シンガポール政府は2025年12月、詐欺犯や詐欺シンジケートの構成員に対して「鞭打ち刑」を導入した。さらに2026年4月、同国の教育省は学校のいじめに対する最終的な懲戒措置として鞭打ちを標準化する方針を発表した。
シンガポールでは古くから鞭打ちが存在し、麻薬や性加害などの犯罪に科されてきた。今回、詐欺と学校のいじめという2つの領域に鞭打ちの適用範囲が広がったことは、人権侵害や体罰を問題視する国際的な潮流とは異なる動きとして注目を集めている。
この4月にはすでに投資詐欺の現金回収役に対して、鞭打ち刑の判決が言い渡されたという。なぜシンガポールはこの方向に動いたのか。現地で活動するシンガポール法の三好健洋弁護士に聞いた。
●詐欺犯に最大24回の鞭打ち
──禁固刑(日本では拘禁刑)だけでは抑止できないとの判断があったのでしょうか。
シンガポールでは、詐欺に対する鞭打ち刑の導入をめぐる法改正の議論において、2020年から2025年上半期までの詐欺被害が約19万件、被害総額は37億シンガポールドル(約4500億円)に達したことが報告されました。
詐欺の手口は、投資詐欺、Eコマース詐欺、フィッシング詐欺など多岐にわたり、X(旧Twitter)などSNSを利用した勧誘も増加しています。
既存の禁固刑だけでは十分な対応が難しいとの認識が広がり、一部の詐欺罪について鞭打ち刑が導入される流れになったのだと思います。
シンガポールは社会秩序を重んじる国で、「抑止」に大きな価値を置いています。社会問題化した犯罪に対して鞭打ち刑で対応するのは、比較的受け入れられやすい土壌があったといえるでしょう。
今回の制度が対象とするのは詐欺の実行犯だけではありません。詐欺シンジケートの構成員や勧誘役なども含まれます。
鞭打ちの回数は最低6回から最高24回です。過去には強姦罪に問われた日本人男性に20回の鞭打ち刑が科された事例もあり、それと同水準の重い刑罰といえます。
一方、詐欺収益の現金回収役などについては、12回以下の裁量的鞭打ち刑の対象となるため、事案によっては1回の鞭打ち刑にとどまることもあります。
●鞭打ち刑の拡大が支持されている
──導入に対する国内の反発はありませんか。
社会全体としては肯定的に受け止められています。シンガポールでは国民自身も「抑止」に重きを置いているので、「こうした犯罪には鞭打ちでいいんじゃないか」という意見が多数派です。私の周囲でも、否定的な意見はほとんど聞きませんでした。
私がシンガポールのロースクールで学んでいた際、指導教授が「死刑に賛成か反対か」という問いを立てたことがあります。クラス30人のうち反対だったのは日本人とドイツ人の2人だけでした。
残り28人の多くはシンガポール人でしたが、理由を聞くと「抑止効果があるから」と答えるんです。そうした考え方が社会全体に根付いているのでしょう。
●「シンガポールは詐欺に利用されやすい」
──リクルーターや末端の関与者まで対象になるのでしょうか。
シンガポールは、詐欺グループに利用されやすい側面もあります。
多言語を操る人材が多いことから、中国やインドなどを拠点とする詐欺シンジケートのリーダーがシンガポールを活動拠点にしやすいという背景もあるようです。
外国にいる主犯格がシンガポール人を利用するケースも多く、銀行口座を提供するなどの形で末端が関与することがあります。
ただし、この制度では末端の実行役よりも、勧誘や組織運営に関わるリクルーターのほうが鞭打ち刑の対象となりやすい設計になっています。
──実際に鞭打ち刑が科された事例はありますか。
はい、実際に判決が出た事例があります。
2026年4月には、高齢者を狙った投資詐欺の「現金回収役(出し子)」を務めた23歳の男に対し、初の鞭打ち刑(1回)を伴う有罪判決が下されています。
●学校いじめに「鞭打ち」を明文化
夜のマーライオン(gandhi / PIXTA)
──続いて、学校での「鞭打ち」について伺います。学校での体罰は広く認められているのでしょうか。
シンガポールの鞭打ち刑は、イギリス植民地時代にまでさかのぼりますが、学校での鞭打ちもまた、そこにルーツがあります。
1957年制定の「教育学校規則」第88条には、体罰は鞭打ちに限ると規定されています。
条文は次のような内容です。
(1)女子生徒に対して体罰を与えてはならない。
(2)男子生徒への体罰は、衣服の上から手のひらまたは臀部を軽い杖(鞭)で叩くことに限る。男子生徒に対しては、他のいかなる体罰も行ってはならない。
(3)学校に複数の教師がいる場合、体罰は校長のみが行うか、校長の明示的な権限の下で行わなければならない。
つまり、体罰全般を認めているのではなく、鞭打ちという特定の行為のみを認めているのが正確な理解です。
そして2026年4月、教育省(MOE)の発表は、法改正ではなく「運用の標準化」です。その過程で、いじめに対する鞭打ちの実施が明文化されました。
これまでいじめへの対応は学校ごとにばらつきがありました。今回はその標準化を目的とした運用方針の見直しです。
海外メディアでは「いじめっ子に鞭打ち」という点が大きく報じられましたが、シンガポール側としては制度の整備や運用の統一という位置づけになります。
●「小学4年生」から対象、2027年全校展開へ
──具体的にどういう制度なのでしょうか。
今回の標準化では、小学校高学年(日本の4〜6年生相当)からのいじめを対象に、他の懲戒措置がすべて効果を持たなかった場合の「最後の手段」として鞭打ちを適用できるとされました。
2027年までに全校で体制を整える方針とされており、順次導入が進む見込みです。
実施できるのは校長、または校長から権限を与えられた教員に限られます。鞭打ち後にはモニタリングやカウンセリングの実施も義務付けられています。
──保護者はどのように受け止めていますか。
私の周囲でも、学生時代に鞭打ちを含む体罰を受けた経験があるという大人は少なくありません。そのため、おおむね受け入れられている印象です。
ただし、いじめに対する鞭打ちの対象が男子生徒に限られている点については、疑問の声も少なくありません。
男子生徒限定の理由としては、刑事訴訟法で女性への鞭打ちが禁じられているため、学校でも同様の扱いをしているという説明があります。
しかし、学校での鞭打ちは刑事罰としての鞭打ちとはまったく性質が異なり、軽い鞭を用いるため傷が残るようなものではありません。
そのため、女子生徒によるいじめに苦しむ被害者や保護者からは「なぜ男子だけなのか」という反発が出ても不思議ではないと考えられます。
●「抑止」を重視する社会──日本が選ばなかった道
──日本からすれば、驚きの制度です。
シンガポールの学校では近年、「無視」や「攻撃的な投稿」などオンライン上のいじめが大きな問題になっています。
また、性的な動画や画像を送らせ、それを共有するといった陰湿な行為も指摘されています。
もちろん、それだけではありません。相手にケガを負わせるような暴力的ないじめも存在します。
私自身、現地の学校に子どもを通わせる日本人保護者から、外国人男子生徒による暴力被害について相談を受けることが多くあります。その中には、数ヶ月の治療を要する深刻な暴行もありました。
詐欺やいじめへの対応として鞭打ちが選択される背景には、シンガポール社会の価値観が根本にあると思います。
抑止によって犯罪や問題行動を減らし、社会秩序を維持する。その考え方が法制度だけでなく、市民の意識にも染み込んでいます。だからこそ、鞭打ちや死刑も「有効な手段」として受け入れられているのでしょう。
こうした発想は日本ではなじみが薄いかもしれません。しかし近年は、いじめに対する怒りから、加害者の個人情報や暴行動画を拡散する動きもみられます。
手段は異なっても、強い制裁によって問題を解決しようとする発想そのものは、決して無縁とは言い切れないのではないでしょうか。
【取材協力弁護士】
三好 健洋 (みよし・たけひろ)弁護士
日本人弁護士として唯一、シンガポールのすべての法律を扱うライセンスを持つ。2014年米国コーネル大学大学院卒業(経済・金融専攻)、外資系投資銀行で勤務。その後、シンガポールの法科大学院を卒業し、シンガポール法司法試験に合格。2019年シンガポール法弁護士登録。現在は、日系唯一のシンガポール法弁護士事務所 Lotus Law LLCにて代表弁護士。
事務所名 :Lotus Law LLC
事務所URL: https://lotusgroup-asia.com/