「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.3
第三章 免停の潜り手
観潮院の窓口で「未来の版表記を見た」と訴えても、退屈そうな書記官にあしらわれるだけだった。彼らにとって、毎朝の潮見表の『合議』こそが絶対であり、一介の校閲見習いの戯言など記録する価値もなかったのだ。
だからニノは、港の裏手にある海鳴りの絶えない安宿街へ足を向けた。
軋む木造の階段を上り、潮と安い煙草の匂いが染み付いた扉を叩く。 現れたのは、ひどく不機嫌そうな目をした若い女だった。イヴ・マルセナ。かつて観潮院の首席潜り手でありながら、合議に真っ向から逆らう証言を取り下げず、免許を剥奪された異端児。
「……灯標新聞の校閲部?」 彼女は扉に寄りかかり、ニノの首から下がる拡大鏡を値踏みするように見た。 「闇の依頼なら他を当たって。私、今はただの無職なの」
「あなたの復権に必要なものを、僕が払います」 ニノは食い下がった。 「あなたが免許を止められた理由……合議の『間違い』を、僕の目で証明する。文章の偽造や編集の痕跡を見つけることにかけては、誰にも負けません。その代わり、僕の見た夢の出所を……あの殺人がどこの線の出来事なのかを、探ってほしい」
イヴは少しの間、ニノのインクで汚れた指先を見つめていたが、やがて小さくため息をつき、部屋の中へ顎をしゃくった。
薄暗い部屋の真ん中には、鉄パイプのベッドが一つあるだけだった。 イヴは無言のまま、潜航用の編み紐で結っていた長い髪をゆっくりと解いた。黒い髪が背中に音もなく広がる。続いて、身体を締め付けている厚手のカーディガンのボタンを外し、首元を緩めた。 それは彼女にとって、深い夢の底へ降りるための純粋な職業的儀式だった。だが、薄暗い密室でその手順を見せられるニノは、目のやり場に困り、視線を床の木目に落とした。
「記録係、やったことある?」 ベッドに身を横たえながら、イヴが尋ねる。 「……いや。初めてです」 「そう。じゃあ、絶対に目を離さないで」
彼女はそう言うと、ベッドの端から白く細い腕を伸ばし、無防備な手首をニノへ向けて差し出した。薄い皮膚の下に、静脈が青く透けている。何度も深く潜ってきたせいで、針を刺したような無数の脈拍痕が残っていた。
「私の脈を見失わないで。戻ってこられなくなるから」
ニノは息を詰め、震える指先で彼女の手首に触れた。 ひどく冷たい肌だった。指の腹に、トク、トク、という静かな拍動が伝わってくる。 イヴが目を閉じる。数秒後、彼女の呼吸がふっと浅くなり、脈拍が信じられないほど遅くなった。一分間に数十回あった鼓動が、十回、五回と減っていく。 命が、肉体を置いてどこか遠い暗がりへ沈んでいく感覚。他人の無防備な命を、指先ひとつで預かっている恐ろしさに、ニノの背筋に冷たい汗が伝った。 これが、潜り手という仕事なのだ。
十数分が経過しただろうか。 不意に、指先の脈が大きく跳ねた。 ビクッ、とイヴの身体が反り返り、彼女は激しく咳き込みながら目を見開いた。
「……っ、タオル!」
ニノが慌てて手渡したタオルで額の汗を拭い、イヴは荒い息を吐いた。ニノは部屋の隅のコンロで湯を沸かし、熱い紅茶を淹れて彼女に手渡した。 カップを受け取る彼女の手は、小刻みに震えていた。
「紙と鉛筆」 湯気の向こう側で、イヴの瞳に鋭い光が戻る。室内の温度が、彼女の帯びてきた熱によって急激に上がったように感じられた。 「書き留めて。あんたの夢の当事者、二人とも見つけたわ」
ニノは手帳を開き、赤鉛筆を構えた。 「どこの線の話ですか。いつの……」 「この街よ。やっぱり潮は寄ってきてる。でも、おかしいの」 イヴは紅茶を一口すすり、ニノを真っ直ぐに見据えた。
「揉み合って、ナイフで刺す。そこまでは同じ。でも……私が拾った夢の証言では、殺されるのはあんたの夢で『刺した側の男』だったのよ」
ニノは鉛筆の手を止めた。 「逆の結末……? どういうことですか。夢は嘘をつかないはずだ」
「ええ。夢は絶対に実際に起きることを映す。つまり……」 イヴの唇が、わずかに震えた。
「全員、本当のことを言ってるのよ。別々の線のね」
窓の外で、遠く海鳴りが響いた。 ニノは赤鉛筆を握りしめたまま、自身の指先にまだ生々しく残る、彼女の冷たい脈の感触を反芻していた。それは、これから始まる途方もない矛盾の海へ、二人で足を踏み入れた合図のように拍動し続けていた。


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