斉鯤の「航海八詠」は、福州を出航してから台湾島に到達する前、台湾海峡内で
「猶是中華界、蒼茫四望空。」
(なおこれ中華の界なり。蒼茫として四望むなし。)
この「界」は境界線でなく、学界、財界、球界などと同じく領域内を言います。台湾島の最北端に到達する前は空漠たる海面ながら、まだ我が中華文明の領域内だ、と感慨を催しているわけです。
竹島研究の下條正男氏は、これを鶏籠そのものだとして、「猶これ中華の界のごとし」と書き下しています※。「まるで清国の境界線のようだ」という比喩になります。
鶏籠は清国の公式の境界線ですから、まるで境界線のようであれば国境線を否定しているわけです。さらに下條氏は「渡海吟」でも同じ地理認識が示されると述べるので、「渡海吟」の清国国境線をも併せて否定しているわけです。
中華界が国境内から国境線への航行を詠じたという知見を最初に公表したのは拙著『和訓浅解・尖閣釣魚列島漢文史料』(平成24年3月20日)であり、先着順は私石井となります。
『拓殖大学国際学部WEBマガジン・世界は今』平成23年4月28日講演記録。
国際開発事業研究会報告 2011年4月28日開催 尖閣列島諸島問題について 下條 正男(国際学部 教授)
福州から琉球国に向かった冊琉球使は、「針路図」の中に描かれた魚釣島や赤尾嶼をどのように認識していたのだろうか。それは嘉慶十三年(1808年)、冊琉球使となり、『続琉球国志略』を編纂した齋鯤の文集で確認することができる。齋鯤はその『東瀛百詠』(「航海八咏」)で、福州を出帆して琉球国の那覇港に入港するまでを詠い、その中の「雞籠山」では、雞籠山を「猶是中華界」(猶これ中華の界のごとし)としているからだ。齋鯤は清朝の疆界を、台湾府の雞籠山としていたのである。
これと同じ地理認識は、『東瀛百詠』所収の「渡海吟用西墉題乗風破浪圖韻」でも示され、「鶏籠山、中華の界を過ぎ」と詠っている。齋鯤は、雞籠山を清朝の疆界と認識していたのである。
これと同じ地理認識は、『東瀛百詠』所収の「渡海吟用西墉題乗風破浪圖韻」でも示され、「鶏籠山、中華の界を過ぎ」と詠っている。齋鯤は、雞籠山を清朝の疆界と認識していたのである。
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