「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.12
第十二章 岸の声
すべてが終わった夜、ニノは自室の軋むベッドで、生涯で二度目の「深い夢」に落ちていた。
そこは嵐の海だった。 冷たい雨が打ちつけ、黒い波が荒れ狂っている。波間に、もがいている小さな影があった。溺れかけている子供。必死に空気を求めて手を伸ばすが、無情な波がその小さな体を何度も海の底へと引きずり込もうとしている。 幼い日の、ニノ自身だった。
夢の中の現在のニノは、波に揺れる小舟の上に立っていた。 あの夜、自分は冷たい暗闇の中で死にかけていた。しかし、どこからか聞こえた「声」に導かれ、岸の方角を知って這い上がったのだ。
ニノは、冷たい雨に打たれながら、波間の小さな自分に向かって力の限り叫んだ。
「岸はあっちだ! 右へ泳げ!」
声は嵐の風に掻き消されそうになりながらも、確かに波間の子供に届いた。もがいていた小さな手が、右の暗闇の方角へと必死に水を掻き始める。 ニノは悟った。幼い夜、溺れる自分を導いた「知らない誰かの声」。それは、他でもない今夜の自分自身の声だったのだ。受信はかすかに双方向。他人の命を救い、自らの過去を肯定した瞬間、時間が美しい円を描いて閉じた。
ふと、ニノの脳裏にイヴがかつて語っていた言葉が蘇った。 『私が潜り手になったのはね、子供の頃に恐ろしい夢を見ていた時、誰かの声に救われたからよ。……確かめてから、握り直せって』 ニノは暗い海の上で、小さく微笑んだ。互いが互いの「岸」だったのだ。
終章 今朝の潮見表
数ヶ月後。 港都ハルメアの海霧は、今日も街を白く包み込んでいる。 朝、灯標新聞社の輪転機が吐き出した紙面の片隅には、相変わらず『潮見表』の欄があった。しかし、かつてのような絶対の予言ではない。「合議の経緯」と「反対証言」が全文併記されるようになり、ただの「当たることもある資料」へと格下げされたのだ。
ニノは正規雇いの校閲部員となり、今日もデスクで赤鉛筆を走らせている。 港裏の安宿では、復権を果たしたイヴが、新たな依頼に向けて長い髪を解いていた。彼女が深い眠りに落ちる時、その脈を預かる記録係の椅子には、いつも必ずニノが座っている。
二人の間に、甘い愛の言葉はない。 ただ、彼女の無防備な脈の音と、彼の指先についたインクの匂いだけが、確かめ合った二人の「今の線」を、静かに繋ぎ止めていた。
(了)


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