「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.5

第五章 寄る潮


最初の一致は、音だった。

組版場の昼下がり。

若い植字工が、
組み付け用の小刀を取り落とした。

刃が石の床に当たって、
こん、と鳴った。

ニノは、校正刷りの上で手を止めた。

その音を、知っていた。

霧の路地で、力の抜けた右手から滑り落ちた、
細く冷たいものが敷石を打った音。

高さも、硬さも、余韻の短さも、寸分違わなかった。

「すまんすまん、手が滑った」

若い植字工は刃を拾い、
何事もなく作業に戻った。

誰も気に留めない。

当たり前だ。

刃物が床に落ちただけだ。

世界中で一日に千回は鳴っている音だ。

それなのに、ニノの耳の奥では、
その「こん」が、いつまでも消えなかった。


二つ目の一致は、言葉だった。

三日後の編集室。

締切間際の口論は、
新聞社では挨拶のようなものだ。

整理部の男と、社会面の記者が、
紙面の割り付けを巡って声を荒らげていた。

「だから、版下を先に回せと言ったろう」

「順番を飛ばしたのはそっちだ」

先に決めたのは、おまえだろう

ニノは、赤鉛筆を落としそうになった。

抑揚まで、同じだった。

霧の路地で、この喉が——
あの火傷の手の男の喉が、
震わせた台詞。一語一句。

口論はすぐに収まり、
二人は何事もなかったように仕事に戻った。

ニノだけが、ゲラの同じ行を、
五分間読めずにいた。

その晩、「錨と山査子」で
ニノの報告を聞いたイヴは、
市街図の前で長いこと黙っていた。

「……拍子が、速くなってる」

「拍子?」

「一致と一致の間隔よ。

敷石の罅から、刃物の音まで十日。
音から台詞まで、三日。

——潮はね、寄り始めると加速するの。

岸が近いほど、波の間隔は詰まる」

彼女は付箋を一枚、
市街図の印刷所裏に貼り足した。

付箋はもう、その一角で
折り重なり始めていた。

「校閲屋さん。

一度だけ、ちゃんと訊いておくわ」

イヴは振り返らずに言った。

「降りるなら、今よ。

これ以上調べると、
あんたの線は
あの夜に向かって寄っていく。

一致はもっと増える。

もっと近くで起きる。

最後には——
あんた自身が、
あの霧の路地の登場人物になる。

手を引いて、夢のことを忘れて、
銅貨を立てて浅く眠っていれば、
潮はそのうち、あんたを置いて
引いていくかもしれない」

「あなたは、降りるんですか」

「私は職業よ。
潜って確かめるのが仕事。
あんたは違う。
もらい事故の素人」

ニノは、帳面の表——
揺れないものの一覧を見下ろした。

霧。罅。火傷。

いつの間にか現れる刃物。

握り潰された紙。

それから、まだ一件だけの、
誰も死ななかった線。

「……九つの年に、
溺れたことがあるんです」

気がつくと、そう話し始めていた。

嵐の晩。真っ暗な水。

上下の消えた世界。

右だ、と教えた声。

「あの声がなかったら、
俺は死んでいた。

声の主が誰なのか、
ずっと分からないままです。

でも一つだけ分かっていることがある。

——あの声は、俺を見ていた

真っ暗な水の中の、
誰にも見えないはずの俺を、
ちゃんと見て、岸の向きを教えた」

「……それが、降りない理由?」

「見えている人間が降りたら、
誰が読み上げるんですか」

水夫の証言の、あの一行のことを、
二人とも口にしなかった。

何かを読み上げて割って入った男。

胸元の丸い硝子。

一件は偶然。

そう決めたはずの一行が、
部屋の空気の中に、ずっと立っていた。

イヴは小さく息を吐き、
初めて、皮肉でない笑い方をした。

「分かった。
なら、降ろさない。

——その代わり、
今夜から規則を増やすわ。

一人で霧の中を歩かない。

印刷所裏の路地に近づかない。

それと、毎朝、私に生存報告。
三行広告でいいわ」

「広告代がかかります」

「社員割引があるでしょ」


三つ目の一致は、紙だった。

週明けの朝、
社の中庭を横切ろうとしたニノの足元へ、
風が一枚の刷り物を運んできた。

反射的に拾う。

輪転機の調整用の、試し刷りだった。

インクの乗りを見るためだけの、
文字のない棒組みの紙面。

その欄外に——

角枠で囲んだ数字が、刷られていた。

ニノは中庭を突っ切り、
地下の印刷部へ駆け降りた。

輪転機の轟音の中、
油まみれの機長を捕まえる。

「この版表記!
使用開始は来月第二週のはずです!」

「ああ、それな。
前倒しになった」

機長は耳栓を外しもせず、怒鳴り返してきた。

「活字の鋳造が早く上がったんだとよ。
製作部のお達しだ。

新表記の使用開始は——
今週の金曜からだ」

轟音が、ニノの足元から胃の腑まで揺らした。

来月第二週、という下限が、消えた。

あの夜は、金曜以降ならいつでも刷れる。

数週間あったはずの猶予が、
一晩で、数日まで縮んだのだ。

——潮は、寄り始めると加速する。

世界の側が、締切を、繰り上げてきた。


その日の帰り、
ニノは運河沿いの道を歩いた。

霧は、まだ薄かった。

夕日が水面に油膜のような帯を引き、
対岸の倉庫の壁を赤く染めている。

規則は守っていた。

一人だが、霧の中ではない。

路地でもない。

人通りのある、開けた岸辺だ。

ふと、視線を感じた。

肌で感じる、という言い方を、
ニノはこれまで信じていなかった。

視線に重さなどない。

それは分かっている。

分かっているのに、
首筋の産毛が、確かに立った。

顔を上げる。

運河の対岸。

倉庫と倉庫の間の、細い隙間。

人影が、立っていた。

距離は五十歩。

逆光で、顔は見えない。

中肉中背。外套。

ただ立って、こちらを見ている。

通行人が視線の間を何人も横切っていくのに、
影は微動だにしない。

ニノの心臓が、警鐘の速さになった。

夢の中の、霧の出口の影。

あれと同じ立ち方だと、
理屈より先に体が言った。

確かめろ、と頭の別の場所が言った。

ニノは駆け出した。

三十歩先の跳ね橋へ。

橋板を鳴らして対岸へ渡り、
倉庫の隙間へ回り込む——

誰も、いなかった。

濡れた敷石と、
壁の煉瓦と、
薄い霧だけがあった。

隙間は奥で行き止まりになっていて、
人ひとり隠れる物陰もない。

出入りする時間は、なかったはずだ。

ニノは肩で息をしながら、
行き止まりの壁の前に立った。

足元に、何かが落ちていた。

拾い上げる。

新聞の切り抜きだった。

四つに折られ、
何度も握られたらしく、
折り目が柔らかく崩れている。

開くと、見慣れた活字が並んでいた。

灯標新聞、最終面。本日の潮見表。

『先月末より、
霧の路地にて人の争う夢、
市内で複数報告さる。

——遠い線の残響と断ず。

市民は動揺なきよう』

二週間前の、あの公報だった。

切り抜きの余白に、
鉛筆の細かい字で、
何かがびっしりと書き込まれている。

日付。正の字の集計。

そして一行だけ、
強い筆圧で、
紙が破れかけるほど繰り返しなぞられた言葉があった。

『今夜ではない。
今夜ではない。
今夜ではない』

霧が、運河の水面から、
音もなく上がり始めていた。

ニノは切り抜きを畳み、
震える指で懐にしまった。

揺れないものの表の、あの一行が、
手のひらの中で初めて質量を持った。

——握り潰された、紙。

(第五章 了)

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