『Time of Ring』(第十稿)Part.2
第二幕:秘密結社
転移中の暗闇は一瞬だったはずなのに
途方もなく長く感じられた。
次に大地の肺を満たしたのは、
強烈な腐敗と泥、
そして何かがドロドロに煮詰まったような、
重く湿った空気だった。
冷たい石畳の上に、
乱暴に吐き出されるようにして膝をつく。
夜だった。
しかし道端に街灯などはなく、
周囲の建物の窓の隙間から漏れる
わずかな蝋燭の光だけが、
泥にまみれた細い路地を
心もとなく照らしている。
遠くに、小高い丘のシルエットが
黒く浮かび上がっていた。
十四世紀、フランス・パリ。
黒死病(ペスト)が猛威を振るい、
人々の命と理性を
次々と奪っていく絶望の時代だ。
大地は、藤堂から渡された
粗末な修道士のローブを深く被り直し、
ざわめきが聞こえる広場へと歩みを進めた。
その広場は、狂気じみた
異様な熱気に包まれていた。
絶え間なく響くのは、
肺の底から絞り出すような
人々の激しい咳き込みだ。
群衆は、広場の中央を取り囲み、
何かに熱狂している。
大地は、左耳に取り付けられた
自動翻訳デバイスのスイッチを入れた。
自称「聖者」を名乗るその男は、
濁った水を「神の祝福を受けた奇跡の水」と称し、
法外な値段で売りつけていた。
病の恐怖に正気を失った民衆は、
なけなしの全財産を差し出し、
先を争うようにその水を飲み干している。
恐怖は人の思考を奪い、
ニセの権威に
いとも簡単にすがらせてしまう。
大地は、思考を放棄して
短期的な安心を買い求める群衆の姿に、
未来のディストピアで見た人間たちと同じ
「危うさ」を感じ取っていた。
「やめなさい!
傷口と傷口をくっつけるな!
菌が移る!」
狂騒を引き裂くような、
鋭い女の声が響いた。
声の先を見ると、
修道士たちの背後に、
簡素な衣服を着た一人の女性が、
処刑台の太い柱に縛り付けられていた。
彼女の足元には大量の薪が積まれ、
周囲の修道士たちが
「神を冒涜する魔女だ!」
と声高に煽り立てている。
群衆もまた、
狂ったような目で
彼女を嘲笑していた。
イザベラと呼ばれるその薬師の娘は、
祈りや迷信に抗い、
煮沸や隔離といった物理的な衛生管理によって、
人々を必死に救おうとしていた異端者だった。
大地は群衆を乱暴に掻き分け、
処刑台の傍らの石畳で
息も絶え絶えになっている
ペスト患者に近づいた。
そしてローブの懐から、
藤堂に持たされた未来の薬——
粗末な石の粉末に偽装された
強力な解熱鎮痛剤と抗生物質を取り出した。
大地はそれを水に溶かすと、
無言のまま患者の口へと流し込んだ。
数分後。
患者の喘鳴のような激しい呼吸が嘘のように落ち着き、
顔を覆っていた異常な脂汗がスーッと引いていった。
静まり返る広場。
「……この女の言うことは、正しい。」
大地が低く響く声で告げると、
圧倒的な事実を目の当たりにした群衆はどよめき、
魔女処刑の進行は、完全に停止した。
騒ぎを見つめていた修道士たちに、
一人の貧民が駆け寄って来てすがりついた。
修道士が忌々しそうに腕を振り払った瞬間、
貧民の手が修道士のフードに引っかかり、
顔を覆っていた精巧な仮面ごと
乱暴に剥ぎ取ってしまった。
松明の光が照らし出したのは、
人間の肌ではなかった。
首の付け根から顎にかけて、
オリーブ色の硬質な鱗がびっしりと覆い、
瞳孔は縦に鋭く割れている。
だが、群衆が悲鳴を上げるより早く、
異変は起きた。
「グギャッ……!」
外の空気に触れた瞬間、
その修道士は喉を掻き毟り、
激しく痙攣して石畳に倒れ込んだ。
十四世紀の泥と腐敗を含んだ風を吸い込んだ彼の鱗は、
数秒でどす黒く変色し、そのまま息絶えてしまった。
残りの修道士たちはパニックに陥り、
逃げるように丘の上の方角へと姿を消した。
大地と、縄を解かれたイザベラは顔を見合わせた。
奴らは神の使いでも、恐るべき悪魔でもない。
外の空気にすら耐えられない、
極端にひ弱な存在なのだ。
群衆の混乱に乗じ、
大地は素早くイザベラの縄を解き、
彼女の腕を引いて、裏路地へと駆け出した。
「こっちよ!」
入り組んだ路地を抜け、
二人が逃げ込んだのは、
街の片隅にある古びた家屋だった。
薬草の強い香りが充満している。
イザベラの自宅兼、調剤室らしい。
扉に重い閂をかけ、
イザベラは肩で大きく息をついた。
彼女は乱れた黒髪をかき上げ、
暗がりの中で
大地を値踏みするように見つめた。
「あなた、ただの修道士じゃないわね。
あの薬……あんなに早く効く薬草なんて、
…そういえば話し方がおかしいけど、
いったいどこから来たの?」
「俺の素性は今はいい。
ただ、この病を、
裏で操っている連中を止めに来た。」
大地が真っ直ぐに答えると、
イザベラは少しの間沈黙し、
やがて小さく頷いた。
「……あの丘の上の修道院よ。」
イザベラは窓の隙間から、
モンマルトルの丘を指差した。
「近くに住む人たちから聞いた話だと、
彼らは決して外の空気を吸おうとしない。
それに、建物の隙間という隙間が
奇妙な樹脂で密閉されているみたいなのよ。」
間違いない。レプティリアンの拠点だ。
自分たちだけ安全な無菌室に逃れ、
外の人間たちが病で死に絶えるのを待ちながら、
歴史を裏から操ろうとしている。
「案内してくれ。」
大地の言葉に、
イザベラは力強く頷いた。
二人は夜の闇に紛れ、
修道院の裏手へと回った。
太い蔦が絡みつく石壁をよじ登り、
使われなくなった古い食糧搬入用の
通風口を見つける。
「俺が先に行く。
下の様子を確認したい。」
大地を先頭に、
二人は狭いダクトの中を這い進んだ。
修道院の内部は、
外の強烈な死臭が完全に消え失せ、
空気は不自然なほど冷たく、無臭だった。
外界から完全に密閉された「無菌室」だ。
やがて、真下に格子状の通気口が現れた。
大地が隙間から覗き込むと、
広い円形の部屋で、
フードを脱いだレプティリアンたちが
密談を交わしていた。
そして、強力な大気浄化フィルターのそばから
決して離れようとしない。
「……奴ら、外の空気に触れたら終わりだな。」
大地はダクトの出口を蹴り破り、
部屋の中へと飛び降りた。
背後でイザベラも続く。
驚愕して振り返るレプティリアンたちは
武器を構えようとするが、
大地は目もくれなかった。
部屋の隅にあった重い鉄の燭台を掴み上げる。
そして、奥の壁にはめ込まれた
巨大なステンドグラスに向かって、
渾身の力で投げつけた。
ガシャァァァンッ!!
色鮮やかなガラスが粉々に砕け散る。
そこから、十四世紀の夜の空気が——
腐敗と泥と、無数の雑菌を含んだ生の風が、
室内へと一気に雪崩れ込んだ。
レプティリアンたちの反応は劇的だった。
彼らは喉を激しく掻き毟り、
武器を構えることすらできず、
次々と床に倒れ込んでいく。
恐怖で人間を支配しようとした者たちは、
ただの空気によって呆気なく崩れ去った。
だが、部屋の外から
無数の足音と
警報が鳴り響き始めた。
別区画から、増援が向かってきている。
「逃げるぞ!
行き止まりになる前にダクトへ戻れ!」
大地が叫ぶと、
今度は地形を把握しているイザベラが
先頭を切って通風口へ飛び込んだ。
大地はそのすぐ後ろに続く。
暗く狭い空間を、急いで這い戻る。
その最中だった。
突然、すぐ真下の廊下から、
複数の重武装の修道士たちの足音が響いてきた。
「——っ!」
イザベラが咄嗟に動きを止め、
息を潜めて身をすくませた。
だが、後ろを急いで這っていた大地は、
その急ブレーキに対応しきれなかった。
暗闇の中、顔面に突然、
布越しの柔らかな弾力が
思い切り押し付けられる。
イザベラのお尻だった。
大地の鼻先が彼女の骨盤の丸みに深く沈み込み、
甘い体温と汗の匂いが一気に鼻腔を満たす。
驚きで肺の空気が変な音を立てて漏れそうになり、
大地は慌てて両手で自分の口を塞いだ。
真下を足音が通り過ぎるまでの数十秒間。
それは、ペストが蔓延る死の街の中で、
異様なまでに生々しく、血の通った時間だった。
足音が完全に遠ざかると、
イザベラはゆっくりと前へ進み、
ダクトの出口で肩越しに振り返った。
暗がりの中でも、彼女の顔が朱に染まり、
鋭く大地を睨みつけているのが分かった。
大地は無言のまま、
ただ申し訳なさそうに
一度だけ瞬きをした。
張り詰めていた死の恐怖が、
そのほんの些細な体温の接触によって、
確実に生へと引き戻されていた。
修道院から無事に抜け出した二人は、
夜明け前の街角で立ち止まった。
「一緒に行かないか。」
振り返ってそうささやいた大地に、
イザベラは静かに首を振った。
「私はここで、
あなたが見せてくれたことを書き残します。
いつか、誰かが必要とするかもしれないから。」
彼女の力強い決意を目に焼き付け、
大地は懐の転送デバイスのスイッチを押し込んだ。
強烈な光が視界を包み込み、
中世の暗闇は完全に消え去った。



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