「昨夜、誰かの夢で人が死んだ」Part.1
第一章 深い夢
灯標(とうひょう)新聞社の地下階は、常に鉛のインクと古い紙の匂いが充満している。輪転機が回る重低音が、足元から床を伝って絶え間なく響いていた。
校閲部で見習いをしているニノ・カスクは、首から下げた老眼鏡型の拡大鏡を指で弾き、机に積まれたゲラの束に目を落としていた。周囲の喧騒など聞こえていないかのように、ただ赤鉛筆の芯が紙を擦る音だけを響かせる。 彼は、活字のわずかな「揺らぎ」を見逃さない。 偏の歪み、インクの微かな掠れ、コンマとピリオドの誤植。誰が書いた文章かなどどうでもよかった。彼にとって重要なのは、言葉の意味よりも、物理的な記号としての文字が正しく整列しているかどうかだけだった。インクで黒く汚れた指先が、不自然な余白を見つけては迷いなく赤い線を入れていく。
定刻を過ぎて深夜。活版印刷の音が少しだけ遠のいた頃、ニノはコートの襟を立てて海霧の立ち込める帰路についた。
港都ハルメアの夜は、濃密な湿気を孕んでいる。 安アパートの軋むベッドに潜り込んでも、ニノは決して深い眠りに身を委ねることはなかった。幼い頃の記憶――冷たい暗い水の中で息ができなくなり、どこからか聞こえた「声」にすがりついて岸へ這い上がった夜――以来、彼は水底へ沈むような熟睡を無意識に拒絶していた。 その日も、波打ち際を漂うような浅い眠りのまま、夜明けを迎えるはずだった。
だが、その夜の「底」は不意に抜けた。
気づけば、ひどく冷たい霧の中に立っていた。自分の足で地面を踏みしめている感覚はあるが、歩幅も重心も違う。 視線を落とすと、見知らぬ両手があった。 掌には、長年何かを握り込み続けてきたような分厚いタコがある。その手が今、ずしりと重い刃物を握りしめていた。
鉄の匂いがした。いや、血の匂いだ。
荒い息遣いが聞こえる。それは自分自身の肺から漏れている音だった。 目の前で、男が崩れ落ちる。喉元から噴き出した赤黒い液体が、石畳の隙間を滑るように埋めていく。息を呑む暇もなかった。他人の腕が力任せに刃物を引き抜き、手首を返して血振るいをする。
その時だった。 刃物を握る男が、ふと顔を上げた。
視界の主は、まるで鏡の中の自分を見透かすように、まっすぐに「こちら側」を見つめた。 狂気とは違う、怯えきった泥のような瞳孔。 男の唇が微かに動き、直接頭の中に声が響いた。
『……見ていたな』
ニノは毛布を跳ね飛ばして跳き起きた。 心臓が早鐘を打ち、全身が冷や汗で濡れている。ひどく息苦しい。彼は震える手で自身の両手を確認した。分厚いタコなどない、インクが染み付いたただの校閲見習いの手だ。 しかし、刃物の重みと、掌に跳ね返った生温かい血の感触だけが、幻肢痛のように生々しく残っていた。
「……ただの夢だ」
無理やり喉から声を絞り出し、洗面器の冷水で顔を洗う。 ひどい悪夢を見た。それだけのことだ。ニノは自分にそう言い聞かせ、いつもより少し早く下宿を出た。
港からの冷たい海霧が、石畳の街を白く染め上げている。 いつもの通勤経路。ガス灯の立ち並ぶ大通りを歩いていたニノは、ふと思い立って、時間を節約するために狭い裏路地へ足を踏み入れた。
その路地の入り口から、三歩目だった。 ニノの足が、凍りついたように止まった。
右端の敷石。 斜めに大きく亀裂が入り、欠けた部分に黒っぽい苔がへばりついている。 昨夜の夢の中で、殺された男の血溜まりが吸い込まれていったあのひび割れと、寸分違わぬ形の石がそこにあった。
ひやりとした空気が首筋を撫でる。 ニノはゆっくりと背後を振り返った。そこには誰もいない。ただ、濃密な白い霧だけが、ひび割れた敷石を隠すように音もなく這い寄ってきていた。


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