「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.2

第二章 潮見表


灯標新聞の朝刊は、
十二の面でできている。

一面が政治と港湾、
二面が市況、
三面が市内の出来事。

中ほどに文芸と連載小説。

そして最終面の右下、訃報欄の隣に、
その欄はある。

本日の潮見表。

ニノは毎朝、職業柄、
全部の面に目を通す。

潮見表の欄だけは、
校閲としては楽な仕事だった。

固有名詞が少なく、数字もない。

載っているのは、たとえばこんな文章だ。

『東坂方面、荷崩れの夢、三件。
いずれも浅く、潮遠し。
当面の心配なし』

『先週より続く「白い犬」の夢、計十一件。
観潮院の合議では、遠い線の残響と見る』

『火曜、入り江の婚礼の夢、二件一致。
寄り潮の兆しあり。
心当たりの家は仏花を白に』

夢を見た市民が、
街角の収集函に証言を入れる。

観潮院がそれを集めて照合し、
似た夢が重なれば「潮が寄っている」

——つまり、この街のこの線に、
その出来事が近づいている兆しと見る。

遠い線の話なら「潮遠し」。

それだけの、天気予報と
人生相談の中間のような欄だった。

ニノ自身は、半信半疑ですらなかった。

信も疑もなく、ただの紙面の一部として扱ってきた。

深い夢を見ない人間にとって、
潮見表は他人の家の家計簿のようなものだ。

その朝までは。

「カスク、顔色が活字より黒いぞ」

組版場の親方、ドジェ——
皆が「鉛のドジェ」と呼ぶ老植字工が、
ニノの顔を見るなり言った。

組版場は朝から鋳造機の熱気で蒸し、
溶けた鉛の、
あの甘いような重い匂いがしている。

「……寝てないだけです」

「ほう。
浅瀬のカスクが、夜更かしか」

ドジェは植字台から顔も上げずに、
活字を拾い続けている。

ニノが深く眠らない男だということは、
夜勤明けの仮眠室で銅貨を立てるところを、
社内の何人かに見られて知られていた。

「それとも——深いのを、見たか」

手が、止まりそうになった。

「……どうして、そう思うんです」

「顔だよ。
初めて深いのを見た翌朝の顔ってのは、みんな同じだ。
自分の手を、何度も見る」

ニノは、無意識に自分の右手を見ていたことに、言われて気づいた。

ドジェは活字を一本、光にかざして検めながら、世間話の調子で続けた。

「儂も若い頃は、ずいぶん深くまで落ちた。
隣の線の儂は左利きでな、
夢から戻った朝は、しばらく箸が左に行く。

……いいか、坊主。
深いのを見ても、慌てるな。

あれはな、海の向こうの火事を見てるようなもんだ。
熱くない。届かない。——たいていはな」

「たいていは?」

「潮が寄れば、別だ」

ドジェは活字を組み込み、初めてニノの方を向いた。

鉛の粉で灰色になった眉の下の目は、笑っていなかった。

「見た夢の欠片が、
こっちの暮らしに混ざり始めたら、
それは寄ってきとる。

そうなったら収集函に証言を入れろ。

観潮院が照合してくれる。

…まあ、近頃のあそこの合議は、
儂はあんまり買っとらんがね」

敷石の罅のことを、ニノは言わなかった。

言えば、本当になりそうな気がした。


その日の校閲で、ニノは潮見表の欄の前で手を止めた。

明日の朝刊用のゲラ。

いつもなら三十秒で通す欄に、こうあった。

『先月末より、霧の路地にて
人の争う夢、市内で複数報告さる。

観潮院の合議は以下の通り。

「各証言は細部の食い違い大きく、
当地の潮にあらず。
遠い線の残響と断ず。
市民は動揺なきよう」』

紙面の上で、
その十数行だけが、濡れて見えた。

複数報告。

自分だけでは、なかったのだ。

ニノはゲラを置き、しばらく目を閉じた。

閉じた瞼の裏に、
霧の路地と、
左から三枚目の敷石が浮かぶ。

観潮院は「遠い線」だと言っている。

海の向こうの火事だと。

熱くない、届かないと。

——では、あの罅は何だ。

ニノは目を開け、引き出しの奥から、
昨夜から書き始めた帳面を出した。

校閲者の習い性で、
夢の細部を異同表の形式で書き出してあった。

敷石の罅。煉瓦の目地。手の火傷の痕。

ポケットの中の切り抜きの感触。

そして——

風で転がっていった、新聞紙。

欄外の、版表記。

夢の中の視界は、自分の意思では動かせなかった。

それでも校閲の目は、転がる紙面の隅を、勝手に読んでいた。

読めたのは一瞬。

日付は霞んだ。

だが版表記の形だけは、
瞼の裏に焼きついている。

数字を、角枠で囲んだ印。

ニノの心臓が、嫌な速さで打ち始めた。

灯標新聞の版表記は、
創刊以来ずっと、星印の数で版次を示してきた。

☆が初版、☆☆が二版。

角枠の数字など、使っていない。一度も。

——使っていない。まだ。

ニノは席を立ち、資料室へ早足で向かった。


資料室の奥、製作部の決裁綴り。

閲覧簿に名前を書き、
ニノは今年度の綴りを繰った。

あった。

『版表記改定の件——
星印は摩耗による誤読が多く、角枠数字に改める。

新表記の使用開始は、
活字鋳造の完了を待ち、来月第二週の月曜より』

決裁印は、三週間前。

社内通達はまだで、
知っているのは製作部の数人だけのはずだった。

校閲部にすら、正式な引き継ぎは来ていない。

ニノは決裁綴りを閉じ、
資料室の冷たい静けさの中に、立ち尽くした。

夢の中の新聞は、角枠数字の版表記を使っていた。

つまり、あの紙面が刷られるのは——
来月第二週の月曜より、後だ。

そして角枠の版表記を使う新聞は、世界中でただ一つ。

組版場のドジェたちが、
この建物の地下で刷る、灯標新聞だけだ。

遠い線の残響などでは、ない。

あれは、この街だ。

この街の、数週間先だ。

霧の路地で人が死に、
その傍らをうちの新聞が転がっていく夜が、もうすぐ来る。

観潮院の合議は、間違っている。

ニノは資料室の窓から、外を見た。

昼の港。マストの林。荷揚げの声。生きている街。

この街のどこかに、あの太い節の手の持ち主がいて、
あの低い声の男がいて——そして、霧の出口からこちらを覗き込んだ、
あの目の主が、いる。

確かめなければ、と思った。

思った直後に、ドジェの言葉が胸の底で蠢いた。

見た夢の欠片が、こっちの暮らしに混ざり始めたら、
それは寄ってきとる——
確かめるという行為が、
何かをこちらへ手繰り寄せる縄になるのだとしたら。

それでも、とニノは帳面を握り直した。

確かめずに信じるのも、確かめずに笑い飛ばすのも、
同じだけ目をつぶっている。

九つの年の真っ暗な水の中で、
自分は確かに「右だ」という声に賭けた。

賭けて、生きた。

今度は、自分が読む番だった。


退社時、ニノは初めて、
街角の収集函の前で足を止めた。

観潮院の紋——
波と灯火——が彫られた、
郵便箱に似た鉄の函。

市民が夢の証言を投じる函だ。

備え付けの証言用紙には、
几帳面な印刷でこうある。

『見た物事を、
解釈を交えず、ありのままに』

ニノは用紙を一枚取り、
半分まで書いて、やめた。

書きかけの紙面を見下ろす。

霧の路地。争い。倒れた男。

——そして最後の、こちらを覗き込む目。

あの目のことを書いて、この函に入れて、
それが照合の机の上に並んだとき。

証言の束の中から、誰かが、これを読むのだ。

『見ていたな』

ニノは用紙を四つに畳み、
函ではなく自分の懐に入れた。

提出には、まだ早い。

観潮院の合議そのものが間違っている以上、
まず合議の外で確かめる手段が要る。

免許を持って深くまで潜り、
向こうの線を自分の目で見てくる、職業の人間——

潜り手、という言葉を、
ニノは生まれて初めて、
自分の用事として思い浮かべた。

霧が、また海から上がってきていた。

帰り道、ニノは
印刷所脇のあの路地を、今日は使わなかった。

大回りの坂道を上りながら、
一度だけ、路地の入り口を遠目に見た。

夕霧の奥で、敷石が濡れて光っていた。

左から三枚目だけが、心なしか、暗かった。

(第二章 了)

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コメント

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小ぶりなプログラムを試しに作っているんですが、 ここではその説明書きをしていこうと思います。 こういう機能をつけてみてほしいだとか要望、 コメント欄か、Xのリプライ欄に書いてみて下さい。 ひまをみて対応します。 (未管理著作物裁定制度に定められた問い合わせも受付中。)
「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.2|古井和雄
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