カルマとは未熟さに対する代償 | 日々の雑事の哲学的解釈

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カルマの法則というと、「他人にしたことは自分に返ってくる」という教えが一般的だ。もちろんこれは正しい。シュタイナーも、死後に人間は寿命の1/3の時間をかけて、自分が他人や動物に与えた全ての感情や痛みを追体験すると言っている。(これは僕も怖い)

が、少しカルマに対して誤解がある。カルマとは、作用反作用の法則みたいに言われているが、どちらかというと、質量保存の法則みたいなものだ。未熟な魂のまま背伸びして立派になろうとしても、当然苦しい。自分の魂に、自分の理想に比べて足りない所がある時、欠乏感を感じて魂は苦しむ。そしてそれは、認識能力が未熟、という言い方をしてもいい。

人の悪口を言う場合を考えてみよう。人の悪口を言うとは、どんな場合だろうか。例えば、「あいつは性格が悪い」とか「あいつは人間的におかしい」とかである。だが、言ってはなんだが、地上に性格が悪くない人間なんかいないだろうし、おかしくない人間なんかいないのだ。もし誰かが性格が悪いと感じるなら、それは単に自分との育った環境の違いや、親の教育、学校の雰囲気、部活動、習い事、娯楽、職業、性別…そんなものから生じる違いであることが殆どだ。要するに、自分が人間や世界について知ってることが少ないから。人間の思考と感情について認識する力が未熟だから、自分を苛立たせる人間に対して、「性格が悪い」と短絡的な判断しか出来なくなる。そして、他人にそれを同意して自分を高めてもらおうという卑しい心から、「あいつ性格悪いよな」なんて悪口・噂話に走るのだ。

で、この場合カルマはどんな風に返るのかと言うと、認識能力の低い魂の力が仇となって、魂が理想の利他的な存在へ向かおうとする時、真実が見えなくなり躓く。例えば、人の悪口を言っていたのに、「私は世の中の役に立つ立派な人間になりたい」なんて言って、誰かに揚げ足を取られたりする…みたいな形でカルマが返る。イエスが言う所の、「神とサタンに同時に仕えることは出来ない」だ。サタンに仕えたまま神に仕えようとすると、自分の魂自身が、未熟さを克服するための困難を引き寄せると言っていい。

シュタイナーは、カルマを「懲罰のような恐ろしいもの」ではなく、「未熟さを克服させくれる有難い存在」と考えるように言っている。つまり、カルマが返ったと感じた時、過去を悔いるより、未来に希望を持つことが大切と言いたいのだろう。確かに世間一般のカルマという言葉のイメージには、懲罰的な救いのなさのイメージがある。しかし実際は、自分自身の魂の成長しようとする意思が引き寄せるものとも言える。先の例で悪口を言う人も、立派になりたいという理想があったからこそ、カルマを引き寄せたと言える。これは、人が年を取って他人の痛みが分かるようになるほど、病気になりやすくなるのに似ている。若い頃は好き勝手振舞って、でも老人になると、優しい人間になりたいという向上心が生まれる。その向上心が、病気という試練を現象化させると言っていい。

だから少なくとも生前は、カルマは恐ろしいものと考える必要はないのではないだろうか。それでも「ある程度」の抑止力のためには、世間一般のカルマのイメージも大切であろうが。

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