『近代出版研究2025特大号(第4号)』(近代出版研究所・皓星社)を読んで浮かんだこと? 「古本王子」(古本王?)といえば、紀田順一郎? 坪内祐三? いや、片山杜秀? 浅羽通明?
[2025・7・9・水曜日]
『近代出版研究2025特大号(第4号)』(近代出版研究所・皓星社)を読みました。
特集は「書物百般・紀田順一郎の世界」です。紀田さんご本人のエッセイやら、「紀田順一郎と私たち」と題してのアンケート特集(①紀田さんの本で好きな)のは?②紀田さんに注目したきっかけは?③卒寿を迎える紀田さんへのエールを)もおもしろく読みました。
私が初めて読んだ紀田さんの本は『読書戦争』(三一新書)だったと思います。1978年に出ているようですから、大学生になってから読んだのでしょう。サラリーマン時代、昼休みにも本をむさぼるように読んでいた云々の記述があったかと記憶しています。大学に入ってから「一日一冊読破」を実践していた我が身にとって、刺激を受けた一冊でした。
そして『蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』 (松籟社)……。読書生活の始まりと終わり……。しみじみ感が漂いますね。
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その紀田特集もいいのですが、さらにおもしろく読んだのが、「片山杜秀ロングインタビュー古本王子の快進撃」でした。
60頁近い大特集です。
片山さんのことを知ったのは、『片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全 ゴジラと日の丸』(文藝春秋)を読んだ時からです。2010年の刊行。分厚い本でした。週刊スパに連載されていたコラムをまとめたものでした。この本の中でも、パリの古本屋を行脚したことや、仙台の万葉堂書店(古本屋)を訪ねたことなども記されていたと記憶していますが、今回のロングインタビューでも「古本王子」の体験が赤裸々に語られていました。
片山さんは1963年生まれですから、私より少し若いのですが、読書体験などで似通ったところもありました。文春文庫の創刊時、紙が粗悪(電話帳の紙を使用していたかと、石油ショックで紙不足時代故に)というより、軽くていいなと思っていたそうです。なるほど。自宅に平凡社の『国民百科事典』がドデンとあったそうです(我が家にも)。
ただ、都内在住、小学生の時から暁星に通ったりしたため、帰校時に神保町界隈を歩くことも多く、古本屋に親しんだそうです(にもかかわらず、東京古書会館の古本市には大学院生になるまで入ったことがなかったとのこと)。
大学受験をせず、学校推薦で慶応大学法学部(政治学科)に進学。中村勝範(『聴け!!赤い国々の呻き声』慶應通信)や中村菊男などのお名前や著作名もチラリと出てきますが、政治思想の面でちょっと路線(趣味)が違ったようで(?)大学院(修士)は明治大学へ。橋川文三系の富田信男さんがいて、慶應だと民社系中村菊男さんに近い系譜かなと思ったりしつつ、まぁ、明治大学は神保町に近いからそっちがいいかとなったそうです。
そのときになって初めて、明大の向かいにある東京古書会館の古本市に足を運んだそうです。それまではその古本市(古書市?)は、「子供のときに目撃した都丸書店みたいに、値段の高い立派な本しか売っていないんだろうな、と思い」「これは私みたいな人間が行くようなもんじゃない、値段も高いだろうし、どちらかというと和本とかそういうものをたくさん売っているんじゃないかと勝手に思い込んでいて、誰も教えてくれなかったから、実は大学の四年生になっても東京古書会館の週末の古本市に行ったことがなかったんです」と。
伊勢丹や西武などのデパートの古本市には高校生のころから通っていたにもかかわらずと。
私は上京した18歳の時から東京古書会館(当時は旧館で二階が会場)の古本市には通っていました。
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ともあれ、大学院生になってからは東京古書会館の古本市にも通いだす片山さんです。そういえば、私も時々古本市に出かける時があります。はるか昔、紀田さんを会場でみかけたことが一度だけありました。
ところが、片山さんはよくお見かけします。ちょっと「異様な雰囲気」があるからすぐに分かります。手に一杯古本を抱え、それを時々、入り口受付に預け、また会場に戻り、足元においてある古本もしゃがんで眺めたり……。
もう一人、『アナーキズム』(ちくま新書)などの著者である浅羽通明さんも時々お見かけします。事務所で古本市を週末やっておられるので、そのためのせどり?
この方は作務衣というのか、独特の和風の服装をしているのでこれまたすぐに分かります。
片山さんは、そうして集めた「雑本」は龍ケ崎の「自宅」にて保管されているそうです。古本の山のなかにポツンと一軒家ならぬ、お一人の姿である写真も掲載されていました。龍ケ崎といえば、「竜ヶ崎古書モール」というビル中にあるローカルな古本屋もあって、たまに出かけたことも思い出します(数年前に「閉店」)。あのあたりなら、土地も家賃も安い?
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引続き、『近代出版研究』の発行人で、片山インタビューで聞き手でもあった小林昌樹氏の『立ち読みの歴史』(ハヤカワ新書)を読みました。
「立ち読み」というのは、明治時代に、本屋(書店)ならぬ「雑誌屋」(雑誌店)というのがあって、店頭に開架というか平積みというのか、雑誌が置いてあって、それを手にしてパラパラとめくって立ち読みという形で始まった(とのこと)。
歴史的に顧みると、そういうことになるそうです。私などのイメージで「立ち読み」というと、田舎の小さな薬局のような片隅に文庫や雑誌が置いてあるコーナーで、子供たちがマンガを「立ち読み」する……。そんな感じですね。
猛者になると、単行本や文庫一冊を「立ち読み」(只読み)する手合いもいるかもしれませんが、一気読みだと2~3時間は立ち読みする必要があるでしょう。その点、少年マンガなら、好きな連載マンガだけなら数十分程度の「立ち読み」で十分なこともあります。
昭和40年代当時、一冊数十円する週刊マンガを毎週買うことができない場合、立ち読みですませるなんてこともあったのではないでしょうか。
大人も「文藝春秋」や「週刊文春」のような月刊誌・週刊誌だと、興味のある記事だけを拾い読み(立ち読み)するなんてこともあったでしょう。最初から最後まで読む必要のない「週刊マンガ」や「週刊誌」や「月刊誌」ならそういう「立ち読み」需要もあったと思われます(本の場合、推理小説なんかだと、一応、最初から最後まで読む必要もあり、立ち読みで読了するとなると、人によっては数日がかり?)。
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本書は、新書ですが、「立ち読み」の歴史に関して、本格的な「研究書」的な内容であり、この本を「立ち読み」しようとすると、ちょっと大変かもしれません。
私は立ち読みに関しては肯定的ではありません。やはり「盗み読み」「只読み」になりかねませんから(図書館で借りて読む「只読み」は合法?)。もちろん、この本、面白いかな、買おうかどうしようかということで、手にして「まえがき」や「目次」をぱらぱらとめくって、さっと読む程度の「立ち読み」は許容範囲でしょう。
ですから、どっかのチェーン店が、「椅子」まで用意したり、カフェを設置して、カフェに持ち込んで座り読みするのは可だなんてやっていたのには反対でした。そういう「書店」には原則として行かないことにしています。座り読みをしている人を見るのが心地よくないからです。本屋は、図書館じゃないんだから! 不必要に迎合するなと。
あと、そんな些細な立ち読みをする場合にも、店内BGMを流すのも耳障りですよね。歌詞のないBGMならまだしも……。出版社なんかの宣伝文句をあちこちで流したりしていると、もうゴメンですね。ということで、新刊書店にも足をあまり運びません。
選書といえば、自分好みのBGMを自宅(食卓周辺)で流しながら、アマゾンなどをチェックするのがベターなこのごろですね。アマゾンなどだと新刊書の試読もできることもありますから。「立ち読み」ではなく「座り読み」できますし。
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余談ですが……。都内で生まれて幼少のころから古本屋通いをしていた点で、片山さんに匹敵するとなると、『古本的』(毎日新聞出版)の著者である坪内祐三さんなどでは? お二人の古本談義の対談本などあればよかったのにとふと思いました。
では、ごきげんよう(本欄で紹介した作品に御関心のある方は、ブログの文中の作品のリンクをクリックして註文してみてください)。