カップ麺事件から数日。 ソウタの献身的な軌道修正により、ハルトの食事は再び完璧な栄養バランスと彩りを取り戻していた。
窓の外は、薄紫色の夕闇が街を包み込み始めている。 ハルトはソファに深く腰掛け、スマートフォンの画面をソウタに見せつけた。
「ねえ、ソウタ。ここ、行ってみたい」
画面に映っていたのは、淡いネオンと重厚なベルベットの椅子が印象的な、隠れ家風のシーシャバー。
「……シーシャ。水冷式とはいえ、煙を肺に入れる行為に変わりはない。ニコチン、タール、そして炭から出る一酸化炭素。君の肺胞を汚染し、嗅覚を麻痺させ、睡眠の質を著しく低下させる。却下だ」
「またそれだ。お前の口からは、数字とリスクしか出てこないんだね」
ハルトはわざとらしく溜息をつき、立ち上がってソウタの背後に回った。シャツ越しに伝わる、彼の強固で揺るぎない体温。
「でも、あそこは『香り』を楽しむ場所なんだよ。ダブルアップル、ジャスミン、アールグレイ……。お前がいつも淹れてくれる珈琲よりも、ずっと濃密で、逃げられない香りに包まれるんだって。素敵だと思わない?」
ハルトの指先が、ソウタの喉元をゆっくりとなぞる。
「それとも何? お前が管理してない煙を、おれが吸い込むのが怖いの?」
「……挑発は無意味だ。僕には君を守る責務がある。不特定多数の人間が吐き出した煙が充満する空間に、君を連れて行くなんて、下俗すぎて吐き気がする」
ソウタの声は冷静だったが、言葉の端々に露骨な嫌悪が滲んでいる。ハルトはすかさず、ソウタの耳元で毒を流し込むように優しく囁いた。
「わかったよ。じゃあ、一人で行ってくる。お前がいなくても、おれを歓迎してくれる場所くらいあるし。……もしかしたら、隣に座った誰かが、美味しいフレーバーを教えてくれるかも」
「ハルト!!」
ソウタが激しい音を立てて振り返る。その瞳には、抑えきれない執着と狂気が、昏い炎となって揺らめいていた。
******
一時間後。
場違いなほど高級なスーツを纏ったソウタは、薄暗いシーシャバーの片隅で、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。 隣では、ハルトが物珍しそうに、ガラス製の水パイプを見つめている。
「……僕が厳選したフレーバーだ。ニコチンフリーで、最も不純物が少ないオーガニックなものをミックスした。吸い込みすぎるな。少しでも気分が悪くなったら即座に帰宅する。いいな」
「はいはい、わかってるって」
運ばれてきたシーシャの吸い口を、ハルトが唇に含んだ。ボコボコ……と水が鳴る独特の音が、静寂に響く。
ゆっくりとハルトが息を吐き出すと、白く濃密な煙が二人の間に立ち上り、ソウタの視界を遮った。 甘ったるい、完熟した果実の香りがソウタの鼻腔を突く。
「……ふぅ。すごい、真っ白だ」
煙の向こう側で、ハルトが妖艶に微笑む。 その唇は、湿り気を帯びて微かに赤みを増していた。
ソウタは、ハルトが吐き出した煙を吸い込まないように浅い呼吸を繰り返していたが、ハルトはその様子を嘲うように、煙をソウタの顔に向けてふっと吹きかけた。
「……っ、ハルト……やめろと言っただろう」
「いいじゃん、お前も吸いなよ。おれの味、するでしょ?」
ハルトは吸い口を自分の唇から離し、それをソウタの唇に押し当てた。
ソウタにとって、それは「毒」の提供であり、「堕落」への誘いだ。 しかし、ハルトの指先に触れられ、熱を帯びた瞳で見つめられると、彼の強固な理性がみしりと音を立てて軋む。
ソウタは、諦めたように目を閉じ、ハルトが差し出した毒を深く吸い込んだ。
肺の中に広がる、甘く、重く、からめ取られるような逃げ場のない香り。
「ねえ、ソウタ。ここ、行ってみたい」
画面に映っていたのは、淡いネオンと重厚なベルベットの椅子が印象的な、隠れ家風のシーシャバー。
ソウタの手が、サラダを盛り付けていたトングの動きを止め、画面を冷徹に一瞥した。
「……シーシャ。水冷式とはいえ、煙を肺に入れる行為に変わりはない。ニコチン、タール、そして炭から出る一酸化炭素。君の肺胞を汚染し、嗅覚を麻痺させ、睡眠の質を著しく低下させる。却下だ」
「またそれだ。お前の口からは、数字とリスクしか出てこないんだね」
ハルトはわざとらしく溜息をつき、立ち上がってソウタの背後に回った。シャツ越しに伝わる、彼の強固で揺るぎない体温。
「でも、あそこは『香り』を楽しむ場所なんだよ。ダブルアップル、ジャスミン、アールグレイ……。お前がいつも淹れてくれる珈琲よりも、ずっと濃密で、逃げられない香りに包まれるんだって。素敵だと思わない?」
ハルトの指先が、ソウタの喉元をゆっくりとなぞる。
「それとも何? お前が管理してない煙を、おれが吸い込むのが怖いの?」
「……挑発は無意味だ。僕には君を守る責務がある。不特定多数の人間が吐き出した煙が充満する空間に、君を連れて行くなんて、下俗すぎて吐き気がする」
ソウタの声は冷静だったが、言葉の端々に露骨な嫌悪が滲んでいる。ハルトはすかさず、ソウタの耳元で毒を流し込むように優しく囁いた。
「わかったよ。じゃあ、一人で行ってくる。お前がいなくても、おれを歓迎してくれる場所くらいあるし。……もしかしたら、隣に座った誰かが、美味しいフレーバーを教えてくれるかも」
「ハルト!!」
ソウタが激しい音を立てて振り返る。その瞳には、抑えきれない執着と狂気が、昏い炎となって揺らめいていた。
******
一時間後。
場違いなほど高級なスーツを纏ったソウタは、薄暗いシーシャバーの片隅で、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。 隣では、ハルトが物珍しそうに、ガラス製の水パイプを見つめている。
「……僕が厳選したフレーバーだ。ニコチンフリーで、最も不純物が少ないオーガニックなものをミックスした。吸い込みすぎるな。少しでも気分が悪くなったら即座に帰宅する。いいな」
「はいはい、わかってるって」
運ばれてきたシーシャの吸い口を、ハルトが唇に含んだ。ボコボコ……と水が鳴る独特の音が、静寂に響く。
ゆっくりとハルトが息を吐き出すと、白く濃密な煙が二人の間に立ち上り、ソウタの視界を遮った。 甘ったるい、完熟した果実の香りがソウタの鼻腔を突く。
「……ふぅ。すごい、真っ白だ」
煙の向こう側で、ハルトが妖艶に微笑む。 その唇は、湿り気を帯びて微かに赤みを増していた。
ソウタは、ハルトが吐き出した煙を吸い込まないように浅い呼吸を繰り返していたが、ハルトはその様子を嘲うように、煙をソウタの顔に向けてふっと吹きかけた。
「……っ、ハルト……やめろと言っただろう」
「いいじゃん、お前も吸いなよ。おれの味、するでしょ?」
ハルトは吸い口を自分の唇から離し、それをソウタの唇に押し当てた。
ソウタにとって、それは「毒」の提供であり、「堕落」への誘いだ。 しかし、ハルトの指先に触れられ、熱を帯びた瞳で見つめられると、彼の強固な理性がみしりと音を立てて軋む。
ソウタは、諦めたように目を閉じ、ハルトが差し出した毒を深く吸い込んだ。
肺の中に広がる、甘く、重く、からめ取られるような逃げ場のない香り。
それはまさに、ハルトそのものだった。
「……ハルト、君は本当に……」
ソウタは煙を吐き出すと、そのままハルトの顎を掴み、強引に唇を重ねた。
二人の口内を、甘い煙が循環する。 不健康で、非合理的で、美しい汚泥に塗れた時間。 店を出る頃には、ハルトの服も髪も、ソウタの選んだ香りに完全に染め上げられていた。
「……ハルト、君は本当に……」
ソウタは煙を吐き出すと、そのままハルトの顎を掴み、強引に唇を重ねた。
二人の口内を、甘い煙が循環する。 不健康で、非合理的で、美しい汚泥に塗れた時間。 店を出る頃には、ハルトの服も髪も、ソウタの選んだ香りに完全に染め上げられていた。