残念なプレゼン(間違ったピッチ)
mikiokousaka
スタートアップという言葉が一般の人にも通じるようになり、インキュベーションプログラムやアクセラレータープログラムを運営する団体が、ここ10年で大幅に増え、日本中でビジネスプランのコンテストが開催されるようになりました。
機会が増え切磋琢磨し質が高まると良いのですが、プレゼンする人や審査する人が増えて質が薄まっているようです。
この1年では特に、スタートアップ支援拠点の運営事業や、スタートアップを排出する教育事業を受託している団体が行っている、ハードウェア,ソフトウェア,サービスの育成型プログラムで発表される成果物としてのプレゼンが、似たり寄ったりになってきました。
成果物に目新しさを求めるということでは全く無いわけですが、伴走支援で教えられている最先端とされるツールや、活用すべき手法の情報が、ありきたりのものに集約されてきているというのが原因だと思います。
手軽に制作できるツールや手法を使い、リーンにPoC(Proof of Concept)として、アプリやデモ機を作れることが、これまでになかった勘違いのもとになり、概念ではなく実証まで進んでいるという満足を、支援される側も支援する側も持ってしまい、本当に詰めるべき、前段にある企画や構想でのカチづくりへの伴走が、抜け落ちているようです。
プレゼンをどう作ると良いのか?の質問に答えるために、Airbnb社が2009 年に作ったプレゼン資料を使った解説を以前しましたが、どんなプレゼンが良くないのか?という逆の説明をするために、代表的なパターンを書き出してみました。
大きく分けると「根拠の欠如」と「強みの欠如」の二つで、それぞれに気をつけないといけない錯覚がいくつかあります。
良くない例を意識してプレゼンをまとめることが、プレゼンをどう作ったら良いのか?のもう一つの答えだと考えています。
「根拠の欠如」:説明は成り立つが整合性だけしか無い(無根)
残念なプレゼンの失敗は、ほとんどがこのパターンです。
整合性があるというのは良いことですが、説明が成り立つだけではプレゼンとは言えないと考えています。
提示するだけのものをプレゼンと呼ぶ広義な解釈もありますが、ここでは提案し行動を促すものをプレゼンと呼ぶことにします。
実際のところは、整合性があることで根拠が欠如していても評価をしてしまう人がいるので、説明だけのプレゼンは無くなっていきません。
それどころか、教育されたフォーマット通りの説明が横行し、見栄えの整った表現を補助するツールが低価格や無料で登場してきて、それらが褒める点となる(更にはフォーマット通りではないプレゼンを低評価にすることがある)ため、整合性はあっても根拠が欠如したプレゼンが増えています。
「曖昧な合意」や「性能の証明」も根拠の欠如の一つの形態です。
・曖昧な合意:聞き手の想像に任せ根拠が無いもの(想像)
根拠を保つために、根拠の成立にとって肝心な部分を具体的にしないままのプレゼンがあります。
発表者が意図せず具体的になっていない、ということもありますが、根拠が明確になっていないことで、過小評価や過大評価の両方が起きます。
根拠に当たる部分を取り違えて評価するだけではなく、論理が成り立たず、実は提案自体が成り立っていないということも起きます。
・性能の証明:製品サービスの説明に特化したもの(型録)
モノやコトについて、客観的な説明を詳細に行うことで、間違いが無い説明になっているものがあります。
論文として発表されているものや知財が取得されているものを元にしている場合に多く見受けられます。
機能や性能が証明されていることから、その点で異論は無いのですが、証明していることが論旨ではないので、提案として成り立っていないことになります。
「強みの欠如」:提供するものは有るが唯一無二のものが無い(無用)
根拠の欠如とは違い、提案が成り立っているにも関わらず、目的を果たさないものです。
提案する内容は有るのでプレゼンと言えないことは無いですが、結果が出ないプレゼンであれば、意味が無いと言えるでしょう。
強みを発見し提案することが重要で、解決策がありきたりであれば、その提案が選択されることはありません。
「多数派の意見」や「弱者の意見」も強みの欠如の一つの形態です。
・多数派の意見:世間的な問題だが解決策が優れていない(衆愚)
賛成票を得ることを期待できる、多くの人にとって判りやすい提案にすることで、根拠があり具体的であっても、解決策が凡庸なものがあります。
常識的に評価されることを狙える利点があるのですが、ありふれた提案を、改めてすることになってしまいます。
提案自体には間違いが無いため、大きく減点されないままの評価を受けやすいですが、既にある解決策と比較してみると、必要性が無いことになります。
・弱者の意見:問題に焦点を当てているだけで抜本的には解決しない(手当)
反対票が投じられにくい、多くの人に応援してもらえる問題を課題にしただけになり、解決策が具体的であっても、根拠が貧弱なものがあります。
解決策が目新しいだけで、実現方法の具体性が乏しくても、少しでも解決につながればという応援で加点されることがあり、その時点では成功したように見えますが、結果的に解決策としては乏しく、提案は成功していないということになります。
最近のプレゼンの多くで、「根拠の欠如(曖昧な合意・性能の証明)」と、「強みの欠如(多数派の意見・弱者の意見)」が増えてきています。
それは、人を感動させる稀なプレゼンではなく、なるべく多くの人が理解できるプレゼンを、参考にしているからだと感じます。
プレゼンを教える講師が、基本や応用と呼んでいる構成や、形式化したフォーマットを覚えさせて、それを優れたプレゼンだと評価していることが原因になっていますし、AIの活用を促す中で、先ずはAIに作成させて最終的に全体調整をするのが鉄則としている間違いが、問題を根深くしていると思います。
これらは閉鎖的な空間で人が行なっていることなので、検証できるような情報は無く、これからも放置されていくのではと思いますが、良いとされる教育手法を何度も繰り返したり、それを真似る形で拡散され繰り返されているわけなので、AIを研究する中で見出されたモデル崩壊(Model Collapse)と同じことが、特別なことではなく、日常的に起きているのではないかと感じています。
大事にすべきなのは、伝えるべきコンテクスト(状況,脈絡,文脈)だということに、あらためて気づくことと私は考えています。
「説明は成り立つが整合性だけしか無い」プレゼンは、講師との壁打ちで出来上がったプレゼンで多くありましたが、「提供するものは有るが唯一無二のものが無い」プレゼンが、AIを使うことによって更に増えていくことでしょう。
ピッチの審査員をする機会がある時に、私が意識することが多い残念なパターン「根拠の欠如」と「強みの欠如」のプレゼンが、これ以上に広まることがなくなり、プレゼンテーションが、単に理解され「感心」してもらうことに留まらず、納得感を与えて「共感」・「同感」を得ることに成功し、行動につながる「感動」を生む時間になって欲しいと考えています。
©️2026 Mikio Kousaka


プレゼンでの資金調達や意見の採用にあたり、「多数派の意見」や「弱者の意見」が弱いとされるならば、「一部の強者」に向けているわけで、やはり資本家やシステムのいくら儲けられるかを共感や感動ときれいに呼んでいるだけなんではないでしょうか?