「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.2
第二章 潮見表
ハルメアの朝は、路面電車の鈍い鐘の音と、活版のインクの匂いとともに明ける。
ニノが灯標新聞社の裏口をくぐる頃には、街のカフェでも、荷下ろしを待つ港の労働者たちも、こぞって朝刊の同じ欄に目を落としていた。三面記事の下、天気予報と並んで配置された小さな囲み記事——『潮見表』である。
「今朝の潮は浅いな。南区の火事の夢は、遠い線の残響だそうだ」 「こっちの絹糸の相場はどうだ? 値上がりの夢を見た奴が三人もいるらしいぞ」 「そいつは糸問屋が金を積んで、都合のいい夢の証言を買い集めただけさ。いつもの宣伝だよ」
同僚たちがタバコをふかしながら交わす会話を、ニノは無言で通り過ぎた。 潮見表。それは市民から収集された「夢の証言」を観潮院と呼ばれる役所が照合し、この街の近くで起きそうな出来事を予測する合議予報だ。市民にとってそれは、天気予報と人生相談を掛け合わせたような、生活に欠かせない指針だった。 強く見つめ合った線は、互いに似てくる。「潮が寄る」という港町特有の言い回しは、夢で見た出来事が現実のこの街に近づいてきていることを意味する。
ニノは自分のデスクに座り、首から下げた拡大鏡を指でなぞった。 昨夜の夢。ひび割れた敷石。そして「見ていたな」と呟いた男の泥のような瞳。
(あれは、どこか遠い別の線の出来事だ。この街には寄ってこない)
ニノは自分にそう言い聞かせ、新しいゲラの束に赤鉛筆を走らせようとした。しかし、芯が紙に触れる直前で、ピタリと止まった。
記憶の底で、何かが引っかかっている。 倒れた男の喉から血が噴き出したあの瞬間。足元の石畳を、強い海風に吹かれてカサカサと転がっていったものがあった。
紙屑だ。 古びた新聞の1ページ。
ニノは目を閉じ、視界の隅を転がっていったその紙片の記憶を、暗室で写真を現像するように限界まで引き伸ばした。 活字の級数。段組みの余白。偏の形。 校閲見習いとしての彼の目は、極限の恐怖の中でも無意識のうちに、活字の物理的な形を正確にスキャンしていた。
「……違う」
ニノは思わず呟き、席を立った。 あの夢の中で風に舞っていた新聞は、他社の記事でも、遠い過去のものでもなかった。見慣れた灯標新聞の書体。だが、違和感の正体はそこではない。 紙面の左下、日付の横に極小の文字で打たれる「版表記」の記号だ。
ニノは足早に資料室へ向かい、重厚な革張りの『版表記台帳』を棚から引きずり出した。埃が舞う中、分厚いページをめくる。 過去十年の記号一覧。どれも違う。 現在の記号。これも違う。 彼はさらにページをめくり——「未採用」のインデックスが貼られた未来の予定表で、手を止めた。
活字の摩耗を防ぐため、新聞社では数ヶ月おきに版の記号を微細に変更する。 台帳の真新しいページに記されていたのは、来月の第一週から採用される予定の、まだこの世のどこにも印刷されていない新しい版表記だった。
息が止まりそうになった。 あの夢は、遠い別の世界線の出来事ではない。 数週間後、確実にこのハルメアの街の路地裏で起きる、殺人事件の光景だ。
ニノは台帳を押さえたまま、顔を上げた。 資料室のすりガラスの向こう側を、誰かの影が通り過ぎていくのが見えた。背格好。歩き方。それは今朝、路地裏で振り返った時に感じた「気配」と同じものだった。
あの男が、近づいてきている。 潮が、猛烈な速度で寄り始めている。
ニノの震える指先の下で、まだインクの匂いすらしない未来の台帳の紙が、かすかに、だが確かに波打つように軋んだ。


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