『Time of Ring』(第十稿)Part.1

プロローグ:長い眠り

最初に届いたのは、
肉が焦げたようなひどく乾いた匂いだった。

広陵とした大地に熱風が吹き荒れている。

そして目の前には、
天まで届くかのような炎の壁が迫っていた。

「一歩も退くな…!」

重苦しい声が響き、
隣に立つ仲間の皮膚が
異常な熱によってひび割れていく痛みを、
なぜか自分の皮膚の表面で生々しく感じていた。

足元に視線を落とす。

二本足で立ってはいるが、
そこにあるのは人間の足ではなく、
オリーブ色の硬質な鱗にびっしりと覆われた
異形の足だった。

ふいに、肺が酸素を求めて大きく痙攣した。

深夜二時。

久我山大地(25)は、
無機質な消毒液の匂いの中で目を覚ました。

硬いプラスチック製の椅子に
座り込んだまま眠っていたせいで、
首の付け根に鈍い痛みが走る。

ここが国立医療センターの
集中治療室の前であり、
先ほどの狂気じみた光景が
夢であったと脳が認識するまでに、
数回のまばたきが必要だった。

ガラス越しの無菌室。

その中央に置かれた白いベッドの上で、
大地の妹であるあかりが静かに横たわっている。

十七歳の彼女は、今日で三週間と二日、
一度も目を閉じたまま目覚めていない。

規則正しく刻まれる心拍モニターの無機質な電子音だけが、
彼女が辛うじて生きていることを証明していた。

すべては、大学の実験室で起きた事故だった。

未同定の結晶体——通称「クロニウム」に、
あかりが素手で触れてしまったこと。

直後にあかりは意識を失い、
それ以来、あかりの前進の細胞は
原因不明の緩やかな崩壊を続けている。

『クロニウム』

その単語を思い浮かべるたび、
決まって先ほどの熱い夢の最後に現れた、
白っぽい人影の輪郭が
脳裏に焼き付くように浮かび上がる。

これ以上、ここでただ祈っているだけなら、
このまま妹は消えてしまう。

大地は冷たいガラスから額を離し、
足早に病院を後にした。

向かった先は、
都内の外れにある古い雑居ビルの地下だった。

クロニウムの特性について
唯一言及していた異端の元大学教授、
韮山健太郎の私設研究所だ。

むき出しのコンクリートの部屋には、
巨大なサーバーラック群が立ち並び、
冷却ファンの重い音が響き渡っていた。

「妹さんは今、
宇宙に蓄積された別の時代の出来事を
無限に受信し続けている。

情報量が多すぎて、
脳がシャットダウンしている状態だ。」

白衣の上にカーゴベストを着込んだ韮山は、
淡々と事実だけを告げた。

「受信を止めるには、
送信側の根本——
歴史の奥深くに刻み込まれたエラーを、
直接修正するしかない。」

韮山は、部屋の中央に鎮座する、
分厚いアクリルガラスで覆われた
カプセル型の装置を示した。

大地は妹を救うためなら迷う余地はなかった。

促されるまま防寒機能のついた実験着に着替え、
カプセルの中へと横たわった直後だった。

——ガンッ!

鈍く、重い衝撃音。

地下室の分厚い防爆扉が、
まるで紙くずのように内側へとひしゃげた。

舞い上がる粉塵の向こうに、
五つの人影が立っていた。

彼らは継ぎ目のない
純白の完全密閉スーツに身を包んでいる。

そして、顔面を覆うバイザーの奥で、
縦に鋭く割れた黄金色の瞳孔が、
不気味な光を放っていた。

夢に出てくる、あの目だ。

先頭の一人が
無言で筒状の兵器を構えた瞬間、
青白い閃光が放たれ、
韮山の立っていたコンソールの脇が
爆音と共に焼き飛ばされた。

「未来へ行け!」

韮山が血を吐くような声で叫ぶと、
カプセルのハッチが
外部操作によって強制的に閉じられた。

ガコン、と床の鉄板が大きくスライドし、
カプセルごと大地の身体は
暗い地下の縦穴へと落下していく。

強烈な冷却ガスがカプセル内に噴き出し、
視界が真っ白に染まる。

肺が凍りつくような激痛の直後、
大地の意識は急激な暗闇へと落ちていった。

第一幕:失われた未来

どれだけの時間が経ったのか。

意識が浮上した大地は、
内側からハッチを力任せに蹴り開けた。

カプセルから這い出し、
空気を吸い込んだ瞬間、
むせ返るような鉄錆と
乾いた土の匂いが肺を焼いた。

そこは、韮山の地下研究所ではなかった。

斜めに崩れ落ちた巨大なコンクリートの梁の隙間から、
病的なまでに鉛色に濁った空が見える。

足元の瓦礫を踏み越え、地上へと這い出た大地は、
目の前に広がる光景に言葉を失った。

赤黒いスモッグが荒野全体を重く覆い、
地平線の彼方には、
黒曜石のように不気味な光沢を放つ
巨大な塔の群れがそびえ立っている。

そこに向かって伸びる荒廃した道路の上に、
何人かの人が歩いていたのが確認できた。

全員が同じくすんだ灰色の作業着を着て、
後頭部に無機質なバーコードを刻まれている。

彼らは誰一人として言葉を発さず、
ただ機械のように一定の歩幅で行列を作り、
歩き続けていた。

その時、列の中を歩いていた一人の老人が、
突然痙攣を起こし、
力尽きたように膝から崩れ落ちた。

だが、誰一人として
立ち止まって助けるものはいなかった。

驚く様子すら見せず、
ただ道に転がっている石ころでも避けるように、
無言で老人の横を通り過ぎていく。

他者に手を差し伸べるという人間としての機能が、
彼らの中から完全に切り捨てられていた。

異様な光景に背筋を凍らせながら、
大地は瓦礫の陰に身を隠し、
記憶の地図を頼りに街の中心部へと急いだ。

目指すのは、あかりが眠っていた
「国立医療センター」だ。

数時間後、辿り着いたその場所は、
見る影もなく崩壊した廃墟と化していた。

厳重に封鎖された地下区画の扉を、
鉄パイプでこじ開けて侵入する。

非常用電源の赤いランプだけが点滅する
冷え切った地下室。

その最奥に、
見覚えのある医療用コールドスリープ装置が、
分厚い防弾ガラスの向こうで静かに稼働し続けていた。

ガラスに張り付く。

霜に覆われたポッドの中で、
十七歳の姿のままのあかりが、
静かに目を閉じていた。

細胞崩壊の進行を止めるため、
病院のシステムが彼女を強制凍結したのだ。

そしてその隣には、
鉛で厳重にコーティングされたケースが置かれ、
あの「クロニウム」が隔離されていた。

計器の隅に表示された現在時刻を見て、
大地の呼吸が止まった。

『2126年』

タイムトラベルではない。

自分はあのカプセルで、
100年もの間、ただ冷凍睡眠させられていたのだ。

未来の医療に望みを託して眠りについたが、
目覚めた世界は、
人間が感情を奪われ、
化け物たちに支配されたディストピアだった。

ここであかりを解凍しても、
崩壊したこの世界に
彼女を救える医者はいない。

韮山が言っていた通りだとすれば、
根本の原因——
歴史のエラーそのものを
断ち切るしかないのだ。

大地が重い足取りで地上へ出た、その時だった。

「やめて! この子には触らないで!」

乾いた銃声と、女性の悲痛な叫びが
スモッグの空気を引き裂いた。

大地が声のした廃道へ飛び出すと、
そこには純白のスーツを着たレプティリアンの兵士が、
銃口から煙を上げながら立っていた。

足元の血だまりの中に、
一人の若い女性が倒れている。

その女性の腕の下から、
五歳くらいの小さな女の子が這い出し、
動かなくなった母親を揺さぶって泣き叫んでいた。

兵士のバイザーが赤く点滅し、
泣き叫ぶ少女の頭部に銃口が向けられる。

大地の身体が、理屈よりも先に動いていた。

「うおおおおおっ!」

瓦礫を蹴り飛ばし、
大地は兵士の側面に
弾丸のようなタックルを見舞った。

不意を突かれた兵士がたたらを踏み、
銃弾が明後日の方向のコンクリートを削る。

大地は反転し、
泣き叫ぶ五歳の少女を小脇に抱え上げると、
崩れかけたビルの外階段へ向かって
全力で駆け出した。

『……不適合者ヲ発見。排除スル……』

背後から無機質な合成音声が響き、
直後にコンクリートを砕く銃撃の雨が降り注ぐ。

「くそっ!」

大地は少女の頭を胸に押し当て、
錆びついた鉄骨の足場を蹴って
隣のビルの屋上へ跳んだ。

着地の衝撃で膝が軋み、
肩を掠めた銃弾が衣服を焦がす。

「こわい、お母さんが、お母さん……っ!」

腕の中で少女がパニックを起こして暴れる。

「目を閉じろ! 絶対に離すな!」

大地は少女を強く抱きしめ直し、
屋上の縁から眼下の瓦礫の山へと
スライディングで滑り降りた。

鋭い鉄筋が太ももを引き裂き、
激痛が走るが、
止まれば二人とも蜂の巣だ。

迷路のような路地裏を
泥まみれになって逃げ回るが、
ついに巨大なコンクリートの壁に追い詰められた。

前と後ろからは、
三体の白い兵士が銃を構えて迫ってくる。

万事休すかと思われた瞬間——
足元のマンホールの重い鉄蓋が
下から吹き飛んだ。

暗がりから飛び出してきたのは、
古びたレザージャケットを着た
大柄な男だった。

男は兵士の足元に向かって、
銀色の筒を転がす。

強烈な閃光と鼓膜を破るような爆音。

兵士が体勢を崩した隙に、
男は大地の手首を掴み、
少女ごとマンホールの下へと
強引に引きずり込んだ。

暗く、ひどい悪臭のする地下水路を抜け、
分厚い隔壁を開けた先。

そこには、
武器の手入れや通信機器の操作を黙々と行う、
作業着を着た七、八人の男女の姿があった。

「俺は藤堂だ。
あんた、韮山の所から来たな。」

レザージャケットの男——藤堂は、
自らもデスクの端に腰掛けた。

「ここは2126年。
地上の連中は、
人類の歴史を裏から乗っ取った存在——
俺たちは『レプティリアン』と呼んでいる。」

大地は息も絶え絶えに頷きながら、
腕の中で震え疲れて眠ってしまった少女の頭を撫でた。

「あんたには見せたいものがある。
俺たちが最近発見した、
第一量子物理学研究所の閉鎖区画だ。」

藤堂の案内に従い、
さらに地下深くへと進む。

厳重なロックを解除した先にあったのは、
かつて大地が居た「韮山の研究所」の拡張施設だった。

広大な空間の中央に、
青白く発光する巨大なリング状の機械が鎮座している。

そしてその傍らで、
無数のサーバー群が静かに脈打っていた。

「韮山が残した『宇宙意識AIクロノス』と、
タイムマシンの試作機だ。」

藤堂はコンソールを叩き、
メインモニターを起動した。

「歴史の変数と、現在の歪みの根源を計算させた。
ここから、あんたを過去へ送る。」

藤堂は、一着の粗末な修道士のローブを大地の前に置いた。

そして、小さな布袋——
未来の強力な解熱鎮痛剤と
抗生物質が偽装された石の粉末——を手渡す。

モニターには、
AIクロノスが弾き出した座標が表示された。

『目標座標:十四世紀、フランス・パリ。』

「中世の修道院に潜り込んだ奴らの足がかりを潰せ。
どう動くかは、現場であんたの目で見て判断しろ。
それ以上のことはわからない。」

大地は無言でローブを羽織った。

泥と血にまみれた手のひらを強く握り込み、
あかりを救うため、
そしてたった今、理不尽に母親を奪われた
少女の悲劇をなかったことにするため、
青白い光を放つ時空のリングへとその身を投じた。

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