驚きのフィギュア創世記・4
湖上滑走できなかった時の諏訪湖対策
1922(大正11)年に最初のフィギュア競技会が開催されたのは、屋内ではなく御神渡り(おみわたり)で知られる長野県の諏訪湖だった。
諏訪湖が全面結氷すると南の岸から北の岸へかけて氷が裂けて、高さ30cmから1m80cm位の氷の山脈ができます。これは諏訪神社上社の建御名方命(たけみなかたのみこと、男神)が下社の八坂刀売命(やさかとめのみこと、女神)のもとへ通った道筋といわれています。(長野県諏訪地域振興局)
という御神渡りが出るほどの極寒であれば最高の天然スケートリンクになる。だがこの数十年、地球温暖化によって御渡りが出ない年が増えている。また、湖面が氷結しても氷が薄いためスケートは禁止、湖上でのスケート競技はままならなくなっているのが今の諏訪湖だ。
実は大正、昭和初期でも高い気温が続くと諏訪湖上での競技はできなかった。その場合は、諏訪神社下社の老杉で日陰になる田圃2面を結氷させたスケートリンクを利用したという(諏訪神社下社の春宮か秋宮かは不明)。
気象庁の過去の気象データには大正末期の諏訪湖周辺の気温データがないため、およそ20km離れた長野県松本市の気温を1922年と2026年で比較してみた。104年間の著しい気温上昇がわかる。近い将来、世界のどの国でも冬季五輪の開催が危ぶまれると言われ始めている。
その諏訪湖で開催された最初のフィギュアスケート競技に出場したのは大学生が中心で、1922(大正11)年の競技会の優勝は東京帝国大学だった。選手の名は五代正友。あのロケットの父、五代富文の父だったのだ。翌年も五代正友が1位。
五代正友は仙台市の旧制第二高等学校出身なので、フィギュアスケート発祥地、五色沼でフィギュアスケートの技を身につけたと思われる。
後、五代正友はその実力、実績から日本のフィギュアスケートの重鎮として、1929年(昭和4年)11月、大日本スケート競技連盟の副会長に選ばれ(昭和9年まで)、日本のフィギュアスケート界の牽引役の一人となった。「大型ロケットの父」の父は、「フィギュアスケートの父」の一人だったのである。
五代富文はそういう父の手ほどきを受けて伊勢丹デパートで滑っていたので、もし戦争が始まらなければフィギュアスケートの花形少年選手になっていたかもしれない。
驚きのフィギュア創世記・5
憧れのフィギュア女子スターの来日
1935(昭和10)年2月、オーストリア出身の女性フィギュアスケーター、フリーツィ・ブルガー(1910〜1999)が来日した。
ブルガーは、サンモリッツ五輪(1928年)とレークプラシッド五輪(1932年)で連続銀メダル、ヨーロッパ・フィギュアスケート選手権優勝者(1930年)でもある花形選手だった。
「金」メダリストではないのに日本で熱狂的な歓迎を受けたのは、アイドル的な美女だったからだ。1935(昭和10)年2月2日の『朝日新聞』は大きな写真とともに、こう書いている。
顔から声から――成程、氷上の珠玉 昨夜入京したブルガー嬢
世界スケート界に輝いてゐるオーストリアのフリッチ・ブルガー嬢は一日午後九時東京駅着「燕」で入京した。展望車から降り立った嬢は五尺ー、ニ寸の小柄、栗色の髪を茶色のヴェレーで包み、頗るの美人だ。上品な瓜実顔、子供のような無邪気さを湛へた眼、美しい歯、小さな足……適度の上品と愛嬌とを持つたこのお嬢さんは、なるほど世界スケート界の「珠玉」といふ感じだ。
特急「燕(つばめ)号から降り立った、身長160cmに満たない小柄なブルガー嬢を見た朝日の記者は、そのまばゆいばかりの姿に惚れ惚れとし、その容姿ばかりを書いている。今こんな書き方をすれば大炎上だろう。
東京駅頭でこのブルガー嬢を迎えた一人が五代正友だった。ブルガーの来日は五代正友の尽力だったのではないか。ブルガー嬢は伊勢丹リンクなどで妙技を披露し、翌年の冬季五輪に初挑戦する日本のフィギュア選手たちを大いに刺激した。それだけでなく、ブルガー嬢は何と日本で、とんでもない日本人と恋に落ちたのである。
(後編に続く)