第二節 旅籠飯

 東の国境くにざかいまでの距離は、直線でおよそ八里(三十二キロ)。実際に歩く距離としては、十里(四十キロ)ほどか。

 飛脚並みに健脚ならば一日で踏破できる距離である。

 そしてこの三人、健脚も健脚である。愁慈郎と朽梨は山生まれ山育ちであり、銀夜は遠い国から歩き倒してきた男だ。

 とはいえ、十八日のその日は残り二里半(十キロ)手前で旅籠に泊まり、休むことにした。

 奉公人がたらいを持ってきて、ぬるま湯で足を洗いでくれる。

 泥や砂にまみれた足で框を上がってほしくないし、また、こうした奉仕・もてなしは旅籠の一般的な振る舞いの一つである。


 時刻はまだ申の上刻(午後三時)。

 銀夜は「そこらぶらっとしてくるわ」と言って、猫の姿に化けると窓から飛び出していった。

 すぐに外から、女子おなごの「猫さんだ」「水菓子(果物)たべる?」という黄色い声が聞こえてくる。


「私は先に湯を浴びてくる」

「じゃあ、俺はここにいるよ」

 朽梨は荷物と杖を置いて、一応、儀礼的な意味合いの強い道中差しだけを帯びて部屋を出ていった。

 八畳一間の普通の部屋だ。二階で、街道沿いである。

 往来は人が絶えない。

 薬売りが「大蛇の皮焼きを粉末にした丸薬だよ! 精力横溢間違いなし! お世継ぎをもうけるならこれしかないよ!」と言いながら、蛇粉の丸薬を売り歩いている。

 天嵐国てんらんのくにには、蛇は不老長寿、そして幸福の象徴とするほか、水の神――転じて、生命力の象徴とする考えが根強い。

 つまり、「長生きする子供を授からせてくれる」という考え方をする。

 蛇粉丸薬は、十分以上に、精力剤として売れるものだった。


 愁慈郎は今十八歳。長生きで、生殖適齢期の長い妖怪だが、そのせいか毎晩のようにまぐわっても早々子供はできない。

 なので、若いうちからせっせと子作りに励むのは、妖怪も人間も同じである。

 そしてこの時代、十四、十五で初婚して初産が普通だ。二十歳もすぎれば年増である。


「あんまり考えたことなかったけど、子供、か」

 己の血を残したい――というよりは、可愛らしい我が子を手に抱きしめ、妻となる好い人と余生を過ごしたい、という気持ちは大いにあった。


 愁慈郎は物心つい頃には獣狩である両親の仕事を手伝っていた。

 赤不浄、黒不浄、すなわち血の穢れと骸の穢れを一身に浴びる「穢多」である。

 が、穢多とは「汚い、穢れた人」という意味ではない。

「穢れを引き受ける、特別な者」として、ありがたがられこそすれ、後ろ指を指される存在ではなかった。


 愁慈郎は、そういう意味では「貴種」といえなくもなかった。すくなくとも、「普通の庶民」ではない。

 そして「穢れを引き受け浄化する」、「浄め」の血筋である獣狩は、武家やなんかのような血なまぐさい家からは、「ぜひうちに来てくれ」と言われるような家柄だった。

(何考えてんだ俺は)

 愁慈郎は苦笑した。


 なお――。

 朽梨は何度か触れているとおり、華麗なる一族・梟福殿の次女である。

 長男・玄志郎(玄慈)は神の座につき、長女は神使隊の元締め。次兄は城主。妹の楠姫に関しても、じつは仁嵯城主の仁嵯健仁朗にんじけんじろうとの婚約が内定している。来年には祝言を挙げるらしい。

 生まれながらに無骨で武人気質の朽梨は、武功に焦るばかりで、その剣幕もあって美女でありながら男が寄ってこない。

 いろいろな意味で、焦っているが――。

 その焦りを、腐らせずに鍛錬の燃料にしていた。ゆえに、彼女は二年目には武の神使隊として抜擢されるなど、実はちゃんと出世の道を歩んでいるのである。


 よくわからないのが銀夜だ。

 彼の両親は、玄志郎の朋輩らしいが――?


「よう愁慈郎」

 銀夜がひょいと窓枠に登り、畳に降りた。

 変化を解く。咥えているのは干鰯である。山国のここでは取れない魚だが、干魚ほしうおは、たまに見る。


「おいっバカ、そんなもの持ってくるな!」

「なに? 俺、なんか憑いとるか……?」

「咥えてんだろ」

「魚やん」

 銀夜はもっしゃもっしゃと干鰯を咀嚼し、飲み込んだ。

「御婦人にな、もろてん。なんかやたらケツを叩かれてな……いやまあ、猫やし、ええけど」


 どうやら銀夜は知らないらしい。

「俺、鬼なんだけど」

「見ればわかる」

「鬼の弱点は知らんらしいけどな」

「……? 酒?」

「誰だって酔い潰されりゃ首を刎ねられるわ。そうじゃない。俺達は干鰯、とくにその頭がだめなんだ。臭いで鼻がもげる」


 銀夜は「そうなん?」と言って、「すまん、次からは気をつけるわ」と謝った。

 鰯の頭も信心から。

 有名なこの言葉は、どんなものでもありがたがる者にとっては価値あるもの、という意味である。

 つまり、恐ろしい邪気を払いたい者にとって、鰯の頭は魔除けになる、と思われていたのだ。

 が、鬼である愁慈郎にとってはたまったもんじゃない。


「朽梨は?」

「湯。旅籠のか、湯屋にでもいったんだろ。お前もいけよ」

「わかっとる。けど、俺、猫やぞ」

「見ればわかる」ちょっとした意趣返しだった。

 が、銀夜は気づいていないのか、「猫は水気嫌いやねん」とぼやいていた。

 愁慈郎は、「海の方じゃよくわからんが、山暮らしの異臭は、獣にも気づかれるし、それに万一盗賊に出くわしたら、嗅ぎつけられるぞ」と釘を差しておいた。


 結局、愁慈郎が嫌がる銀夜を引っ掴んで、湯屋につれていくことになるのだった。




 旅籠の飯は、山国特有の天狗うどんだった。

 山菜と茸をたっぷり使ったうどんである。

 とにかくその日取れた山の幸を天ぷらにし、つゆにひたひたくたくたにして食べるのが特徴だ。

 なお、実世界では西洋から伝わった文化が訛って天ぷらとなったのが通説である。

 この魅大陸に伝わる話では、どうも天からふらりと降りてきた仏が伝えたから、天ぷらというらしかった。


 ともあれ。

 天狗うどんは腹持ちが良く、血の気を用いていないため、天狗だけでなく、肉を苦手とするものにも好まれていた。

 正直愁慈郎と銀夜は「肉が欲しい」ところだったが、旅籠側が朽梨を見て配慮したのだろう。そうとわかって、横槍を入れるほど彼らも子供ではない。


「美味だ。疲れた体に沁みる」

 朽梨はご満悦らしい。あれだけ首を刎ねるだの何だの物騒なことを言う彼女だが、やはり、血を見るのは好きではないのだろう。

 愁慈郎は貧乏徳利一杯の酒をもらっていた。

 朽梨は「下戸だ」といって断っていた。

 ちなみに銀夜は「酒気は好かん」といって、やはり断っている。

 銀夜の母は霧島銀乃である。

 ――偶然ではなければ、一鉄齋の妻・霧島銀乃は忍びだが……。

 やはりこの男は、れっきとした乱破(忍び)だろうか。


 結局愁慈郎は一人手酌で酒を飲んでいた。なんだかわびしい気もするが、しかし三者みなが酔うわけにもいかぬというのも、わかる。

 致し方無し、と思い、愁慈郎は寝酒程度の酔いにとどめた。

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