『Time of Ring』(第九稿)Part.5
第五幕:神の大陸
グレイたちから託された涙滴型の転移艇は、
音もなく時空の壁を滑り抜けた。
向かった先は、
グレイの祖先である超人類『アヌンナキ』が
全盛期を誇った時代——
現代から数えて約二万年後の未来、
大西洋上に浮かぶ巨大な超大陸アトランティスだ。
ハッチが開き、大地と水原が足を踏み出したそこは、
白亜の大理石と反重力水路で構成された、
息を呑むほど美しい幾何学的な都市だった。
だが、その楽園は
すでに崩壊の真っ只中にあった。
激しい地殻変動により、
都市を支える基盤が
次々と海へと崩れ落ちている。
都市はパニックに陥っているかと思いきや、
大地の目に飛び込んできたのは
異様なまでに統制された光景だった。
アヌンナキの市民たちは、
一切の悲鳴を上げず、
中央指令の誘導に従って
脱出船へと整然と歩みを進めている。
道中、崩れ落ちた瓦礫の下敷きになった者がいても、
誰も助けようとしない。
「負傷者の救出は、
全体の脱出効率を数パーセント低下させる」
——そんな冷徹な共通認識が、
彼らの間にすでに根付いていた。
のちのグレイたちが持つ「感情の排除」の萌芽が、
この美しい都市を冷たく支配していたのだ。
大地は都市の中央にそびえる神殿へと向かった。
アヌンナキの指導層を転移艇に乗せて逃がすためだ。
だが、神殿の最奥に足を踏み入れた大地は、
壁面に彫られた巨大なレリーフを見て息を呑んだ。
アヌンナキに文明の基礎を授けたとされる
「初代皇帝」の顔。
それは、無精髭を生やし、
厳しい目を向けた「久我山大地」
そのものの顔だったのだ。
自分が歴史を変えに来たのではなく、
自分が過去に介入すること自体が、
すでに彼らの歴史の根幹として刻み込まれていたという、
パラドックスのめまいが大地の脳を揺らした。
「そこのあなた! 逃げないのですか!」
レリーフの前で立ち尽くす大地に、
一人の若い女性が声をかけた。
彼女の名はセリア。
アヌンナキの中でも下位階層の侍女だった。
彼女は、この冷徹な社会の中で唯一、
瓦礫に潰された記録板を
「無駄」と知りながらも
必死に掘り起こそうとしていた。
大地はセリアの腕を掴み、
神殿の奥にいた指導者エンリルたちを強引に引き連れて、
転移艇へと走り込んだ。
「全システム、最大推力!
時代を跳躍する!」
水原がコンソールを叩き、
アトランティスが完全に海へ沈む直前、
転移艇は虚数空間へとダイブした。
だが、艦内に不快なアラートが鳴り響く。
「……まずいわ。
アトランティスの地殻崩壊のエネルギーが、
転移座標の計算に干渉している!」
水原が必死に制御を試みるが、
計器の数値が狂ったように回転する。
強烈な衝撃と共に、
転移艇は実数空間へと叩き出された。
窓の外に見えたのは、
別の星でも、未来の地球でもない。
鬱蒼とした緑と、
二本の大河が流れる未開の地だった。
「現在座標、紀元前一万年……
古代メソポタミアよ!」
水原が顔面を蒼白にして告げた。
水原の操作ミスにより、
彼らはアヌンナキの指導層とセリアを、
過去の地球に置き去りにする形で
不時着させてしまったのだ。
転移艇のエネルギーは枯渇し、
ここからさらに別の時代へ飛ぶ余力は
残されていなかった。
立ち往生したエンリルたちは、
己の高度な技術を用いて、
この未開の地の原始人類たちを
容赦なく武力で平定した。
彼らは巨大な宇宙船兼神殿である
『ジッグラト』を建造させ、
自らを「神」とする
冷酷な神権政治を敷いたのだ。
効率のみを追求するアトランティスの冷徹さは、
そのまま原始人類への無慈悲な搾取へと直結していた。
それから数年の月日が流れ、
大地たちはエンリルたちが
エネルギーを充填するのを待ち続けていた。
だが、その古代メソポタミアの地に、
氷河期の融解による
全地球規模の大洪水が迫り来る。
空を覆う豪雨と濁流を前に、
エンリルは冷たく宣告を下した。
「我らは新天地(火星)へ向かう。
資源は限られている。
進化の遅れたこの野蛮な猿どもを
乗せる余地はない。」
タラップの下で、
アヌンナキの神殿建造のために
奴隷として酷使されてきた原始人類たちが、
絶望的な叫び声を上げる。
大地がタラップを駆け上がろうとしたその時、
地響きが足元を激しく揺らした。
地平線の彼方から、
すべてを飲み込む漆黒の壁——
大津波の第一波が迫ってきている。
そして、その前兆として押し寄せた
巨大な土砂と無数の大木の残骸が、
濁流と共にジッグラトの基部を直撃した。
鈍い金属音が響き、黄金の箱舟が大きく傾く。
発進のための巨大なスラスター群が、
泥と幾重にも絡み合った大木によって
完全に塞がれてしまったのだ。
エンリルが激昂し、
プラズマの閃光で大木を焼き払おうとする。
だが、水分をたっぷりと含んだ分厚い泥と巨木の壁は、
表面が焦げるだけでびくともしない。
アヌンナキの持つ高度なテクノロジーを以てしても、
この泥臭く物理的な障害を取り除くことは不可能だった。
「神の力」という圧倒的な権威が、
泥の海の前でただ立ち尽くしている。
大地は、無言で泥の中へ飛び込んだ。
そして、スラスターに絡みついた大木に取り付き、
素手で泥を掻き出し始めた。
だが、人間の力一人で動く重さではない。
大地はタラップの上を見上げた。
アヌンナキと人間の両方の言葉を解する
侍女・セリアと目が合う。
「このままじゃ全員死ぬぞ!」
セリアはタラップの前に進み出ると、
原始人類たちに向かって
彼らの言葉で叫んだ。
神は万能ではない。
今、あの船を動かすには、
お前たちの手が必要なのだと。
原始人類たちは動きを止めた。
彼らの目に映っていたのは、
もはや絶対的な支配者ではなく、
自分たちと同じように
泥の前で無力な生存者の姿だった。
一人が、大地の隣に立って
大木を押し始めた。
それに続くように、
次々と人間たちが
泥の中へ飛び込んでいく。
彼らは圧倒的な体力と数の暴力で、
スラスターを塞ぐ残骸を排除し始めた。
「……第3バイパスの物理バルブへ回れ!!
木を退けたらすぐに絶縁ケーブルを巻き付けろ!」
極限の恐怖を前に、
エンリルもまた、
泥水に足を踏み入れて怒鳴りつけた。
セリアがその技術的な指示を翻訳し、
原始人類たちが無数の手を使って泥を掻き出し、
物理的に重いパーツをこじ開けていく。
濁流がジッグラトの基部を
完全に飲み込もうとしたその瞬間——
泥を払い落とされた巨大なブースターから、
強烈なプラズマの炎が噴き出した。
黄金の箱舟は、
すべてを飲み込む大津波を
間一髪で回避し、
大空へと舞い上がった。
大地と水原は、
転移艇の中から
その光景を見届けていた。
共に泥を掻き出し、
手を取り合った彼らが向かう火星。
そこには
感情を完全に捨て去るような悲惨な未来は
もう待っていないはずだ。
「これで歴史は新しい軌道に乗った。」
大地は泥だらけの手でコンソールを操作し、
現代(2136年)への帰還座標を入力した。


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