多くの人に見てほしいBlack Box Diaries


  

 2025.12.20 長井チヱ子


 私は一介の町医者である。患者さんも0歳から108歳と幅広く、診ている疾患も多様である。その中には、DVやレイプなどの被害で、うつ状態・PTSDに苦しんでいる人もいる。裁判に訴えている人もいる。そんなとき、主治医として意見書を書く場面も多々ある。その中にAさんの事件があった。彼女は意識のない状態で、上司二人から性的暴行を受けたが、意識のない原因としてレイプドラッグが使用された可能性が極めて高かった。そのことを、私は主治医意見書として提出し、東京高裁において勝利的判決を得ることに、寄与してきた。(因みにその事件の担当弁護士さん三人のうちお二人は、詩織さんの元弁護団であり、私は今でも、お二人には心からの敬意を持っている)

 そうした私の経験を知った詩織さんが、「もっとレイプドラッグの被害について知りたい」と訪ねてきたことから、詩織さんとのかかわりが始まり、現在に至っている。

 この私の経験を踏まえ、現在の映画「Black Box Diaries」(以下BBDと略す)、をめぐる論争に意見を述べたい。


私は伊藤詩織さんの映画BBDを12月13日、見た。映画をめぐる昨年からのいきさつをいくらか知っているものとして、一番の感慨は「よくここまでこぎつけた」というものである。多くの批判・悪意の中傷もある中で、日本での上映を諦めることなく、修正すべきは修正し、削除するところは削除し、それでも「ここはどうしても譲れない」という気持ちが伝わってきた。改めて多くの人に見てほしいと思った。


しかし、この映画をめぐる状況はそれほど楽観的なものではないことが、上映直後から明らかになった。望月衣塑子さんは自らのチャンネルで、小川たまかさんと対談し、「(この映画)は見る必要がない」と繰り返し発言し、そのうえ「客の入りも少ないようだし」とうれしそうに語っていた。因みに私が行った13日(土)、16時の会はほぼ満席だった。このような極端な立場は別としても、何かもやもやしたものを感じている人は多いのではないかと思う。そこで、改めて意見を述べたいと思った。


(1)   “裁判を勝利に導いた元弁護団に後ろ足で砂をかけた人”というフレーム

この裁判の結果の詳細はあまり知られておらず、多くの人が無意識のうちに「全面勝利」という前提に立っている。その結果、詩織さんには「裁判を勝利に導いた元弁護団に後ろ足で砂をかけた人」というイメージが張り付いてしまっている。

私は、元弁護団の方々が全力を尽くして闘われたことに、心からの敬意をもっており、以下の意見は決して非難ではなく、現在の司法制度の中での限界だと考えている。   

しかし、結果は結果として正確に明らかにされる必要があると思う。この裁判の結果は全面勝利ではない。レイプについては認められたが、ドラッグについては、詩織さんがその著書「Black Box」で、レイプドラッグが用いられた可能性があると書いたことをもって、名誉棄損で50万円の賠償金が言い渡された。この判決が出たとき、これを受け入れるか、不服として上告するか、詩織さんにも大きな葛藤があった。判決は全体として一つのものとしてあるので、一部(レイプ)を受け入れ、一部(ドラッグ)は受け入れないということはできない。上告すれば、最高裁でレイプまで認められない可能性もあるというリスクが伴う。苦渋の決断として受け入れざるを得なかったと思う。決してもろ手を挙げて喜べるという状況ではなかった。権力は決して女に100%の勝利なんか与えない。私はここに権力の狡猾さ・姑息さが表れていると思う。

意図的とは思わないが、この事実が元弁護団から明らかにされないなかで、こうしたフレームが行きわたっていることに、私はフエアでないものを感じる。まず、このフレームを取り払らったところから、論議を始めてほしいと思う。

当事者でない私ですら、この部分の判決は納得できないものだった。(裁判の中で、レイプドラッグについては、二つの専門家の意見書、一つはアルコール医学の権威である山口大学医学系研究科法医学講座藤宮龍也教授による27頁にわたる意見書。その中では、詩織さんのアルコール分解酵素の検査結果もふまえ、事件当時の意識の消失はアルコール単独では考えにくく、いくつのも場合を想定した計算式を駆使し、科学的にドラッグの関与が強く疑われることが述べられている。二つ目は、レイプドラッグを使った犯罪の第一人者である旭川医大の法医学教室の清水惠子教授の意見書。これまでの経験から、詩織さんの事件で薬物が関与した可能性が極めて高いと述べられている。二人の専門家の意見書、主治医として私も意見書を提出したが、判決文はこれらに一切触れることはなく、三つの意見書はないがごときであった。判決がいかにおかしいか、判決文を逐一引用した文章は別個にあるがここでは長くなるので省略)

被害のすべてが裁判で解決するわけではないことは、誰しも承知していると思う。裁判では十分果たせなかったことに、被害者が、こだわり、何かの形で訴えたいと思うのは当然である。詩織さんの場合、映像という形をとることになった。


2)   奇跡的証拠

詩織さんのみならず、事件当時、意識や記憶がない被害者は、なぜ自分の意識や記憶がないのかということに、自問自答し、答えの出ない無間地獄に苦しめられる。(私は多くの場合、アルコールに加えドラッグが関与していると考えているが。)ほとんどの場合、まず客観的証拠はなく、目撃者はいない。自分の記憶がない中で訴えても、誰も信じてくれないという状況に追い込まれ、多くの被害者が訴えることすら諦めざるを得ない。詩織さんの場合、客観的証拠・偶然の証人がいた。これはこうした犯罪では、まさに奇跡的とも言えるものだ。ここを明らかにすることが自分自身の回復にとっても必要なことだった。次の3点である。


①ホテルの監視カメラ

これは詩織さんと山口がホテルにつき、タクシーから詩織さんが、引きずり出され、ロビーを通って部屋に向かう場面が映っている。ここでの詩織さんは全く意識がなく、足取りもおぼつかなく前のめりになり、山口に支えられてかろうじて立っている。意志のある人の姿ではない。

一方で、非常に奇妙なのは山口の動きである。ここは、私も1回目に見たときは詩織さんの動きに集中していたので、気が付かなかったが、2回・3回とみる中で、山口の動きが非常におかしいことに気が付いた。一言で言えば、彼の動きにはまったく迷い・無駄がないのだ。普通、同行者の意識がなければ、慌てるだろうし、少なくとも、タクシーを降りるときなど、外気にあてて見みて、タクシーによりかかってでも立てるか、試してみたりするものだと思うが、彼には全くそんな気配はない。彼はタクシーが止まるや、詩織さんを一瞥し、荷物を引きずり出すように引っ張り出し、相手の顔を見るでもなく、まっすぐにすごい勢いで玄関に向かう。つまり、彼にとって詩織さんの意識がないのは、織り込み済みのことだったとしか言いようがない。私個人はお酒・ドラッグが使われたと考えているが、それはさておき、彼のこの迷いのない・無駄な動きのなさは奇妙だとしか言いようがない。

この映像はこうした被害者と加害者の対比を余すところなく、描いている。幸いなことに、私はこの映像の加工前のものと、映画で使われている加工が施されているものの両方を見ている。加工前のものは、裁判で意見書を書くために、弁護士さんを通じて見せていただいた。映画は、かなり加工されていて、これ以上加工すると、両者の対比も含め、非常にわかりにくくなるギリギリのところだと思う。ましてや、イラストなどで置き換えることはできないものだと思う。


②運転手の証言

これは、ホテルに向かうタクシーの中でのことだ。彼女は寿司屋のトイレで意識を失い、タクシーに乗ったのも覚えていない状態で、意識がなかったが、ほんの数秒、意識がかすかに戻ったときに、何度か、「駅でおろしてください」と言っていた。これを運転手さんが証言している。このように意識が断片的に戻ることがあるというのが、ドラッグの特徴でもある。99%意識がない中で、残る1%の意識を総動員して、彼女は「駅でおろし下さい」と言っていたのだ。この、ほぼ意識がない中で、最後の力を振り絞って、意志を示していたということは、被害者にとって、自分への信頼である。この1%を証明するシーンがここだ。


③ドアマンの証言

この人は、当日二人がタクシーでホテルに到着し、玄関に向かうまでの一部始終を目撃していた人である。前述のホテルの映像にも少し、出てくるが、彼は詩織さんの状況をみて、助けが必要かなという感じで、タクシーの方に動いていくのだが、山口はその助けも借りようとせず、まっしぐらに玄関に向かう。それで彼は元の位置に戻る。そうした、彼が見たままを証言してもいいと言っている。この場面は映画の最後の方にでてくるが、ここでの彼の言葉は感動的である。彼はこのようにいう。「自分が証言することに何の問題もありません。伊藤さんが経験した苦しみに比べたら、全く小さなものです。伊藤さんが『その日の担当者が自分で良かったな』と思ってくれたら十分です」

彼が詩織さんの意識がなかったことの目撃者であるだけでなく、このような善意がどれほど力になるか、私は知ってほしいと思う。


私は、以上3点からこの映像は、簡単に入手できるレイプドラッグの事件が日本の中で、どれだけ広がっているか把握できない現在、レイプドラッグの実態を示すドキュメンタリーという観点からも、その価値は非常に大きいものであると思う。今後、同様の事件が起こったときに、被害者にとって諦めないでほしいという励みになると思う。


ドラッグをめぐることだけではなく、この映画をめぐる様々な批判に言いたいことはたくさんあるが、多分、私が他の人より少し詳しく言えることがあるとしたら、上記の点だと考え、この範囲にとどめる。

ただ、もう一点言いたいことがある。


(3)情報源の秘匿

すべての批判者が大きく問題にするのが、捜査官Aの問題である。彼は、逮捕直前で、上からの力がかかり、取りやめになったことを詩織さんに話す人物である。このシーンはもちろん、顔・音声は加工されており、一般の視聴者には人物を特定できないようになっている。しかし、警察内部では人物を特定することは可能であり、情報源の秘匿という、ジャーナリストとしての基本に反するというものである。常に、このジャーナリストとしての基本という言葉が、金科玉条のように繰り返される。まるで、水戸黄門の「葵のご紋」のようである。そうなると、詩織さんには、「へへっー」とひれ伏してもらうしかない。   

ここで、疑問なのは、この件は既に、彼女の著書「Black Box」の中で、同じことが記載されているのである。本なら問題視されず、映像では問題視される金科玉条って何だろう?

誰もが、疑問を持たないこうした一見「正論」を振りかざすことで、その後の論議はストップしてしまう。大事なことは、詩織さんの事件は何だったかということである。

事件後、警察に訴えても「証拠がないから」と拒否され、証拠を集めやっと刑事事件として逮捕されるかと思いきや、「上からの力が働き」中止になる。検察審査会ではほぼ門前払い。最後にたどり着いた民事で、レイプは勝利したもの、レイプドラッグについては、名誉棄損が言い渡される。

この一連の過程で見えてくるのは、司法は決して被害者を救済しない、逆に加害者を救済するということである。私たちはこういう国に生きている。詩織さんがこの映画を未来の女性たちに向けたラブレターと言ったのは、このことだと思う。未来に生きるあなたたちは、もっといい社会に生きていることを願っていますということだろうと、私は理解している。  ただ、私がこの言葉を聞いたのは、昨年末、この映画が問題視され、非難が集中していた時だった。私は、詩織さんが「ラブレター」と言っているが、内心「遺書」と思っているのではないかという、不安を持たざるを得なかった。幸いなことに、遺書にならず、ラブレターとして日本上映にこぎつけられたことに、心から安堵している。


大事なことは、あらかじめ「見なくていい」と触れ回ることではなく、見た人が批判も含め、意見を交わしあえる状況を作ることであると思う。詩織さんもそれを望んでいると思う。決して「性暴力と闘うカリスマ」として見られることは望んでいないと思う。むしろ、そう見られることに、一番の居心地の悪さを感じているだろう。


以上、主にレイプドラッグを中心に意見を述べたが、現在BBDをめぐる論議の中で、私が最も共感し、私が言いたかったことを冷静に語ってくださっていると思うのは、Facebookによせられている工藤美奈子さんの「被害者は『守られながら縛られる』―伊藤詩織さんの映画が可視化した、日本社会の統治構造―という一文である。是非ご一読されることをお勧めしたい。

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