乾屎橛(かんしけつ) | 覚書き

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乾屎橛 カンシケツ
デジタル大辞泉の解説
かん‐しけつ【乾×屎×橛】

禅宗で、乾いた棒状の糞(くそ)。仏とは何かという問いに対する答え。一説に、くそかきべらで、不浄なもののたとえ。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

大辞林 第三版の解説
かんしけつ【乾屎橛】
〘仏〙 禅語。伝統的にくそかきべらと解されてきたが、本来は乾いた棒状の大便。常識的な観念を打破するため、仏や禅僧の比喩として用いる。
 

 

http://www.hikari-k.ed.jp/zenchoji/houwa/houwa2508.htm


・・・・・・平成25年8月・・・・・・
「乾屎橛(かんしけつ)」
 無門禅師が著した『無門関(むもんかん)』という禅の書物の「雲門屎橛(うんもんしけつ)」(第二十一則)に、こう記されています。
 雲門和尚に対してある僧が問いかけます。
 「如何なるか是れ仏」
と。雲門は答えて
 「乾屎橛(かんしけつ)」。
 雲門は、仏とは一体何でしょうかという問いに対して、一言「乾屎橛」と答えるのですが、乾屎橛とは排泄後にお尻を拭く尻拭き棒のことです。当時は紙が貴重でしたので、木のヘラを用いて、用便後に木のヘラで拭いたのです。中国では、今でも奥地に行くと、トイレにこの尻拭き棒があって、これで用を足しています。
 さて、仏とは何かという問いの答えが、「尻拭き棒」とは一体どのような意味でしょうか、書物の作者・無門禅師は、こう評しています。
無門曰く、「雲門謂うべし、家貧にして素食(そじき)を弁じ難し。事忙しうして書を草することに及ばず。動(やや)もすれば、すなわち屎?をもち来たって門をささえ、戸をささう。仏法の興衰見つべし。」 
 仏とはと問われても、自分は貧乏していて、美味いものをご馳走するようなきれいな答えを出すことはできないし、また、忙しいので文章を著して、書いて伝えることもできない。そんなもんをありがたがっても救われやしないだろう。この答えを果たしてどう理解するのか、ひどい言葉と解釈するか、妙語と解釈するかに、仏教の興隆と衰退がかかっているのだ、と言っているのです。さらにその後に、次のようなことを言っています。雲門は僧の問いの本質を一瞬に見抜き、この者に講義し議論するよりも、たった一言「乾屎橛」と伝えて、答えを見出す大きなヒントを与えているのです。
 答えを与えることより、手掛かりを与えることで、期が熟すれば、自ずから本当の答えを導き出せることでしょう。解る時期が来れば解るのです。本当に解るには、本人の努力次第です。

 

 

http://rinnou.net/cont_04/myoshin/2012-11b.html

トイレで出会う仏様
書き下ろし
京都府 ・大泉寺住職  桐野祥陽
myoshin1211b.jpg  「おい!雪隠掃除はしたか?」これは20年前の11月に亡くなった祖父が口を酸っぱくして言った言葉です。この「雪隠」は仏教用語でトイレの事を指しますが、一般的には「便所」、「厠」、修行道場では「東司」「西浄」等、色々な呼び方があります。中でも「雪隠」と聞くと、昔ながらのボットン便所をイメージされる方も多いのではないでしょうか。
 何故トイレを「雪隠」と呼ぶのかと申しますと、諸説ありますが、「雪」には「すすぐ」、「隠」には「不浄」という意味があり、不浄をすすぐ、つまり「排泄物をすすぐ」という事に由来しています。しかし、現在では「雪隠」と呼ぶ方も少なくなり、多くのトイレが見た目も綺麗な水洗便所に変わっております。
 トイレは、人が集まる場所には必ず必要で、トイレがないと本当に困ります。我々はご飯を食べたら必ず排泄しなければ生きていけません。しかし、私達はどんなに必要であると分かっていても、どんなに見た目が綺麗になっても「トイレは汚い・臭い」というイメージが強く、トイレ掃除を率先してする方は少ない様に感じます。
 しかし、禅寺ではトイレ掃除を非常に大事にしており、大切な修行の一つに挙げられます。「不浄の掃除は心の浄化」という言葉もあり、誰もやりたがらないトイレを掃除する事が、自分の心の掃除にもなり、私達が持つ煩悩や苦しみも一緒にすすぐ事が出来ると言われております。
 禅の修行の中で大切な禅問答の中に、「仏とは何ですか?」と問うものがあります。それに対し「乾屎橛」と答える所があります。この「乾屎橛かんしけつ」とは、「糞かきべら」または「糞(排泄物)」そのものを指しております。
 私達は「仏様」と聞くと、金ぴかに輝いた何だか素晴らしいものを想像してしまいます。しかし禅問答では、仏様を表わすのにみんなが不浄だと思っているものを持ってきているのです。つまり、仏様とはそんなキラキラと輝いているような素晴らしいものではなく、綺麗とか汚いとかそういう所を越えた、毎日繰り返される生きる営みそのものの中にあるんだ、という事なのです。そんなごく身近におられる仏様を、我々は「臭い・汚い」と言って敬遠してしまっているのです。
 自分自身では決して見る事の出来ない身体の中を通ってきた尊い仏様を、これからは感謝の心で向き合ってみては如何でしょうか。そして、その時サッとトイレの掃除もする。そうすれば、トイレに行く度に仏様に出会え、更には心の掃除までできます。この実践を日々の暮らしの中でする事が、祖父の供養にも繋がってくるのだと思います。皆様も今日からトイレに行く度に「仏様に出会う」という心を持ってみては如何でしょうか。

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