武士の家系継承はどうだったのか
農民などしもじもの者はいい加減だったかもしれないが、武士は違ったはずだと思われるかもしれないので、もうひとつ紹介しておこう。坪内玲子先生の『継承の人口社会学―誰が「家」を継いだか』(ミネルヴァ書房)は、各藩の編纂した藩士家譜を数量的に分析することで、江戸時代の武士の家系継承のパターンを明らかにした、とてつもない労作である。当時の武士は長男相続を理念としていたと言われるが、息子がいないなどの人口学的制約条件のため、理想を実現できないケースも少なくなかった。そうした場合の「補完システム」にはどのようなものがあったか、本書の研究成果を見てみよう(落合「書評」参照)。
まず藩ごとの長男相続の割合は、17世紀には60~70パーセント台だったのに、18世紀には50~40パーセント台に低下する。18世紀の武士は少子化に直面しており、それに伴って実男子がいる割合も低下したからである。
では実男子がいない場合に、誰を跡取りに選んだのだろうか。焦点は先代家督者の娘と父系親族のどちらを選好するかということである。娘を選び娘婿を跡取りにするなら「女系相続」ということだ。「男子がなく女子のみがあるという人口学的条件」を満たす者の数、およびその中で婿養子を取った者と、婿ではない養子を取った者の数を数え上げ、婿養子と(普通)養子の選好度を4藩について計算されている。
そのうちの3藩、すなわち秋田藩、会津藩、萩藩では婿養子を選好する傾向が圧倒的に強い。17世紀から18世紀にかけて若干低下したものの、60~70パーセント以上は娘に婿養子を取っている。それに対して(普通)養子を取ったのは10~20パーセント台かぎりぎり30パーセントに届く程度である。加賀藩では婿養子と普通養子の選好が比較的拮抗しているが、実は普通養子であっても異姓養子を選好していたという興味深い結果が示されている。父系男子を跡取りにするという父系規範は、武士階層でも尊重されていなかった。
全地域を視野に入れると、さらに興味深いことが見えてくる。薩摩藩の支配下にあった琉球王国の首里、宮古、久米村の琉球士族は、婿養子が皆無だという点で例外性が際立っている。それもそのはず、琉球王国は中国皇帝の冊封も受ける二重支配の状態だったので、中国の影響が強かった。なかでも中国系の移民の村であった久米村では甥による継承が6~7パーセントもあり、中国的な性格が顕著である。17世紀の首里では弟による継承が7パーセントあるのも目を引く。「甥」であれ「弟」であれ、父系親族集団の男子であれば、養子にするまでもなく継承権があると認識されていることがわかる。
階層差という点では、大名家は一般の藩士と違い、婿養子が非常に少ないという特徴がある。普通養子の割合は一般藩士と同じくらいだが、弟による継承が8パーセントもあり、甥による継承も5パーセントほどを占める。武士のなかでも階層が高いほど父系へのこだわりが強いことは注目に値する。
以上をまとめると、庶民はもちろん武士階層でも一般的には父系規範はさほど尊重されず、女系相続が当然のように認められていたが、琉球士族、とりわけ中国系移民と、大名家という最上層では、例外的に父系規範が実践されていたことがわかった。