スンミンは、眠れなかった。
目を閉じるたびに、廊下でのリノの声が蘇る。
『俺の前でだけ、そんな顔すんなよ』
意味なんて考えなくても分かってしまう。
分かるから、無視できない。
――なんで、あんな言い方したんだよ。
胸の奥が、じわじわと重くなる。
怒りでも、不快感でもない。
それよりもっと、厄介な感情。
翌日。
教室に入ると、リノはいつも通り無表情で座っていた。
何もなかったみたいに。
それが、無性に腹立たしい。
休み時間。
スンミンが声をかけると、リノは視線だけを向けた。
一瞬、空気が止まる。
即答だった。
冷たくて、距離のある言い方。
――ああ、逃げる気だ。
突き放す言葉。
なのに、リノの指先が微かに震えているのを、スンミンは見逃さなかった。
胸が、嫌な音を立てる。
そう言って立ち去ろうとした瞬間、
手首を掴まれた。
強くない。
でも、離す気もない。
低く、掠れた声。
教室のざわめきが遠のく。
二人だけ、世界から切り取られたみたいだった。
リノが言う。
でも、その目は逸れている。
一拍。
言葉を探すみたいな沈黙。
スンミンの心臓が跳ねた。
それは、
“好き”よりも、
“欲しい”よりも、
ずっと重い言葉だった。
思わず零れた本音。
リノは一瞬だけ傷ついた顔をして、すぐに無表情に戻る。
即答。
迷いがない。
スンミンは、息を詰めた。
――ああ、だめだ。
この人、最初から壊れてる。
手首を掴んだまま、離さない。
嫌いと言い合いながら、
触れない距離で、
互いの呼吸を確かめる。
その関係が、
どこにも逃げ場がないことを、
二人とももう分かっていた。
放課後、並んで歩く帰り道。
会話はない。
でも、離れない。
スンミンはふと、思ってしまう。
――もし、俺が離れようとしたら。
この人は、どんな顔をするんだろう。
想像しただけで、
胸が締めつけられた。
依存は、もう始まっている。
静かに、確実に。
嫌いと言いながら、
互いを手放す未来だけは、
想像できないまま。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!