経験による示しにおける類比的統覚
今回はぁ、経験によって、あるいは、命題によって何が付与され、示しとしての類比的統覚を得られるか、という命題について考えます。
一、経験によって何が付与されるか
例えば、公衆トイレに向かったとしよう。ここで、匂いというものが現前化してくる。臭いという匂いが現前化したとき、誰かが大便をもよおしたあとではないかと、思考に付与されうる。これが、経験によって推論するという現象である。推論は思考や感情、感想などで構成することが懸念されうる。臭いという現象が現前化したとき、類比的統覚で、大便をした方がいることをショックに思う人もいるかと思う。目の前の現象から、大便をした誰かがいたということを聞いてもいないのに、示された感になる。自分は人生をコントロールするのではなく、人生から課題を出されたという風に解釈してしまう。これが、人生なんだよ、と厳しい叱責を浴びたような現象が起きる。このとき、どうすればよいか。誰かが使用した便器をティッシュペーパーで丁寧に拭いてから使用することが考えられる。一旦落ち着いて対処せよ、というのはあながち間違いではない。誰かが自分に対してわざと糞をしたわけではないが、人生からこの糞の臭いを思い知らされた、そんな感覚がある。
二、命題によって何が示されるか
説教者は、彼を無礼であると二時間叱責した、という命題を考えてみよう。この命題は、語りえていることはたしかである。そして、説教をよくする者が説教者ではないかという疑念を仄めかしている。無礼とは、礼儀がなってないことを示している。二時間叱責した、というのは、二時間説教した、ということを示唆している。したがって、この命題が示していることは、類似的内容であることが考えられる。命題によって付与される示しを受けた類似的統覚は、この類似的内容を自身のうちに内在する。類似的統覚がはたらかない他者でも、推論として類似概念を見出すことも往々にしてありうるだろう。説教者というのは、大人ではないかとか、そういう推論は一般的他者にも可能である。
三、類似的統覚と類比的統覚
類似概念は類似的統覚で見出されうる。類比的統覚は、何かと何かを類比してたしかな情報を統覚することである。フッサールは、類似的統覚は書かなかったが、類比的統覚は著書に書いていた。類似的統覚という語は、あまり広まっていないが、類比的統覚に劣らずとも優らずの概念なのではないだろうか。


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