綴りに戻し、ひどく静かな声で言った。
「……嘘の合議じゃ、なかったのね。
親切の合議だったんだ。
市民を怖がらせないように。
パニックで潮が余計に寄らないように。
誰かが嘘の得をしたんじゃなく、
みんなのためを思って、本当が削られた」
「それは——」
「一番厄介なやつよ、校閲屋さん。
悪意の嘘は、暴けば終わる。
善意の編集は、暴いても、向こうは胸を張る」
その時だった。
保管庫の入り口で、灯りが揺れた。
「——そこまでに、なさい」
書架の森の向こうから、
足音が一つ、近づいてきた。
落ち着いた、急ぐ必要を知らない者の足音。
角灯の輪の中に入ってきたのは、
灰色の制服外套を着た、
姿勢のいい女だった。
年の頃は五十手前。
霜の混じった髪を、
一筋の乱れもなく結い上げている。
「マルセナ。三年ぶりかしら。
錠の開け方は、相変わらず見事ね」
「……ロウ審理官」
ドミニ・ロウは、
床に広げられた束と、二人の顔を、
順に検分した。
驚いてはいなかった。
報告を受けて、降りてきたのだ。
「弁明は要らないわ。
不法侵入と、封鎖案件の閲覧。
本来なら、今夜のうちに
憲兵へ引き渡すところ」
「本来なら?」
ニノが訊き返すと、
審理官の視線がこちらへ移った。
観察される、というのがどういうことか、
骨で分かる視線だった。
「灯標新聞の校閲、カスク。
三行広告の趣向は、あなたね。
——あなたたちが何を集めて、何を考えているか、
報告は全部上がっている。
その上で言うわ。手を引きなさい」
「市民の動揺を防ぐため、ですか」
「そうよ」
ドミニは、即答した。
恥じる色は、欠片もなかった。
「二十年前、
私は単独証言を信じて動いたことがある。
沖の岩場に子供が落ちる夢。
証言は鮮明で、誠実だった。
私は港の半分を叩き起こして、
夜の岩場へ救助を出した。
——その晩、岩場で死んだのは、
夢の子供じゃない。
救助に出て波に攫われた、漁師が二人よ。
夢の子供は、三つ隣の線の話だった」
角灯の炎が、彼女の頬で揺れた。
「確かめもしない夢一つが、
確かな命を二つ奪った。
あの夜から、私の仕事は決まったの。
潮見表は、街を騒がせないための堤防よ。
本当かどうかより先に、
まず、溢れさせないこと」
「その堤防の内側で」
ニノは、自分の声が震えないように、腹に力を入れた。
「今、二人の男が、互いの夢に追い詰められています。
一人は店に籠って数を数え、
一人は先回りの正当防衛を考えてる。
あなたの堤防は彼らに
『遠い線だ、安心しろ』と言った。
安心できなかった二人だけが、
堤防の外で、溺れかけてるんです」
「憶測ね」
「憶測じゃありません。
物差しがあります」
ニノは懐から、決裁綴りの写し——
版表記改定の件を出し、
床の証言の山の上に置いた。
夢の中の新聞。
角枠の数字。
使用開始の前倒し。
金曜という下限。
淡々と、校閲の読み合わせの速さで、
全部を並べた。
ドミニ・ロウは、最後まで遮らなかった。
聞き終えて、長い沈黙があった。
書架の森のどこかで、
紙の古びる音がした、ような気がした。
「……版表記の決裁綴りは、製作部の保管ね。
閲覧簿に、あなたの名前と日付は残っている?」
「残っています。
資料室の閲覧簿、今月の頁です」
「そう」
それだけ言って、
審理官は床の束を手早く揃え、
檻の棚へ戻し始めた。
逮捕の手続きでも、
放免の言葉でもなかった。
ただの、几帳面な片付けだった。
「夜明けまでに、出ていきなさい。
今夜のことは、報告書に書かない。
——その代わり、忘れないことね。
次に堤防を越えたら、
私は条項どおりに動くわ」
二人が保管庫の出口まで来たとき、
背中に、声が追ってきた。
「カスク」
振り返ると、ドミニ・ロウは
檻の前に立ったまま、
こちらを見ずに言った。
「閲覧簿は、私の目で確かめます」
外に出ると、東の空が、
霧の底からわずかに白み始めていた。
「……勝ったの? 負けたの? 今の」
「どちらでもありません。
——校正が、一回通っただけです」
ニノは、夜気を深く吸った。
紙の匂いが、肺から抜けていく。
「でも、あの人は確かめると言った。自分の目で。
そう言った人間は、もう堤防の側だけには立てません」
金曜まで、あと二日だった。
(第八章 了)


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