1994年2月4日、H-Ⅱロケット初号機の打ち上げ(写真・NASDA)
1994年2月4日、H-Ⅱロケット初号機の打ち上げ(写真・NASDA)

花が咲いたアップル談義

その五代さんに初めてお目にかかったのは、H-II初号機打ち上げの2か月ほど前だった(当時、五代富文さんは61歳)。H-IIロケットの開発話を、週刊誌連載「メタルカラーの時代」に書くのが目的で、打ち上げの下見も兼ねて、初めてNASDA(宇宙開発事業団)種子島宇宙センターを訪ねたのだ。ここは総面積約970万平方米、およそ300万坪、五代さんはセンター長で、NASDAの理事でもあった。

インタビューを始めようとしたところ、五代さんのデスク上にアップル社製の小型端末「ニュートン」が置いてあるのに気づき、目が釘付けになった。

私は、アップルが1984年に発売した世界初のパソコン「Macintosh 128K」に感動し没頭、今日までの42年間、Windowsパソコンは1回も使わないできたマック至上主義者だ。

だが当時、アップル社製品の先進性を理解し、愛用している人はごくわずかだった。それだけに、五代さんが発売したばかりのアップルのPDA(Personal Digital Assistant・携帯情報端末)「ニュートン」を持っていることに驚き、H-IIロケットそっちのけで「携帯端末」やら「アップル話」で盛り上がってしまった。史上初のスマホ、iPhoneが登場したのはそれから13年後だが、お互い、やがて到来するスマホ時代の予感を感じながら語り続けてしまったため、気づいたら約束の時間が終わっていた。

H-IIの取材は後日、東京で行えたので、打ち上げ前に記事として出すことができたが、その東京のオフィスでの取材時に私はアップルの愛用ノートPC、PowerBook Duo 250を持参したため、この日の取材も半分はマック話だった。以降、私と五代さんは長く、宇宙開発とアップルによる絆が続いたのだった。

【1-07_PowerBookDuo】
東京でのH-IIロケット取材に私が持参したアップルのノートPC(PowerBook Duo)で盛り上がった。(写真・山根事務所)
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先進性、大胆さが牽引した大型ロケット開発

種子島宇宙センターでは何度も大型ロケットの打ち上げを見てきたが、やはり1994年のH-IIロケット初号機の印象が強い。五代さんは、そのH-IIの能力を、誇らし気にこう語っていた。

H-IIは、高度300~400kmの低軌道(スペースシャトルや国際宇宙ステーションの軌道)へは、大型バス1台分、約10トンのものが上げられます。通信衛星、放送衛星、気象衛星などは地球表面の赤道上3万6000kmの「静止軌道」ですが、そこへは2トンの荷物が上げらます。トヨタのクラウンが1.57トンですから、これに体重70〜80kgの人が5人乗り、後部トランクにゴルフバックを4つ乗せると2トン。それくらいのモノを静止軌道に乗せられるわけです。

ロケットは自重が260トンなので、衛星という荷物1トンあたり120トンです。ところがさかんに商業衛星を上げているヨーロッパのロケット、アリアン4は自重460トンで衛星が同じ2.2トン。衛星1トン当たりロケット重量が210トンもある。日本のH-IIは、エネルギー効率が2倍。これは、声を大にしていいたい部分です。

(拙著、文庫版『メタルカラーの時代6・ロケットと深海艇の挑戦者』小学館)

というH-IIロケットだが、4号機を打ち上げた直後の取材時、「すでに後継機の開発を進めているんですよ」と言うのである。

――どうして早々と後継機の開発を?

五代 これまで打ち上げてきたH-IIは「ファースト・バージョン」です。みな必死になってやっとできたが、すべてが完璧主義で作られていて結果的にはオーバーデザインになっていました。実際に作ってみないと計算だけではわからない部分が多かったからです。燃料の水素が流れてきて温度が何度になるか、すべての部分の予測ができるものではない。わからないから構造も複雑になっていた。設計通りに機能しなかったときのことを考えて余裕、マージンをそれぞれのパートの技術開発者があちこちに相当ためこんでいましたからね。

――飛ばしてみて初めて、必要、不要がわかる?

五代 いや、飛ばす前に、次はどうすべきかの情報の9割は得ていました。LE-7エンジンの開発者たちは、燃焼試験段階で爆発事故が続いたこともあって目の前にあるエンジンに必死だったが、私はその最中に、「今から次の世代の改良型エンジンの設計を手掛けてほしい」と伝えました。ひどいことをいうヤツと思われたでしようが、非常に早い時期から「H-II改良型」の開発を立ち上げていたんです。

鉄は熱いうちに打てと言うでしょ。 大仕事をしているときはトラブルにも見舞われる。でも、ひと仕事終わると忘れちゃう。ですから、まだトラブルに見舞われているときに、「こうすればよかった」という現場のマインドを次の設計や製造技術に反映させるべきなんです。

―― どのような設計変更、改良を?

五代 今までの(液体水素と液体酸素の)燃料タンクの先端は「半球」だった。それを「半球をつぶした形」、シャローというデザインにし搭載燃料を増やしました。ところが「半球をつぶした形」のタンクは製造が難しい。そこで、H-IIの後継機は、アメリカのデルタロケットと同じものを使うことにした。「純国産主義」から「国際主義」に変えたんです。

――えっ、やっと100%国産技術で作ることができたのに、それをやめる?

五代 H-IIロケットは純国産で作ることができた。できればしめたもので、今後、いざとなれば独自に作れる。なので、安心してビジネスを考え、コストが低く作りやすい(国産ではない)モノ(部品、部材)も使えばいいと考え、外国の技術や部品でいいものがあればどんどん採用していこうと。1号機の成功直後にはもうそう考えていました。

五代さんの大型ロケット開発は、こういう先進性、大胆さで進められたのだ。

そのことが効を奏したのは、1999年11月15日に打ち上げた7機目のH-IIロケット8号機の打ち上げだった。

その日、私はブラジル、アマゾン河口の大都市、ベレンのホテルにいたが、種子島で取材中のカメラマンからあわてふためいた電話があった。

「H-IIの8号機、司令破壊されました!」

司令破壊とは、ロケットに爆破のコマンドを送信して自爆させることを意味する。

8号機は1段エンジンであるLE-7の破損によって推力を失ったため、高度46kmで司令破壊され、小笠原諸島の北西、約380kmの海上に落ちたのだ。

【1-09_司令破壊パネル】
司令破壊のコマンドを送信した種子島管制センターのパネルの実物。コマンドの送信、エンジンの推力停止、破壊(自爆)のスイッチが並ぶ(山根所蔵史料)
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残骸は3000mの深海底に沈んだが、何と五代さんは「原因究明のためエンジンを引き上げよう」と命じたのだ。

それを託されたのが、海洋科学技術センター(現・JAMSTEFC)の門馬大和さんのチームで、深海底のエンジンを奇跡的に発見、引き上げるまでの物語は、2000年5月、週刊誌のスクープ記事として3週にわたり掲載し大きな話題となった。四半世紀前の記事だが、久々に読み、自著ながらわくわくしてしまった(拙著『文庫版・メタルカラーの時代6・ロケットと深海艇の挑戦者』小学館、に収載)。

【1-10_司令破壊場所】
H-IIのエンジンを引き上げた海域、小笠原近海の孀婦舟状(そうふしゅうじょう)海盆(作図構成・山根一眞)
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打ち上げた後のロケットの失敗では、その残骸を手にして原因を探ることはほとんどできない。宇宙空間に出てからのトラブルの原因解明は、「病で伏している将軍を、御殿医が障子をはさんだ外側から診断するようなもの」と言われてきた。それだけに五代さんの「深海底から引き上げよう」という命によって引き上げての徹底的なエンジン分析は、後のエンジン開発に多大な貢献をもたらしたのだ。

引き上げたLE-7の解析から、燃料である液体水素(-250度C以下)を猛然たるパワー(F-1カーのエンジンの4倍以上の高速回転)でエンジンに送り込む「ターボポンプ」内で、液体水素がキャビテーションと呼ぶ泡による振動を起こし、ポンプの羽が破損したことが明らかになった。

【1-11_事故調査報告書】
ターボポンプの破断の解析は、NASDAつくば宇宙センターのお隣、金属材料技術研究所、現・物質・材料研究機構などが協力した(出典・山根所蔵資料、『H-IIロケット8号機LE-7エンジンの事故調査報告—破面解析報告—』2000年12月21日、金属材料技術研究所)
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このH-IIロケットの失敗は、当時のNASDAに暗く重くのしかかった。次世代ロケット、H-IIAの打ち上げが迫っていたものの、NASDAの重鎮たちは「もはや日本のロケット開発は国民の支持を得られないのでは」という不安に見舞われていた。

(続く)

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