「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.7

第七章 逆の結末


「筆跡が、違います」

翌朝の「錨と山査子」で、
ニノは小卓の上に
二枚の紙を並べた。

一枚は、運河の行き止まりで拾った潮見表の切り抜き。

余白を正の字で埋め、
「今夜ではない」と繰り返しなぞった、あの紙。

もう一枚は、時計店の預かり札の控え。

品名と日付を書いた、ウォルダ・キリクの手だ。

「時計師の字は、
垂直で、画の終わりを必ず止める。

職人の字です。

歯車に番号を振る手の癖だ。

切り抜きの字は——傾いでる。

それに、画の終わりが流れて跳ねてる。

速記の癖です。

人の話を、聞きながら書く仕事の字

イヴが、二枚の上に屈み込んだ。

長い髪が紙面に触れそうになる。

「……聞きながら書く仕事」

「心当たりが?」

「あるわよ。
嫌になるほど」

彼女は自分の帳面を開き、
自分の字をニノに見せた。

傾いで、跳ねる字だった。

「潜り手の記録係の字よ。

潜航の口述を、
砂時計と脈を見ながら書き取る。

だからこういう字になるの。

——切り抜きの男は、同業だわ」


潜り手の世界は、狭い。

免許持ちは市内に四十人足らず。

引退者と免停者を足しても、
百人に届かない。

イヴは二日かけて、
その狭い世界の縁を歩き回った。

波止場の潜り溜まり、
観潮院裏の安酒場、
引退者の集まる将棋クラブ。

三日目の夜、
彼女は宿に戻ってくるなり、
外套も脱がずに言った。

「セルゲ・ナダル。三十一。
三年前に札を返上した、
元・一等潜り手」

「その男が?」

「ここ二ヶ月、同業者の間で噂になってた。

霧の路地の夢の証言を、
個人で買い集めてる男がいるって。

一件につき銀貨一枚。

私たちの蜂蜜糖より、ずっと羽振りがいいわ」

イヴは外套のポケットから、
酒場で写し取ってきたらしい紙片を出した。

古い免許名簿の控えだった。

「それでね、校閲屋さん。

名簿を見て、膝が抜けそうになった」

紙片には、二つの名前が並んでいた。

『一等 セルゲ・ナダル』

その隣の行。

『一等 ウォルダ・キリク』

「……時計師が」

「元・一等潜り手よ。

それも、ただの同期じゃない。

だった。

潜り手はね、
深く潜るときは必ず二人一組なの。

一人が潜り、一人が脈を取って記録する。

交代で、互いの命を預け合う。

——キリクとナダルの組は、
私が見習いの頃、
首席争いをしてた名コンビだった。

三年前に、何の説明もなく、
二人同時に札を返して消えた」

ニノは、時計店のカウンターを思い出した。

八十三個の不揃いな振り子。

夢は深い方ですか、と訊いた声。

深いのは、ろくなもんじゃない——

あれは、素人への忠告ではなかった。

最深部まで潜った男の、
引き上げてきた言葉だった。

「組だった二人が、
同じ夢の中で殺し合ってる」

イヴは市街図の前に立ち、
付箋の吹き溜まりを見つめた。

「そして片方は店に籠って切り抜きを集め、
もう片方は銀貨を撒いて証言を買い集めてる。

……ねえ、これ、何に見える?」

「……互いの、潮見をしてる」

「そう。
二人とも、必死で観測してるのよ。
あの夜が、いつ来るのかを


セルゲ・ナダルの住まいは、波止場の北の外れ、
半分空き家になった下宿屋の二階だった。

階段を上がる前から、
ニノは嫌な確信があった。

ノックの返事は、落ち着いていた。

「開いてる」

部屋に入って、二人は立ち尽くした。

壁が、紙で埋まっていた。

潮見表の切り抜き。

証言の聞き書き。

そして中央に、画鋲で留めた市街図——
付箋の吹き溜まりの位置まで、
イヴの宿の壁と、ほとんど同じだった。

鏡を見ているようだ、とニノは思った。

出来の悪い、二ヶ月先を行く鏡を。

窓際の椅子に、男が座っていた。

中肉中背。

外套を着たまま。

頬がこけ、目の下に
潜りすぎた人間特有の青黒い隈があったが、
目そのものは、嫌になるほど澄んでいた。

「一等のマルセナだろう。

免停の件は聞いた。

気の毒だったな」

セルゲは、イヴに向かって会釈し、
それからニノを見た。

「そっちは新聞社の。

——三行広告、読んだよ。

蜂蜜糖ってのは、いい趣向だ」

「……運河で俺を見ていたのは、あなたですね」

「ああ。誰が証言を集めてるのか、確かめたかった。

あんたが橋を渡ってくるとは思わなかったがな。

あの切り抜きは、くれてやる。

集計なら頭に入ってる」

世間話の口調だった。

それが、かえって恐ろしかった。

イヴが、一歩前に出た。

「単刀直入に訊くわ。

あなた、あの夢の当事者ね。

あなたとキリク」

セルゲは否定しなかった。

窓の外の霧を眺め、長い息を一つ吐いた。

「……四ヶ月前から、見てる。

週に一度。

今は三日に一度だ」

「どっち側を」

刺される側だ

部屋の空気が、固くなった。

「霧の路地で、ウォルダの手が——
あの火傷の手が、俺を刺す。

胸が熱くなって、息が吸えなくなって、
敷石の罅の上に倒れる。

自分の死に方をな、
一等、四ヶ月で五十回も見せられてみろ。

慣れると思うか?」

「だから証言を買い集めてるの?
自分の死の、日付を割り出すために?」

「日付と、場所と、引き金をだ」

セルゲは立ち上がり、
壁の市街図の前に立った。

傾いで跳ねる字の書き込みが、
図の余白を埋めている。

「俺は潜り手だった。

夢は嘘をつかないことを、商売で知ってる。

どこかの線で、あいつは俺を殺す。

線と線は、寄る。

なら、俺のこの線に、
あの夜が寄ってくる前に——」

「先に、殺すと?」

ニノの声は、自分でも驚くほど硬かった。

セルゲは振り返り、初めて、笑った。

笑い方だけが、ひどく疲れていた。

「人聞きの悪い。

俺は誰も殺したくない。

先回りした正当防衛を考えてるだけだ。

……なあ、新聞屋。

あんたならどうする。

三日に一度、自分が刺されて死ぬところを見せられて、
相手はこの街にいて、店に籠って、何かを数えてる。

手紙を三通書いた。

会って、互いの夢を突き合わせて、
確かめようと書いた。

三通目には、日付まで書いた

——返事は、一通もない」

ニノの脳裏に、
時計店の引き出しが浮かんだ。

見てもいないのに、見えた気がした。

封を切られていない、三通の手紙。

「あいつの沈黙が、答えだ。

確かめる気のない人間ってのはな、
もう腹の中で結論が出てる人間なんだよ」

「違う」

ニノは言った。

考えるより先に、出ていた。

「確かめないのは、結論が出てるからじゃない。

怖いからです

読めば何かが進む。

読まなければ、まだ何も始まっていない。

——そうやって、人は一番大事な紙を、
一番深い引き出しにしまうんだ」

セルゲの澄んだ目が、わずかに揺れた。

揺れて、すぐに閉じた。

「……詩人だな、新聞屋。

だが俺の命は、詩じゃ守れない」

彼は窓の外へ目を戻した。

霧が、波止場の灯りを
一つずつ呑み始めていた。

「帰ってくれ。

あんたたちの調べに、
これ以上俺の線を寄せたくない。

——ああ、それと一等。

一つだけ、忠告だ」

戸口で、セルゲの声が追ってきた。

「あんたたちの夢と、俺の夢と、あいつの夢。
全部が同じ夜だと、誰が決めた?


帰り道、二人はしばらく無言だった。

跳ね橋の上で、イヴが立ち止まった。

欄干に手を置き、暗い運河を見下ろす。

「……三通目の日付。

聞き出せなかったわね」

「ええ。でも、絞れます」

ニノは懐から帳面を出した。

「セルゲは『会って確かめよう』と書いた。

潜り手だった男が、
夢の照合のために日付を選ぶなら、
根拠なく選ばない。

彼の集計で潮が最も高くなる日——
つまり、彼自身が割り出した『あの夜』の候補日を、
ぶつけてくるはずです」

「自分の死の予定日に、
わざわざ会いに行くの?」

「確かめる人間なら、そうします。

予定日に何も起きなければ、
夢は別の線の話だと証明できる。

一番怖い日付こそ、
一番太い検算になる」

イヴは欄干から身を起こし、
ニノの顔をまじまじと見た。

「……あんた、たまに怖いこと言うわね。

一番怖い日付こそ一番太い検算、なんて」

「校閲の鉄則です。

一番疑わしい行から、先に潰す」

霧が、橋の上まで満ちてきた。

二人の足元で、
橋板が湿った音を立てた。

金曜まで、あと三日だった。

(第七章 了)

いいなと思ったら応援しよう!

コメント

コメントするには、 ログイン または 会員登録 をお願いします。
「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.7|古井和雄
word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word

mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1