第六十二話 薬の控えは、優しさの顔をしていた
第六十三話は、瀬尾家の母・登勢が「自分も近江屋の薬を娘に飲ませた」と証言する回にします。母の罪と勇気を分けて描き、その証言から“安神丸”の流通記録へ広げます。
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第六十三話 母は、薬の名を書く
登勢が水野清胤の前に座った時、弥生は母の手を見ていた。
手は、震えていた。
瀬尾家の座敷で菊乃へ謝った時も、母の手は震えていた。
けれど、今日の震えは少し違う。
家の中で娘に責められる震えではない。
外へ出してしまえば戻せない紙の前に座る震えだった。
場所は、古帳簿の部屋だった。
水野清胤、松島、弥生。
そして、瀬尾登勢。
父・重信も同行すると言ったが、登勢が断った。
「これは、私が言うことです」
そう言った時の母の声は、細かった。
けれど、逃げる声ではなかった。
清胤は、登勢の前に瀬尾家の薬控えを置いた。
――菊乃様、祝言支度前、肌荒れ・寝不足。
――近江屋白粉箱と同時に、安神丸。
――母君より、気を落ち着けるため。
登勢は、その行を見て顔を青くした。
弥生も、その行をもう一度見た。
昨日、家で見た時より、墨が濃く見える。
家の中では、母の後悔だった。
ここへ持ち出すと、証言になる。
清胤が言った。
「瀬尾登勢。これは事実か」
「はい」
登勢は、かすれた声で答えた。
「菊乃に、近江屋の安神丸を一度、飲ませました」
「誰から受け取った」
「近江屋佐吉です。白粉箱と一緒に」
「何と言われた」
登勢は、両手を膝の上で握りしめた。
「祝言前の娘は、気が高ぶる。肌荒れも寝不足も、嫁入りに差し障る。安神丸は気を鎮め、眠りを深くし、肌も整えると」
「藤枝筋の名は出たか」
「出ました」
弥生は筆を止めそうになった。
登勢は続けた。
「藤枝様の筋でも、嫁入り前の娘の養生に用いることがある、と。奥向きでも評判のよい薬だと」
また、藤枝筋。
また、安心の名。
母はその名を聞いて、疑わなかった。
清胤は淡々と問う。
「飲ませた後、どうなった」
「その夜は、よく眠りました。翌朝、菊乃は少しぼんやりして……いつものように喋らず、反物を見ても笑い方が弱くて」
登勢の声が震える。
「怖くなりました」
「それで」
「残りは捨てました」
「どこへ」
「庭の隅に。包みごと、水で潰して」
「記録は」
「しておりません」
登勢は、深く頭を下げた。
「しておりません。私が、危ないものを娘に飲ませたと知られるのが怖くて」
弥生は、その言葉を記録した。
――登勢、安神丸を菊乃へ一度飲ませ、翌朝のぼんやりした様子に恐怖し廃棄。ただし記録せず。理由、危ないものを娘に飲ませたことを知られるのが怖かったため。
紙にしても、胸が痛かった。
母は、菊乃を守った。
母は、菊乃から紙を奪った。
その両方が、同じ行の中にある。
清胤は、しばらく登勢を見ていた。
「なぜ今日、自分で来た」
登勢は顔を上げた。
目元が赤い。
「菊乃に言われました」
「何と」
「無事でも、紙はいる、と」
清胤の目が、ほんのわずかに動いた。
松島も、静かに登勢を見る。
登勢は続けた。
「あの子は、運がよかったと言いました。だから、運が悪かった人の紙を読む、と。なら、私も……私が隠した紙を出さなければならないと思いました」
弥生は、胸の奥が熱くなった。
菊乃の言葉が、母をここへ連れてきた。
少し前まで、何も見ない娘にされかけていた妹が。
清胤は短く言った。
「よい証言だ」
登勢は、驚いたように清胤を見た。
「よい、のでしょうか」
「お前がしたことがよいわけではない。だが、隠さず出したことはよい」
登勢は、涙をこぼした。
それは許しではない。
清胤も許してはいない。
だが、罪と証言を分けて見た言葉だった。
弥生は、その言葉も記録した。
安神丸の名が出たことで、近江屋の薬帳は再び開かれた。
薬帳の中に、その名は何度も出てきた。
瀬尾菊乃。
萩野千佐。
青蓮寺、尾形初音。
村瀬琴。
遠山佐和。
名なし、嫁入り前養生。
安神丸。
安神香。
安神湯。
気鎮め丸。
名は少しずつ違う。
だが、近江屋の符丁では同じ棚に置かれていた。
弥生は、松島とともに帳面を照合した。
近江屋の薬帳。
藤枝筋の養生文。
青蓮寺の布施控え。
瀬尾家の薬控え。
萩野千佐の薬包み。
お律の「静め済」。
並べるほどに、見えてくる。
安神丸は、ただの薬ではない。
嫁入り前の娘。
産後に不安を訴える嫁。
実家へ帰りたい女。
縁組に反対する娘。
家で声が強すぎるとされた者。
そういう女たちの周りに現れる。
清胤は薬帳を見下ろし、低く言った。
「近江屋は、女を静める薬を商いにしていた」
その言葉は、部屋の空気を切った。
女を静める薬。
優しい名をした檻。
弥生は書いた。
――安神丸等、近江屋薬帳に複数記録。嫁入り前、産後、里寺預け、心静め等の名目で使用。女を静める薬として商われていた疑い濃厚。
松島が一枚の紙を取り上げた。
「水野様。村瀬琴殿のところにも、安神丸が出ています」
「どんな記録だ」
「『琴、夜ごと文を書く。母君困惑。安神丸、近江屋より』とあります」
弥生は顔を上げた。
「夜ごと文を書く?」
「ええ」
松島は別の紙を見た。
「村瀬琴殿は、奉公先替えとあります。どうやら大奥へ上がる前に、別の奥向き奉公へ回された娘のようです」
「文を書いたから?」
「まだ分かりません。ただ、藤枝筋の紙には『文多く、思い詰める気あり。母君より静め希望』と」
文多く。
思い詰める気。
母君より静め希望。
弥生は、背筋が冷えるのを感じた。
また一人。
紙を書いた娘が、静められようとしている。
清胤は言った。
「次は村瀬琴だ」
その日の夕方、弥生が瀬尾家へ戻ると、菊乃は薬控えの前で待っていた。
母の登勢もいた。
登勢の顔は疲れていたが、どこか少しだけ軽くも見えた。
証言したからだろう。
許されたからではない。
隠していたものを外へ出したから、息がしやすくなったのだ。
菊乃がすぐに聞いた。
「母上、ちゃんと話せた?」
登勢は頷いた。
「話しました」
「怖かった?」
「とても」
「でも話した?」
「話しました」
菊乃は、紙に書いた。
――母上、安神丸のことを水野様へ証言した。怖かったが話した。
登勢はその字を見て、少し笑った。
「私のことも、そうやって書くのね」
「書くわよ。母上ももう紙の人です」
「紙の人……」
登勢は困ったように笑った。
弥生は、今日分かったことを話した。
安神丸が近江屋の薬帳にいくつも出ていたこと。
菊乃、千佐、初音、ほかの娘たちの記録に同じ系統の薬が出てくること。
近江屋が「女を静める薬」を商いにしていた疑いが強いこと。
そして、次に村瀬琴という名を追うこと。
菊乃は、村瀬琴の名に反応した。
「琴様は、何をした人?」
「夜ごと文を書いていたらしいわ」
「文を?」
「母君が困り、静めたいと願った。そこに安神丸が出てくる」
菊乃の顔が険しくなる。
「文を書いただけで?」
「まだ、分からない」
「でも、文が多いから静めるって、おかしい」
「ええ」
菊乃は、薬控えの隣に新しい紙を出した。
――村瀬琴様。夜ごと文を書く。母君困惑。安神丸。
――文を書く娘を静める薬。
――紙を書けば助かることもある。
――紙を書くから静められることもある。
――だから、紙は怖い。でも必要。
弥生は、その行を見て静かに頷いた。
「その通りね」
菊乃は少しだけ笑った。
「鋭い?」
「鋭い」
「でも、怖い」
「私も怖いわ」
登勢が、そっと言った。
「私も怖いです」
菊乃は母を見る。
「母上も?」
「ええ。紙を残すことも、紙を残されることも、怖い。でも、残さなかった時の方が、もっと怖いと分かりました」
菊乃は、その言葉も書いた。
――母上、紙を残すことも残されることも怖いが、残さなかった時の方がもっと怖いと記す。
「今、私が言ったことまで?」
登勢が驚く。
「いいこと言ったら書きます」
「悪いことを言っても書くのでしょう?」
「もちろん」
登勢は、もう諦めたように笑った。
その笑いには、少しだけ温かさが戻っていた。
夜、弥生は自室で覚え帳を開いた。
今日の記録を書く。
登勢、水野清胤へ安神丸の証言。
近江屋佐吉より白粉箱と同時に受け取り、藤枝筋の名で安心させられた。
菊乃が翌朝ぼんやりしたため廃棄。記録なし。
安神丸、千佐・初音・村瀬琴らにも関連。
近江屋、女を静める薬を商いにしていた疑い。
次は村瀬琴。
最後に、弥生はこう書いた。
――母は、薬の名を書いた。隠した罪は消えない。けれど、その名を書いたことで、同じ薬に沈められた娘たちの名が浮かび始めた。
筆を置く。
襖の向こうから、菊乃の声がした。
「姉様」
「何?」
「琴様、助かるかな」
「まだ分からない」
「そっか」
「でも、探すわ」
「うん。探そう」
弥生は算盤を引き寄せた。
ぱちり。
それは、登勢が安神丸の名を外へ出した音だった。
もう一つ。
ぱちり。
それは、薬で静められたかもしれない村瀬琴という名が、次の帳面の上へ浮かんだ音だった。