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【銀のしずく記念館】 登別にある「知里幸恵 銀のしずく記念館」に行ってきました。 ボランティアで記念館の案内をされているという上品なご婦人に、とても丁寧に対応していただきました。 ここには生前の幸恵さんの手紙や葉書、家族との写真や小学校時代の賞状や成績表、また弟の知里真志保氏の記録や幸恵さんの婚約者(と言われていた方)の写真など、多くの貴重な史料が納められています。 展示品の数々で最初に目を引かれたのが、知里幸恵さんの手紙の文字の美しさでした。 さて知里幸恵は、アイヌ語の口承文芸「カムイユカㇻ」13篇をローマ字で表記し、史上初めて日本語に翻訳してまとめました。これが『アイヌ神謡集』です。 幸恵は1903(明治36)年に、幌別郡登別村(現登別市)に生まれます。 父親の知里高吉は子供の頃から登別温泉で働き、この温泉の開祖である滝本金蔵に可愛がられ読み書き算盤を学びんだそうです。 その後農業のほか牧場経営も軌道に乗せ、妻ナミと結婚して幸恵が生まれますが、翌年日露戦争に出征。 旅順攻防戦のなかで命を落とさず金鵄勲章もらう程の活躍をしました。 1909(明治42)年、幸恵は知里家の事情で小学校入学前に近文コタン(現旭川市)の伯母・金成マツのもとに引き取られ、祖母モナㇱノウㇰと3人で暮らすことになります。 金成マツは、聖公会(英国国教会)の宣教師バチェラーが開校した函館のアイヌスクール「愛隣学校」に学んだ才媛でした。 バチェラーはアイヌ語研究者でもあったため、成績優秀なアイヌの子女を全道から集め、レベルの高い教育を行ったようです。 また他の「アイヌ学校」と異なり、日本語だけでなくアイヌ語の使用も奨励しました。 マツは18歳の時バチェラーから洗礼を受け、キリスト教伝道師として1909(明治42)年に旭川近文の聖公会伝道所に赴任。幸恵は祖母モナㇱノウㇰとともに近文に移住します。 祖母モナㇱノウㇰは、「最後のユカㇻクル」と評された人で、日本語は話せなかったので幸恵は日本語とアイヌ語のバイリンガルとして育ちます。 家庭や日曜学校でアイヌ語を話し、ユカㇻを謡い、また幼いころから聖書に親しんだおかげで、機微に触れた日本語表現を学んでいきました。 こうした環境が後の『アイヌ神謡集』の偉大な成果へと結びついていくのです。 #銀のしずく記念館 #知里幸恵 #金成マツ #モナㇱノウㇰ #登別 #アイヌ神謡集 #バチェラー #金田一京助 #聖公会 #アイヌのエカシナ #日本遺産
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