結局のところ、問題のほとんどは「あまりにも無理のある定義」にあった
【前提】
今回以降、redさんを高橋庸正さんと呼ぶ。理由は、すでにFacebookでは高橋庸正さんという本名を明かしているからそう書いてもアウティングにはならないし、私はnoteでもFacebookでも(漢字表記かローマ字表記かの違いはあるが)本名を名乗っているから対等に扱うことが妥当だからである。
さて、今回はその高橋庸正さんに対する反論というよりも疑問である。なので「こうあるべき」というよりは「この点はどうなの?」という表現が主であるので、最終的な評価は高橋庸正さんの回答を待って下さざるを得ない次第である。
以下、本題。
【疑問その1】及び雑感
素朴な疑問を述べる。沖縄県民が沖縄の基地問題についてどんなに誤解を招く発言をしても本土日本人はその発言の撤回や説明を求める権利は無いと高橋庸正さんは思っているのだろうか?なお、私がそれら以外に求めた「謝罪」に関しては「被害の度合い」に応じるだろうから、いくら「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と思ってその旨を発言しているとはいえ本土日本人である私が「謝罪せよ」と言っても私が受けた被害は(「沖縄の基地が本土に引き取られる事を遅らせたことから小林が被害を受けているのか」と問われると、具体的な被害は「平等な社会の実現が遅れる」だけだから)私個人の受ける金銭的な被害や身体的な被害ではない。その、金銭的な被害や身体的な被害ではない被害について「謝罪」まで求めるのは無理があるかもしれない(相手が極端に律儀な人ならそのような被害でも謝罪するかもしれないが、極端に律儀な人のやるべきことは一般的に求めるべきでは無かろう)。なので謝罪まで求めたのは私の要求水準が高すぎたように感じる。故に謝罪を求めた点は私が良くなかった点である。そして「撤回」や「説明」についても、たとえしなくても私が受ける具体的な被害は「平等な社会の実現が遅れる」だけであるという点は否めない。だからもし、「平等な社会の実現が遅れる」というだけの被害に対しては「撤回」も「説明」もする必要は無い、という価値観に立てば本土日本人である小林には撤回も説明もする必要は無くなってしまう。
で、そうした理由で「アンタの受けた被害程度では撤回も謝罪も求めるのはおかしいよ」と言われたのなら、(釈然としないけれども)「そういう意見もあるか」とも思える。しかし高橋庸正さんは、「沖縄情報」という差別的なサイト[注1]を私が挙げていたことを知っているはずである。「そうした差別的なサイトに付け込まれる様な発言を撤回あるいは謝罪することを要求することさえ、本土日本人は沖縄県民に対してするべきではない」という価値観の持ち主なのだろうか。ならば私はそういう価値観の持ち主ではないので、「沖縄県民であっても差別的なサイトに付け込まれるような発言は撤回もしくはせめて説明して欲しい」と宮城さんに要求したい。とは言え、これ以上宮城さんに質問や要求をすると、そもそも「沖縄情報」に付け込まれるというデメリットよりも大きなデメリットとして沖縄の基地を本土が引き取る事が遅れる懸念があるから、あえて要求しないことにする。で、それならばそれで矛を収めたことになるから今後この問題は(私自身は釈然としないけれど)口外すべきではないのかもしれない。ただ、それでも疑問なのは高橋庸正さんの価値観である。「高橋庸正さんは沖縄県民が沖縄の基地問題についてどんなに誤解を招く発言をしても本土日本人はその発言の撤回や説明を求める権利は無いと考えているのか否か」について教えて欲しいものである。仮に高橋庸正さんが「沖縄県民が沖縄の基地問題についてどんなに誤解を招く発言をしても本土日本人はその発言の撤回や説明を求める権利は無い」と考えていても私はその考えに納得できないが、今後マイノリティーが利敵行為になる可能性が非常に高い発言をウッカリしてしまった場合に、その発言の撤回あるいはせめて説明をマジョリティーは要求すべきではないと考える人との対立を避けるために、高橋庸正さんの価値観を教えて欲しいものである。(以上が【疑問その1】である)
そしてもし、マイノリティーがウッカリ利敵行為になりえる発言をしてしまった場合にその発言の撤回あるいはせめて説明をマジョリティーは要求すべきではないと考える人が世の中に少なくないなら、なるべく対立しないために今後は沖縄県民以外のマイノリティーに対しても、どんなに利敵行為になりそうな発言をしても撤回や説明を要求しないことにするつもりである。これは私がそうした価値観を心底受け入れられるからではなく、なるべく対立を避けたいという理由からである。
【疑問その2】
次はgrokについての高橋庸正さんの考えを知りたい。「AIの意見であってKobayashiさんの意見でないものに、わたしが答える必要はありません。AIは人間ではないからです。」という野村浩也さんの言い分は私も読んでいる。で、その上で高橋庸正さんが不問に付しているのは「AIの意見であってKobayashiさんの意見でないものに、わたしが答える必要はありません。AIは人間ではないからです。」という説明をしてさえいれば「私は●●と思う。でもあなたは××と思う。そしてAIの評価は●●の方がやや優勢だ。で、あなたはAIによる評価についてどう思いますか?」と尋ねられた場合に一切の回答をしなくても、その回答をしない理由として「AIの意見であってKobayashiさんの意見でないものに、わたしが答える必要はありません。AIは人間ではないからです。」と述べてさえいれば回答拒否は不問に付して良い、と高橋庸正さんは考えているのだろうか?それならそれで私とは違う価値観の人であるから、AIとの接し方について高橋庸正さんと話す事は何もない。単に「私とは違う価値観の人間がいる」という「だけ」の話である(以上が【疑問その2】である)。
【疑問その3】
ただ、それでも以下の点に関する疑問は残る。
>高橋庸正さんは「質問と回答を公開することは手続きの透明性ではあっても、AIを裁定者の位置に置く構造そのものを打ち消さない」および「何を、どう問うかによって出力は変わり、その問いを立てるのは小林氏である。」と書いているが、その問いをたてるのが小林であっても、問い(質問の文章)もスクショに撮って挙げており、質問の文章についても「この質問の文章は不当だ」と批判できる様にしておいたのに、野村浩也さんはgrokの回答にも私の質問の文章にも一切言及せずに私からの提案も全否定しています。
この点に関する高橋庸正さんの考えを知りたい。問い(質問の文章)もスクショに撮って挙げており、質問の文章についても「この質問の文章は不当だ」と批判できる様にしておいたのに、(野村浩也さんの回答拒否は拒否する理由が上記の通りであれば不問に付すのが高橋庸正さんの価値観だろうけれど)それはそれとして「どう問うかによって出力は変わり、その問いをたてるのは小林氏である」という指摘に何の意味があるのだろう。「どう問うかによって出力は変わり、その問いをたてるのは小林氏である」とは言え「質問と回答を公開することは手続きの透明性ではあっても、AIを裁定者の位置に置く構造そのものを打ち消さない」および「何を、どう問うかによって出力は変わり、その問いを立てるのは小林氏である。」という発言には納得できない。「何をどう問うか」については、私が質問の文章も挙げたから、例えば質問の文章が誘導尋問の様であれば「こんな質問の文章では駄目だ」と批判できる状態であった。しかしたとえそういう状態でも「私は●●と思う。でもあなたは××と思う。そしてAIの評価は●●の方がやや優勢だ。で、あなたはAIによる評価についてどう思いますか?」と尋ねたら、「AIを裁定者の位置に置く」と高橋庸正さんは見なすのだろうか?見なすのならそれはそれで高橋庸正さんの価値観だから「私と違う価値観の人がいる」という「だけ」の話だが、質問の文章が誘導尋問の様であれば「こんな質問の文章では駄目だ」と批判できる状態であっても「私は●●と思う。でもあなたは××と思う。そしてAIの評価は●●の方がやや優勢だ。で、あなたはAIによる評価についてどう思いますか?」と尋ねること自体が「AIを裁定者の位置に置く構造」だとでも高橋庸正さんは思っているのだろうか?まあ、思っているのかもしれないが、仮にそう思っているなら私とはあまりに価値観が違う人なので、「何故そうおもうのですか?」と尋ねたいものである(以上が【疑問その3】である)。
【疑問その4】および【疑問その5】
何をもって「立証責任の転嫁」と高橋庸正さんは思っているのだろうか?あと、やり込めるってそもそも何だと高橋庸正さんは思っているのだろうか?高橋庸正さんが考える「立証責任の転嫁」の定義および「やり込める」の定義を教えていただければ幸いである。
高橋庸正さんは以下の様に述べる。
>時系列を辿っても、起点は小林氏の引用改変である。「ダンマリ」を「放置」に置き換えたのが第一段。宮城秋乃氏が「書き換えをおこなったあなたの心理ぐらい読めますよ」と指摘したのが第二段。小林氏がそれに立証責任の転嫁で応じたのが第三段である(前々稿に詳述)。起点(書き換え)を外して「質問→回答なし→強い表現」と並べているのは、小林氏の側である。
しかし私が「ダンマリ」と「放置」の意味の違いを知らずに書き換えてしまった後に、「ダンマリ」発言をして「放置」以外のどんな意味に解釈できると思いますかと尋ねるのは、単に「ダンマリ」と「放置」は同じ意味だから、意味は変わってないのに「放置している状態以外にどんな解釈が出来るんですか?」と具体的な説明を求めただけである。それをもって「立証責任の転嫁」と呼べる、と高橋庸正さんは思っているのだろうか?「立証責任の転嫁」という用語の、高橋庸正さんなりの定義を知りたいものだ(以上が【疑問その4】である)。
さらに高橋庸正さんは以下の様に述べる。
>そして「機会さえあれば沖縄人をやり込めようとする本土人リベラル」は、攻撃を受けた沖縄人当事者の観察であって、曲解ではない。それが当たっているかどうかは、小林氏自身の言動が示す。反論(2)においても小林氏は、宮城秋乃氏に向けて「発言の撤回」と「基地撤去を困難にしたことへの謝罪」を要求し続けている。反論を重ねるたびに沖縄人当事者への詰問を続けるその行為が、命名を実証している。
この指摘のうち「反論(2)においても小林氏は、宮城秋乃氏に向けて「発言の撤回」と「基地撤去を困難にしたことへの謝罪」を要求し続けている。反論を重ねるたびに沖縄人当事者への詰問を続ける」という指摘は事実関係として正しい。しかし私の疑問は「機会さえあれば沖縄人をやり込めようとする」という表現がこの場合に妥当か、という点である。私は「沖縄県民であっても利敵行為になる可能性が高い発言には撤回や説明を求められる」と考えている。その考えを高橋庸正さんは受け入れられないならそれはそれで仕方ない。しかし、「沖縄県民であっても利敵行為になる可能性が高い発言には撤回や説明を求められる」と考えている人が(1度や2度の要求で撤回も説明を得られなかったから)繰り返し撤回や説明を求めた場合、それを「機会さえあれば沖縄人をやり込めようとする」と表現することが妥当か、という点である。そう表現するのが妥当だと高橋庸正さんは思っているのかも知れいないが、私としては「マイノリティーであっても利敵行為になる可能性が高い発言に対して」(1度や2度の要求で撤回も説明を得られなかったから)繰り返し撤回や説明を求めた場合を「機会さえあればやり込めようとする」と呼ぶのは納得できない。単に懸念があるから気になって撤回や説明を求め、(1度や2度の要求で撤回も説明を得られなかったから)繰り返し撤回や説明を求めた場合を「機会さえあればやり込めようとする」と高橋庸正さんが定義するなら、それはれ高橋庸正さんなりの定義としては一貫性があるのだろうが、そうすると機会さえあれば相手を打ち負かせようとして行う詰問の場合と同じく「機会さえあればやり込める」という表現を使うことになり、「機会さえあればやり込める」という表現が拡大解釈されてしまう懸念があるが、その懸念があっても高橋庸正さんは「機会さえあればやり込める」という表現を、単に懸念があるから気になって撤回や説明を求め、(1度や2度の要求で撤回も説明を得られなかったから)繰り返し撤回や説明を求めた場合にも使うという価値観の持ち主なのだろうか(以上が【疑問その5】である)。
【疑問その6および疑問その7】本人が何をしていても誰かの犠牲によって受益者になったら「押し付けている」と高橋庸正さんは考えているのだろうか?だとしたらその場合に「押し付けの程度は同じだろうか?」また、その定義を社会全体が受け入れるべきと思っているのだろうか?
>受益は、能動的な選択を必要としない。何もしなくても、その構造のなかに住んでいるだけで、負担を免れるという利益は発生し続ける。
という高橋庸正さんの指摘に異論は無い。だから私が出した黒人と白人の例でも、黒人に対する奴隷制度がある社会で奴隷制度の廃止に向けて奮闘している白人がいても、その白人は黒人に対する奴隷制度によって負担を免れる利益を受けているのだ。ただ、私の疑問は、そうした白人本人の意志とは無関係に負担を免れるという利益を「押し付けている」と呼ぶのが適切だろうか、という疑問である。受益は、能動的な選択を必要としない。何もしなくても、その構造のなかに住んでいるだけで、負担を免れるという利益は発生し続ける、という指摘に異論は無い。しかし、そうした本人の意図とは無関係な利益受けているという状態を「押し付けている」と呼ぶのなら、黒人差別を温存しようとしている白人も黒人差別をなくそうとしている白人も、黒人に対する奴隷制という構造によって得られる、意図せざる利益は同じだろうから、「同じ利益さえ得ていれば同じように押し付けている」ということになる。「押し付けているとは誰かの負担によって結果的に負担を免れるという利益を得ていることだ」と定義すれば、その定義を受け入れられる人同士では会話は成立するだろう。しかしそうすると、押し付けの程度は「差別を温存しようとしている白人も黒人差別をなくそうとしている白人も、同じ程度に黒人差別を押し付けている」と言うことになるのではないか?「押し付けている」とは結果的に負担を免れるという利益を得ていることだ、という定義を受け入れられる人同士では「差別を温存しようとしている白人も黒人差別をなくそうとしている白人も、同じ程度に黒人差別を押し付けている」つまり「押し付けの度合いに違いは無い」とでも思っているのだろうか?それとも「押し付けてはいるけど押し付けの度合いは違う」と思っているのだろうか?(以上が【疑問その6】である)
また、そもそもそうした定義は一般的だろうか?たとえば上司が自分でやろうとした仕事を部下が気を利かせてやった場合も上司は部下に仕事を押し付けていることになる。その会社の社風が「部下が自主的に上司を気遣って上司の仕事を先回りしてやる」という社風だった場合、なるべく自分で仕事をしようとしている上司でもその社風の恩恵は受けやすいだろう。ただ、それを「なるべく自分で仕事をしようとしている上司でも部下が気を利かせて仕事を負担してくれるから、部下に仕事を押し付けているのだ」と表現することは、「押し付けている」という日本語の表現として日本語の言説空間の中で受け入れられる様には私は思えない。高橋庸正さんはそうした表現が日本語の言説空間の中で受け入れられると思っているのだろうか?(以上が【疑問その7】である)。
【疑問その8】高橋庸正さんが言う「個人の責任」の「個人」ってどんな人?
高橋庸正さんは以下の様に述べる。
>そして「単に参加者の数が足りないから」という言い方は、二重に責任を手放している。第一に、受益は運動の参加者数とは関係なく、本土に住む一人ひとりに現に発生しているのに、それを「数の不足」の問題へ縮約している。第二に、より重要なことに、その「数が足りない」こと自体が、本土人の引き受けるべき責任である。基地を引き取る側を多数派にできていない ── 本土の世論をそこへ動かせていない ── というのは、外から与えられた自然条件ではなく、本土人が果たせていない責任である。引き取り運動とは、まさにその多数派をつくる仕事にほかならない。「人数が足りないから現状は仕方ない、個人の責任ではない」と言うことは、その多数派をつくる責任を、自分の外にある所与の事実として放棄することである。基地を引き取らない多数がいて、その負担免除を本土全体が享受している ── その能動的な構造を「自然な不足」に見せかけ、自分をその外に置くこと。それが、前々稿で言う「自分が加害している側にいることの否認」である。
しかし「人数が足りない」のは「個人の責任である」とすると、その場合「努力している個人と努力していない個人の違いを論じず、一律に『個人』と呼んでしまっている」という問題がある。ちなみに私は「あんまり努力をしていない」という自覚がある。だから(確かに私は「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という発言をしていないわけではないけれど)その発言を私より熱心かつ頻繁に発言している人に比べれば私の努力は足りていない。で、私の努力が足りていないから、私よりも熱心かつ頻繁に発言している人が私に「オマエは努力が足りない」と言ったら私はその発言を否定できない。それはそうなのだが、疑問は以下の点だ。「人数が足りないのは個人の責任だ」という発言の中の「個人」とは、私よりも熱心に頻繁に発言している人も含む「個人」だろうか?それともそうした人は含まない「個人」だろうか?本土日本人が概して「沖縄の基地を本土が引き取るべき」とは考えておらず、それゆえそのための努力をしていない本土日本人がほとんどだろうと私は思う。そして「沖縄の基地を本土が引き取るべき」とは考えている私だが、私はそんなに熱心かつ頻繁にその考えを発言してはいない。だから私は努力不足と言われれば否定できない。でも私よりも熱心に頻繁に発言している人にも「個人の責任だ」と言えるのか?だとしたら沖縄の基地を本土引き取らせるためにどんなに努力をしている人でも、沖縄の基地を本土が引き取るまでは「個人の責任」とやらを果たしていないことになり、努力をしていない人と全く同じ評価を得てしまう。他方、もし既に多くの先達のおかげで沖縄の基地を本土が引き取るべきという風潮が出来た時代が来れば、その時代の本土では、あとわずかな人数がわずかな努力で沖縄の基地を本土が引き取るという目標を達成できるだろう、そうしたらあとわずかの本土日本人が「個人の責任」とやらを果たしたことで本土日本人全員が「個人の責任」とやらを果たしたことになる。努力した度合いに応じてではなく、その前に多くの先達がいた場合においては容易に果たすことが出来、沖縄の基地を本土が引き取るべきと考える人が少数派でしかない状態ではいくら個人が頑張っても果たしたことにならない「個人の責任」とやらは、一般的な日本語の「個人の責任」という意味とかなり食い違いが無いだろうか?10人を必要とする仕事に1人で取り組んで、いくら頑張っても仕事を完成できなかった場合は「個人の責任」とやらは果たされなかったことになり、逆に10人を必要とする仕事に他部署から多数の助っ人が手伝いに来て容易に果たした場合、その全員が「個人の責任」とやらを果たしたことになる。そんな「個人の責任」とやらは個人一人の努力の質や量に比例しない概念であり、一般的な日本語の「個人の責任」という意味とかなり食い違いがあると私は思うが、高橋庸正さんはそう思わないのだろうか?(以上が【疑問その8】である)
再度【疑問その6および疑問その7】
私は前回の投稿で以下の様に述べた。
>野村浩也氏に対して私は「考えの違いがあっても、沖縄の基地を本土が引き取るべきという点で一致しているから共闘しませんか」と私は提案しました。しかし「基地引き取り運動の参加者も基地を押し付けているとは言えない」[注2]述べた私に対して、野村浩也氏は(基地引き取り運動は本土日本人は全員基地を押し付けているという前提が必須だ、という価値観によって)私の考えを「基地引き取り運動は100%デタラメ」と拡大解釈しました。しかし「基地引き取り運動とは沖縄の基地を本土に引き取らせるべき運動」なのですから「基地引き取り運動に参加している人も基地を沖縄に押し付けている」と思い込もうが思い込むまいが、沖縄の基地を本土に引き取らせようとしている限り成り立つ運動です。私(小林)が「基地引き取り運動は100%デタラメ」と考えている、という拡大解釈は、基地引き取り運動は本土日本人は全員基地を押し付けているという前提が必須だという前提に基づくものです。その前提は野村浩也氏にとっては必要なのでしょうが、その前提を受け入れようが受け入れまいが「沖縄の基地を本土が引き取るべき」とするか否かさえ共通していれば共闘できるのに、「基地引き取り運動は本土日本人は全員基地を押し付けているという前提が必須だ」という価値観を他人にも押し付けたせいで私との共闘は拒否されました。それゆえ残念ながら野村氏との建設的な対話は絶望的です。
これに対して高橋庸正さんは以下の定義を持ち出した。
>基地引き取り運動とは、沖縄差別をやめようとする運動、つまり沖縄差別から脱していこうとする運動であり、「自分が差別をしている」というのは運動の出発点だからです。自分も沖縄を差別していたと気がついた人が、それをやめようと行動を始める時に基地引き取り運動は始まります。
(福本圭介氏 Facebook 公開投稿コメント欄 2026年6月8日)
>基地引き取り運動とは、そもそも「日本人は沖縄人に基地を押しつけている」、よって、「日本人は沖縄人を差別している」という事実から導かれた論理的必然だからです。
(野村浩也氏 Facebook 公開投稿コメント欄 2026年6月8日)
しかしこの定義は私に【疑問その6および疑問その7】を思い出させる。「自分が差別をしている」というのは運動の出発点」とかそもそも「日本人は沖縄人に基地を押しつけている」と言った場合の「差別している」とか「押しつけている」というのは、「沖縄の基地を本土が引き取るべき」とは思っていなかった本土日本人に当てはまることだろう。そして私もかつてはそうだったし、今でも「沖縄の基地を本土が引き取るべき」とは思っていても、その考えをあまり熱心かつ頻繁に発言していない。だから私に「オマエの努力は足りない」という批判が投げかけられたら足りないと認めざるを得ない。しかしいくら長年熱心かつ頻繁に「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張していても、「沖縄の基地をまだ本土が引き取っていない以上、本土日本人の全員が沖縄を差別しており沖縄に基地を押し付けている」とするなら、その場合の「差別している」とか「押し付けている」という表現は、日本語の言説空間の「差別している」とか「押しつけている」という表現として受け入れられるだろうか?また、受け入れられる人の間では「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と熱心かつ頻繁に主張している人は「沖縄を差別している程度や押し付けている程度が軽い」と考えているのだろうか?それとも「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という発言をあまりしていない人のみならず思ってさえいない人と同じ程度に「沖縄を差別しているし押し付けている」と考えているのだろうか?
どう考えても「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と熱心かつ頻繁に主張している人は、結果的に利益を得ていても「沖縄を差別しているし押し付けている」とは言えないし、一個人として限界まで熱心かつ頻繁に「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張している人は本土に住むことによって結果的に沖縄の負担による利益を得ていても「個人の責任を果たしていない」とは言えない。そんなどう考えても言えない定義を受け入れないと「基地引き取り運動とは言えない」というのが基地引き取り運動の現状なら、「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と思っており時々はそう発言している私であっても、「注2」のように、単に「『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動すること」を基地引き取り運動と見なして、その運動の中で「いくら『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動しても、『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えて行動している人もふくめて沖縄に基地を押し付けている」と考えたい人は考えれば良いだけの事ですと呼びかけ、その呼びかけに応じない人とはかかわらないようにしながら「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という意見を今後も述べ続けざるを得ない。何故なら、先ほど書いた通り、どう考えても「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と熱心かつ頻繁に主張している人は、結果的に利益を得ていても「沖縄を差別しているし押し付けている」とは言えないし、一個人として限界まで熱心かつ頻繁に「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と主張している人は本土に住むことによって結果的に沖縄の負担による利益を得ていても「個人の責任を果たしていない」とは言えないからである。
また、
>だが小林氏自身が、野村浩也氏の「参加している人も押しつけている」という認識を「100%デタラメ」と切り捨てている。その認識こそが運動の出発点である。
と高橋庸正さんは述べるが、その出発点の時点では、「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えている本土日本人が今以上にいなくてほぼゼロ、あるいはごく少数だったんじゃないだろうか?だとしたら「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えていない本土日本人がほとんどだっただろうから、本土日本人のほとんどが「差別」や「押し付けている」と言われても仕方なかったと私も思う。というのも「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えている本土日本人がほぼゼロだった時点では、本土日本人のほとんどが沖縄を差別しており沖縄に基地を押し付けていたからだ。しかし、基地引き取り運動人参加している人々は、参加する前はともかく参加してからは「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という価値観を持って、その価値観に基づいた言動を繰り返しているはずだ。にもかかわらず「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という価値観を持って、その価値観に基づいた言動を繰り返しているはずの人々まで「差別」していて「押し付けている」と言ってしまうことは、【疑問その6】や【疑問その7】を免れない定義だ。その定義に固執する人がいるならそれはそれで自由だが、しかし「基地引き取り運動」とはそうした定義に固執する人でないと参加できない運動だとしたら、私の様に「そんな定義は受け入れられないが、沖縄の基地を本土が引き取るべき」という人間は基地引き取り運動に参加してはいけないことになってしまう。それなら参加しないで「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という主張をするには「沖縄の基地を本土が引き取るべきだと私は思うが、私は基地引き取り運動に参加することは禁止されています」という状態が続くことになる。私個人が禁止されている事は単に私が我慢すれば良いことだが、「そんな定義は受け入れられないが、沖縄の基地を本土が引き取るべき」という人間は基地引き取り運動に参加してはいけないとは考えずに単に「『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動すること」を基地引き取り運動と見なして、その運動の中で「いくら『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動しても、『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えて行動している人もふくめて沖縄に基地を押し付けている」と考えたい人は考えれば良いだけの事ではないのか?何故なら本土日本人の多数派が沖縄を差別している結果として沖縄に基地が押し付けられている状態が不当だから「沖縄の基地を本土が引き取るべき」という主張自体は妥当、と言えるのだから。
最後に前提が長い疑問を述べる【疑問その9】だ。
高橋庸正さんは以下の様に述べる。
>6点に共通するのは、〈構造と効果〉から〈個人の意図・努力〉への移し替えである。意図的でない(1)、そう感じたから(2)、AIに第三者性を求めた(3)、原文も危険だ(4)、意図を尋ねていた(5)、人数の問題だ(6) ── いずれも、論点を小林氏個人の内面や一般論へ移し、宮城秋乃氏の言葉が置き換えられ、被害者責任論の道具にされ、沈黙を強いられた、という構造の分析には正面から答えていない。
>沖縄差別の核心は、沖縄側の構造批判を、個人の意図や努力や心情の問題へ変換してしまうことにある。事実関係を部分的に認め、言い方を謝っても、この変換そのものをやめなければ、謝罪は宛先に届かない。小林氏が宮城秋乃氏に向けるべきは、「撤回あるいは説明をしていただかないと」という要求ではなく、自分の置き換えが彼女の言葉に何をしたか、という一点への応答である。
しかし、これは「答える必要が無い」のが私の価値観から導かれる結論だから答えていないのである。というのも、「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」というのが私の考えだからだ。なので私が「ダンマリ」と「放置」の意味の違いを知らずにウッカリ書き換えてしまった点は私の不見識がもたらした問題だから私は謝罪した。また、いくら撤回又は説明を要求するためとはいえ次第に激昂して失礼な言葉を使ってしまった点も私の悪かった点だから謝罪した。それらの点について「謝罪が足りない」と言われればその批判は妥当かもしれない。というか、「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」という価値観ではない人にとっては、私は上記の2点以外についても謝罪すべきだ、ということになるだろう。だが、私の価値観では謝罪すべき点は上記の2点だ。
「自分の置き換えが彼女の言葉に何をしたか、という一点への応答」とのことだが、結果的に黙らせたのなら「結果的に黙らせた」のだろう。だが、私の価値観では「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」という理由は、そもそも撤回又は説明をしてもらわないと「沖縄情報」[注1]の様な差別サイトで宮城秋乃さんのダンマリ発言が利用されそうだから、その危険性を避けたかった、という理由である。「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」という価値観ではない人にとっては「たとえどんな理由があってもマジョリティーはマイノリティーに撤回も説明も要求してはならない」という考えになるのだろうが、私はそういう価値観ではないので「価値観が違いますね」としか言いようがない。多分私は今後もこの価値観のせいで糾弾され続けるだろうから、対立を避けるためにはこの価値観をあまり言わない方が良いだろう。だから「対立を避けるためにはこの価値観を言わない様にする」という選択を取るべきであろう。しかし内心の価値観は今後も変わるまい。
さて、以上が前提だ。最後の疑問は「マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまったら撤回または説明を要求して良い」という価値観ではない人々は、マイノリティーでもウッカリ利敵行為になるような発言をしてしまった場合にどう対処するのだろう、という点だ。これが【疑問その9】である。もし仮に「今回のダンマリ発言が「沖縄情報」[注1]などの差別的なサイトに知られても危険性は無い」と高橋庸正さんが考えているなら、別に今回のダンマリ発言を事例にしなくても良い。私自身は「今回のダンマリ発言は「沖縄情報」[注1]などの差別的なサイトに知られたら危険だ」と思っているが、その想いを共有してくれなくて「小林の懸念は杞憂に過ぎない」と思うなら思ってくれて良い。ただ「この発言はマイノリティーによる発現ではあるが利敵行為になる危険性がある」と思う発言があった場合、高橋庸正さんが考える対処法は何なのか、教えていただければ幸いである。
注1:
https://www.facebook.com/groups/OkinawaInfo
注2:
https://www.facebook.com/share/p/1Cy1eraq4F/
この点について補足します。「基地引き取り運動に参加している人も基地を沖縄に押し付けている」という考え方が100%デタラメなのであって、「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えておこなっている運動が100%デタラメと言うつもりは私には全くありません。野村浩也さんは「沖縄の基地を本土に引き取らせようとどれだけ努力しる人でも(基地が沖縄に集中している限り)沖縄に基地を押し付けている」と主張しますが、その主張が100%デタラメなのであって「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えたりその考えを実現するために行動することはデタラメではありません。野村浩也さんの様に「いくら『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動しても、『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えて行動している人もふくめて沖縄に基地を押し付けている、と考えないで行う運動は基地引き取り運動ではない」と定義すれば「沖縄の基地を本土が引き取るべき」と考えたりその考えを実現するために行動することだけでは基地引き取り運動と言えない、似て異なるものになるでしょう。しかしそもそも目標は沖縄の基地集中を解消することであるはずです。ならば「いくら『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動しても、『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えて行動している人もふくめて沖縄に基地を押し付けている、と考えないで行う運動は基地引き取り運動ではない」という定義に固執せず、単に「『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動すること」を基地引き取り運動と見なして、その運動の中で「いくら『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えてそのために行動しても、『沖縄の基地を本土が引き取るべき』と考えて行動している人もふくめて沖縄に基地を押し付けている」と考えたい人は考えれば良いだけの事です。


今回は九つの疑問という形で、「立証責任の転嫁とは何か」「やり込めるとは何か」「押し付けとは何か」と、言葉の定義を示すよう繰り返し求めてきています。 定義は示しました。けれども、定義をいくら精密にしても、変わらないものがあります。宮城秋乃さんの言葉が被害者責任論へ置き換えられ、撤…
高橋さん、お返事ありがとうございます。