「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」(第二稿)Part.1
第一章 深い夢
活字を拾う仕事には、向き不向きがある。
ニノ・カスクは、向いている側の人間だった。
少なくとも、灯標新聞社の校閲部ではそういうことになっている。
「カスク、三面の組み見本、もう一度頼む」
「終わってます。十一箇所」
「……十一?」
主任のヴォルクが、ゲラを引ったくるようにして覗き込んだ。
夕刊前の校閲室は、紙とインクと、煮詰まった珈琲の匂いがする。
ガス灯の炎が、原稿の山の影を壁に揺らしていた。
「七つは脱字と転倒。三つは約物。最後の一つは——ここです。
『波止場通り三十二番地』。
三十二番地は去年の区画整理で欠番になってます。
番地台帳の第四巻、二百十ページ」
「台帳の頁まで覚えてるのか、おまえは」
「覚えてるんじゃなくて、引いただけです。違和感があったので」
「その違和感とやらは、どこで売ってる」
ヴォルクは呆れ半分、感心半分の顔でゲラを直しに戻っていった。
ニノは、自分の取り柄がこの「違和感」だけだということを知っている。
人と話すのは得意ではない。
気の利いたことも言えない。
ただ、紙の上の文字列に紛れ込んだ小さな嘘——
一画多い活字、入れ替わった日付、存在しない番地——が、
視界の中で、そこだけ濡れているように見える。
それだけの男だった。
祖父の形見の拡大鏡を首から提げ、
インクで汚れた指で活字を追う。
夕刊の校了が終わる頃には、
窓の外の運河に霧が下り始めていた。
この街——港都ハルメアの霧は、海から来る。
入り江を三方から抱く坂の街に、
夕方になると乳色の層が満ちて、
ガス灯の明かりを一つずつ、
毛玉のような光に変えていく。
路面電車が霧の中で鐘を鳴らし、
ない船が汽笛で答える。
生まれてからずっと聞いてきた、
いつもの夜の音だ。
下宿に帰り、ニノは寝支度をする。
寝る前の手順は、決まっていた。
窓を少し開ける。
水差しを枕元に置く。
そして、目覚ましの硬貨——
ブリキの洗面器の縁に銅貨を三枚、
ぎりぎりの均衡で立てておく。
夜中に寝返りで床が揺れれば、
硬貨が落ちて音を立てる。
眠りが深くなりすぎないための、
子供じみたまじないだった。
ニノは、深く眠るのが怖い。
理由は、自分でもうまく説明できない。
九つの年、嵐の晩に桟橋から海に落ちた。
真っ暗な水の中で上下がわからなくなり、
肺が潰れかけたとき、
誰かの声が聞こえた気がした——
岸はそっちじゃない、右だ、
灯りを背にしろ。
声に従って、生きて浜に上がった。
周りの大人は、
無我夢中の聞き違いだと言った。
たぶんそうなのだろう。
ただ、それ以来、
眠りの底が深くなると、
あの晩の真っ暗な水の感触が戻ってくる気がして、
ニノはいつも浅瀬で眠る。
銅貨三枚を立てて。
その夜も、いつも通りのはずだった。
硬貨を立て、灯りを消し、目を閉じた。
霧笛が、遠くで一度鳴った。
落ちた、と思った。
眠りに入る感覚ではなかった。
床が抜けるように、すとん、と。
気がつくと、ニノは路地に立っていた。
霧の路地だ。
狭い。
両側に煉瓦の壁。
足元は濡れた敷石で、
左から三枚目の石に、
稲妻のかたちの罅が走っている。
どこかで見た——
いや、知らない。
知らない路地だ。
それなのに、
足の裏が敷石の凹凸を
「いつもの道」として知っている。
おかしい、と思おうとして、思えなかった。
考えが、自分のものではない何かに薄く覆われている。
苛立ち。焦り。
それと、奇妙に冷えた決心のようなもの。
心臓が速い。これは自分の鼓動か?
視線が落ちる。
自分の手が見えた。
自分の手では、なかった。
節が太く、指の付け根に古い火傷の痕がある、職人の手だ。
その手が、外套のポケットの中で、固く何かを握り込んでいる。
紙だ。
折り畳んだ、新聞の切り抜き。
汗で湿って、指の腹にインクが移る感触まで、ある。
夢だ、とようやく思った。
夢だとわかったのに、覚めない。
視界の解像度はむしろ上がっていく。
煉瓦の目地の白さ。霧に滲むガス灯。
遠くの霧笛。
誰かの——この体の持ち主の——浅い呼吸。
ニノは「乗っている」のだった。
誰かの体に、誰かの数時間に、相乗りしている。
手も足も動かせない。
目を逸らすことすらできない。
この目が見るものを、見せられるだけだ。
足音が、来た。
路地の先の霧から、人影が一つ、滲み出るように現れた。
中肉中背の男。
外套の襟を立て、こちらに気づいて、足を止める。
『……来たのか』
声が聞こえた。霧で湿った、低い声。
『来るなと言ったはずだ。今夜は、来るなと』
この体が、答える。
喉が震える。
自分の声ではない声が、自分の骨を伝って響く。
『先に決めたのは、おまえだろう』
会話の意味は、わからなかった。
ただ、双方の声の底に、
同じ温度のものが流れているのがわかった。
恐怖だ。
憎しみではない。
二人とも、相手が怖くてたまらないのだ。
怖いから、確かめに来た。怖いから、先に。
男が、半歩、踏み込んだ。
そこからは、速かった。
掴み合い。外套の布の裂ける音。
壁に背中が叩きつけられ、
視界が一度白く飛ぶ。
揉み合う二人分の呼吸が、
霧の中で獣じみていく。
ポケットの中の紙が、握り潰される。
そして、この体の右手に——
いつの間にか、冷たく細いものが、握られていた。
やめろ、とニノは叫ぼうとした。
声は、出ない。
この喉は自分のものではない。
重い、嫌な感触が、右手から肩まで伝わった。
布と、その下の柔らかいものを抜ける感触。
男の息が、耳元で、変な音を立てて止まった。
霧の路地が、静かになった。
敷石の上に、男がゆっくりと崩れていく。
稲妻形の罅の入った、左から三枚目の石の上に。
黒い染みが、罅に沿って、
ゆっくりと枝分かれしながら広がっていく。
この体は、肩で息をしながら、
それを見下ろしている。
右手から、細いものが滑り落ちて、
敷石で硬い音を立てた。
風が、路地を抜けた。
足元を、新聞紙が一枚、
霧と一緒に転がっていく。
ニノの目——校閲の目が、
勝手にそれを追った。
転がる紙面の隅、欄外の小さな活字。
版表記。日付。
読めた、ような気がした。
考えるより先に、視界の主が顔を上げてしまったからだ。
そして。
倒れた男の向こう、路地の出口の霧の中に、
もう一つ、人影が立っていた。
いつからいたのか。最初からいたのか。
その影が、こちらを見ていた。
いや——違う。
この体を、ではない。
その目は、この体の「目の奥」を、
まっすぐに覗き込んでいた。
レンズの向こう側を覗き込むように。
乗っているニノを、正確に。
影が、口を開いた。
『……見ていたな』
銅貨の落ちる音で、ニノは跳ね起きた。
洗面器の中で、
三枚の銅貨が回りながら鳴っていた。
夜明け前の下宿。
自分の部屋。
自分の手。
指の付け根に、火傷の痕はない。
寝間着が、絞れるほど汗を吸っていた。
心臓が、肋骨の内側を叩き続けている。
ニノは水差しの水を直接呷り、半分を胸にこぼした。
夢だ。
ひどい夢を見た。それだけだ。
それだけだと、三十回くらい胸の中で唱えた。
唱えながら、ニノは自分の右手を見ていた。
手のひらに、あの重い感触の記憶が、まだ薄く残っている。
布と、その下の柔らかいものを抜ける——
便所で胃の中のものを戻し、
それから夜が明けるまで、
灯りを点けたまま座っていた。
朝の通勤路は、いつも通りだった。
霧の晴れた坂道。
パンと石炭の匂い。
路面電車の鐘。物売りの声。
昨夜のあれは夢で、ここが現実だ。
歩くほどに、世界の輪郭が確かになっていく。
新聞社へ向かう近道に、
ニノは印刷所の脇の細い路地を使う。
毎朝通る、何の変哲もない抜け道だ。
その路地に入って五歩目で、足が、止まった。
足の裏が、先に気づいたのだった。
視線が、ゆっくりと落ちる。
濡れた敷石。左から、三枚目。
稲妻のかたちの罅が、走っていた。
昨日まで、あっただろうか。
毎朝踏んでいる石だ。
あっただろうか、こんな罅が。
あった気もする。なかった気もする。
確かめたことなど、一度もなかった。
ニノはその場にしゃがみ込み、
首から提げた祖父の拡大鏡で、罅を覗き込んだ。
罅の縁は、白く新しかった。
割れてから、まだ日が経っていない。
校閲の目が、頼んでもいないのに、そう読み上げた。
ニノはしばらく動けなかった。
朝の往来の音が、路地の入り口で
遠くなったり近くなったりしている。
夢で見たのと、同じ罅。
同じ位置。同じ枝分かれ。
偶然だ。罅なんて、どれも似たようなかたちをしている。
そう片付けかけた思考の底から、
昨夜の最後の声が、霧のように染み出してきた。
——見ていたな。
あの目は、こちらを見ていた。
体の持ち主ではなく、その奥に乗っていた、自分を。
ニノは立ち上がり、罅を踏まないように跨いで、路地を足早に抜けた。
振り返らなかった。
振り返ったら、霧の出口に誰かが立っている気がして、
どうしても、振り返れなかった。
(第一章 了)


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