「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.9
第九章 浅瀬の老人
港の喧騒から遠く離れた、海風が直接吹き付ける寂れた突堤。テオ・ガリは、錆びたドラム缶の上で貝の網焼きをつつきながら、昼から安酒をあおっていた。
かつて観潮院の創設に関わりながら、今では自らに夢を見ない訓練を課し、港外れで「浅瀬暮らし」を続ける70代の老人だ。深く潜りすぎた代償として、彼の中では自分自身の記憶と、夢の中で生きた他人の記憶が境界を失って混ざり合ってしまっている。
「編集、ねえ」
ニノとイヴが持ち込んだ観潮院の暗部について聞かされても、テオは驚く様子もなく、ただ貝殻を火の中に放り投げた。
「ドミニの小娘も、根は真面目なんだ。だがな、波の形を帳簿の上で綺麗に整えたところで、本物の潮のうねりは止められねえよ」
テオは濁った目で海を見つめ、酒瓶を揺らした。
「お前さんたち、なぜ夢を見る人間が、よその線の出来事を知っちまうのか考えたことはあるか?」
ニノは黙って首を振った。 「ただの一方通行の覗き穴じゃねえんだ。受信ってのはな、かすかに双方向なんだよ」
テオの言葉に、イヴが小さく息を呑んだ。 「夢を見る側の強い感情や決断はな、見られている側へも届く。虫の知らせ、不意の悪寒、ふと振り返る感覚。そういう淡い形をとってな」 テオはニノを指差し、人を食ったような笑みを浮かべた。 「夢ん中で叫んだことはな、坊主、届いとるんだ。いつでも、どこへでも、薄ーくな」
ガツン、と。
ニノの脳裏を、冷たくて重い衝撃が打ち抜いた。
幼い頃の記憶が、鮮烈にフラッシュバックする。 暗く冷たい海。もがいても空気に届かず、肺が水を飲み込もうとしたあの夜。沈みゆく意識の底で、どこからか聞こえた「岸はあっちだ」という見知らぬ誰かの声。あの声にすがりついたからこそ、ニノは生き延びることができた。
(もし、受信が双方向だとしたら……?)
あの夜、溺れかけていた自分を「どこかの線の、いつかの誰か」が、夢の中で見ていたとしたら。そして、夢の中から叫んだのだとしたら。 過去と未来は、互いに影響し合っている。そしてその影響も含めて、すべての線の歴史は最初から辻褄が合っているのだ。
ニノは自分の胸元を強く握りしめた。幼い日の記憶が、かつてない熱を帯びて疼き始めている。
「過去にも、未来にも、隣の線にも、声は届く」テオは火の消えかけたドラム缶に背を向けた。「だが、深く潜りすぎれば俺みたいに自分を見失う。気をつけな」
ニノはバインダーを抱え直し、深々と礼を言って突堤を後にした。
双方向の受信。
その事実は、ウォルダとセルゲの殺し合いを止めるための、かすかな希望の光だった。彼らが互いの死の夢を見ているのなら、潜り手であるイヴがその夢の深淵に干渉し、強烈な「虫の知らせ」を送り込むことができるかもしれない。
海から這い上がってきた重たい霧が、テオの焚き火の煙と混ざり合い、ニノたちの足元を白く塗り潰していく。ニノの薄い皮膚の下で、過去と未来を繋ぐ奇妙な脈動が、静かに、そして力強く打ち始めていた。


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