アイマスPがアイドルマスターと地下アイドルのライブを比較した。
1.はじめに
筆者は最近、アイドルマスター(以下アイマス)のプロデューサー(ファン)としてアイマスのライブと、地下アイドルのライブの違いを探るために、フィールドワークとして実際のアイドル現場に足を運んでいる。
本日のフィールドワークは無銭ライブです。
— gobu(KU) (@konbanya81) May 29, 2026
フォロワーさんに誘っていただきました。
感謝。 pic.twitter.com/oJZL6fHVtc
今回は、フィールドワークの中で体験したことや、地下アイドルのファンの方との会話の中で得たライブの知見などをもとに、アイマスPである筆者が考えるところのアイマスのライブと、地下アイドルのライブの比較を試みたい。
【追記】2026/06/04
このnoteで示すモデルは、アイマスと地下アイドルの比較だけを持って一般化し、アイマス以外の声優ライブ(『ラブライブ!』や『ウマ娘』『アイドリッシュセブン』など)や、地下以外のアイドルのライブ(ハロプロやAKB系列、K-POPなど)にモデルを当てはめていこうものではない。
また、強いてアイマスと地下アイドルを比較したのには、『5.おわりに』で示すような個人的な事情もあるのだが、ライブの文化が違うものを比べることで浮き彫りになるものがあるのではないかと考えたからである。
この点、筆者が書き落とし、改めてここに書き加えることをお詫びする。
2.アイドルマスターのライブの仮説モデル
「『アイドルマスター』シリーズは、プレーヤーが“プロデューサー”という立場でアイドルを育成する「アイドルプロデュース」ゲームコンテンツで」ある(アイドルマスター公式サイトより)。
ゲームだけでなく、ライブイベント、楽曲CD、テレビアニメなどその展開は多岐にわたる。
中でも、アイマスのライブでは、アイドルを演じる声優がゲーム内に登場する衣装を身にまとい、作中のアイドルさながらの歌とダンスを披露する。
その姿は、まるで作中のアイドルが現実に現れたかのような感動を観客に与える。
そのライブにおいて表現され、観客が楽しんでいるのは、「『アイドルマスター』というフィクション作品の世界のライブ」の再現であると同時に、ファンの中で理想化された「アイマスのライブ」の体現でもある。
前者は、ゲームでアイドルが踊るダンスと全く同じ振り付けを声優が踊ることや、ゲームにおける到達点であるドームライブを現実でも達成した『MOIW2015』や『MOIW2023』など、まさにフィクションの再現としてのライブである。
一方、後者はこれまでの歴史で積み重ねられてきたアイマスの世界や、ライブの"イメージ"の総体としての理想を体現するライブである。
それはゲームやアニメで描かれたものを──漫画の実写ドラマのように──そのまま声優の身体で再現するようなものではない。
そこで描かれているのは、「アイマスらしい」「アイマスのキャラクターや物語を感じさせる」といった理念的なものだ。
実際のライブの多くは後者に近いが、両者は排他的なものではなく、程度の差はあれ多くのライブに両方の側面が混在している。
そこで本noteではこの2つの側面を区別せず、まとめて「アイマス世界のライブ」と呼ぶことにする。
ところで、「アイマス世界のライブ」を生み出すのに必要な存在は一体何であろうか。
もちろん会場や音響機器などもそうだが、ここで確認しておきたい存在は──全て「作中の」という言葉がつく──「アイドル」「プロデューサー」そして「ファン」である。
「アイドル」はアイマスにおけるプロデューサーに並ぶ主人公である。
アイマスという作品の中核をなしており、ライブにおいても主役となる。
「プロデューサー」はアイマスにおいては通常ユーザーの分身であり、その姿は「アイドルを導き、ステージで輝くアイドルを見守る存在」として描かれる。
現実のライブであれば、あまり意識されない裏方の存在ではあるが、プロデューサーとアイドルの物語が描かれるところがアイマスの醍醐味である。
「ファン」はそのままアイドルを応援する消費者なのだが、アイマスにおいてはほとんど描かれる存在ではなく、ユーザーの分身でもない。
しかし、ライブというものにおいて、観客つまり「ファン」の存在を想定しないライブは基本的にありえない。
そして、現実のアイドルのライブ同様に「ステージでファンの声援を受けて輝くアイドル」という構図は、「アイマス世界のライブ」でも求められるものであろう。
ゆえに、「ファン」も「アイドル」と「プロデューサー」同様にライブに必要な存在と思われる。
そこで、本稿では、「アイドル」「プロデューサー」「ファン」3つの存在が、アイマス世界のライブの基本的な要素であるとして、次のようなモデルにまとめた。
以下、このモデルに基づき、声優が「アイドル」を、観客が「プロデューサー」と「ファン」を表していることを考察していく。
2-1.声優が表現する「アイドル」
『アイドルマスター』はフィクション作品であり、「作中のアイドル」は当然に実在しない。
現実にステージでパフォーマンスをするのは声優で、声優はアイマスの「作中のアイドル」ではない。
あくまで声優として──自己紹介で「私は天海春香役の中村繪里子です」と名乗るように──ステージに立っている。
それでも観客が声優のパフォーマンスに「作中のアイドル」の存在を感じ、時にアイドルの成長や物語さえも感じるのはなぜだろうか。
それは、ステージ上で声優が「作中のアイドル」や物語を意識したパフォーマンスを行うことで、声優が「作中のアイドル」の表象となるからである。
【追記】2026/06/04
>声優が「作中のアイドル」の表象となるからである。
この記述について、筆者は当初、声優の存在がそのまま表象となるようなイメージを持っていたが、MCの時には全くキャラクターとして振る舞わないことを考えれば、(最終的な診断は保留するが)実際に表象となるのはむしろ「声優のパフォーマンス」であり、「パフォーマンスをする声優」と言うべきかもしれない。
ただ、本noteの記述については概ね、「パフォーマンスをする声優」という意図で書かれているものが多く、基本的な理解に影響はないかと思われる。
表象(Representation)について軽く説明をする。
表象は学問分野によって微妙に使い方が異なるのだが、ここでの理解としては「そこにない何かを想像させるモノ」と考えていただきたい。
例えば、ここに「りんごの画像」がある。
多くの人はこれをみて「りんご」だと思うだろう。
しかし、これは実際には本物の「りんご」ではない。
ここにあるのは「りんごのイラスト」であり、さらに言うなら「PCあるいはスマートフォンの画面上に、ほぼ円形に配置された赤、緑、黒の色の集合」である。
それでも、我々がこれを見て「りんご」だと認識できるのは、この画像が本物の「りんご」を表し、見る者に「りんご」を想像させるからである。
この時、この画像は「りんごの表象」であると言える。
これと同様に、アイマスのライブにおいて、声優は「作中のアイドル」の表象である。
そして、そのパフォーマンスは「作中のアイドル」のパフォーマンスとして観客の中に想像され、さらにその想像を声優に重ね合わせることで、パフォーマンスする声優を「作中のアイドル」のように感じ、具体的な体験としているのだ。
ライブへの向き合い方は声優によって違うが、ゲームやアニメの中で描かれた「アイマス」や「アイドル」の物語、キャラクターの想いや関係性を表そうとするパフォーマンスであることは一貫している。
この時注意したいのは、声優は「作中のアイドル」の表象として鑑賞されると同時に、現実のパフォーマーとしても鑑賞されることである。
例えば、「我那覇響役の沼倉愛美」のパフォーマンスを鑑賞する際、観客はそのパフォーマンスから我那覇響の魅力、歌やダンスのスキルといったものを想像して楽しむだけでなく、沼倉愛美自身の魅力、歌やダンスのスキルも同時に鑑賞し楽しんでいる。
その意味では、現実の声優への愛着や声援もまた、アイマスのライブの価値の1つであることは当然だが、全体としてはそれらも含めて「アイマス世界のライブ」の体現につながっていくものだろう。
もっと別な例で言えば、シェイクスピア劇の『ハムレット』を鑑賞する際に、「ハムレット」という虚構のキャラクターの人格や物語を楽しむとともに、「ハムレット」を演じている俳優の容姿や技量をも劇の一部として楽しむことは当然のことである。
2-2.観客が表している「プロデューサー」と「ファン」
声優が「作中のアイドル」となるべき存在であるなら、もう一方の観客はどんな存在であろうか。
まず第一には「作中のプロデューサー」であろう。
現実のアイマスのファンは、基本的にはプロデューサーというファンネームで互いを呼び合い、ゲームやSNS上で自らのユーザーネームを「〇〇P(ピー)」としていることが多い。
それはアイマスというコンテンツのファンであるというアイデンティティの表明であると同時に、「作中のプロデューサーである」という意思表示でもある。
つまり、ライブで声優が観客に向かって「プロデューサーさん」と呼びかけ、それに観客が応答することは、観客が「コンテンツのファン」であることの他に、「作中のプロデューサー」という役を自らに引き受け、「作中のプロデューサー」の表象となることを引き受けることである。
しかし、観客が表しているのは「作中のプロデューサー」だけではない。
筆者の考えでは、観客は「作中のプロデューサー」であると同時に、「作中のファン」の表象でもあるのだ。
また、それは同時に理念的な意味での「アイマス世界のライブ」における「ファン」であることも示している。
前述の通り、「アイマス世界のライブ」において、「ファン」の存在は欠かせないものであるが、決して「プロデューサー」のように作中においてユーザーの分身となるような存在ではない。
さらに言えば、多くの観客は自分が「ファン」であるという意識を持ってライブ会場に足を運んでいるわけではあるまい。
それでは、「アイマス世界のライブ」における「ファン」の存在は誰によって、如何にして表れるのであろうか。
筆者の考えでは、それはやはり観客によってであり、特にその外見と振る舞いによってである。
例えば、アイマス公式チャンネルでライブの感想配信をしているAPかっしーの法被姿やライブのTシャツを身に着けた姿は、実際アイマスのライブ会場でよく見られる観客の姿である。
これはプロデューサーというより一般的な意味においてのファンの姿である。
このような観客の姿は、古くは80年代的な親衛隊のいで立ちに端を発したもので、今でも現実のアイドルのライブ会場でも見ることが出来る。
そして、彼らが現実にアイドルのファンであることは間違いない。
また、かっしーが身につけている法被やTシャツは全てアイマスの公式グッズであり、その意味ではアイマスというコンテンツ自体が観客にファンとして振る舞うことを求めていると言ってもいいだろう。
あるいは、アイマスの作中においても、アニメ『アイドルマスター』18話に登場する秋月律子の「ファン」である「プチピーマンさん」というキャラクターの、法被とハチマキを身に着け、律子に声援を送る姿はを思い返しても良い。
その姿はまさにファンの姿であり、「プチピーマンさん」の姿を、実際のアイマスのライブの観客に重ねることは容易にできるだろう。
このように、アイマスのライブに来る観客の姿は、現実の世界についても、アイマスの作中についてもまさに「ファン」の姿と重なるものであり、「アイマス世界のライブ」における「ファン」の想像を促している。
また、筆者の考えでは、観客が「ファン」の想像を促すのは、観客一人ひとりとしてではなく、観客が集まって1つの集団として存在している時である。
一人ひとりの意識はアイドルを見守る「プロデューサー」であっても、ファンらしい格好をして、ファンのように声援を送る観客"たち"に紛れ込み、ライブの空間の中で1つの集団として存在する時、まさに「多くのファン」の表象となるのだ。
この時、観客はお互いを見て「ファン」として認識すると言うよりは、お互いを「ファン」として感じていると言ったほうが適切であろう。
それは野球場にいる人々を、実際の事情は別にして何となく球団のファンだと感じるようなものである。
これは現実のアイドルのライブではありえないことである。
現実のアイドルのライブでは、ファンの目線から「多くのファン」が空間におり、「アイドルが声援を受けて輝く」姿が見られれば充分であり、そこに「プロデューサーに見守られながらライブに挑むアイドル」の姿は必要ない。
しかし、アイマスが「アイドルとプロデューサーの物語」を描いており、プロデューサーがユーザーの分身である以上は、「プロデューサーに見守られながらライブに挑むアイドル」の姿が想像できないものは「アイマス世界のライブ」たりえない。
そして同時に、虚構にせよアイドルのライブである以上は「多くのファン」がライブの空間にいて、「アイドルが声援を受けて輝いている」というアイドル一般の理想像が、「アイマス世界のライブ」でも描かれないといけない。
そのため、観客は作中のプロデューサーの役を引き受け、「プロデューサーさん」という呼びかけに応えるような物語的な文脈において「プロデューサー」であり、ライブでそれらしい格好をしてアイドルに声援を送るような外見や振る舞いの文脈において「ファン」であるという2つの側面をライブの中で発揮する。
それによって、「プロデューサーに見守られながら、多くのファンの声援を受けて輝くアイドル」という理想的な光景、ひいては「アイマス世界のライブ」の成立に貢献しているのだ。
アイマスのファンの間で「(アイマスのライブにおいて)プロデューサーは舞台装置」と語られることがあるが、「アイマス世界のライブ」の想像を促すための重要な要素となっているという意味では、あながち間違った話でもない。
何より、そのような考察をするまでもなく、アイマスのゲームにおいて「最初のファン」は「プロデューサー」つまりユーザーとなっていることは、その両面性の表れであろう(※1)。
※1:この点、伊集院北斗役の神原大地の「ライブをやるときは当然アイドルとして出演しているから、自分はみんなをエンジェルちゃん(作中の伊集院北斗のファンのこと/筆者注)として考えていて、ライブの会場のどこかにプロデューサーがひとりだけいるという認識でいる」という発言は、観客の二面性に対する考え方として示唆的である。
神原大地の見方ではまさに、観客は「多くのエンジェルちゃん(ファン)」であると同時に、「たった1人のプロデューサー」でもあるのだ。
2-3.アイマスの様式的な応援文化が求めるもの
アイマスのライブにおいて、観客は「プロデューサー」と「ファン」という2つの側面を持つ表象であり、観客はお互いを「アイマス世界のライブ」の想像の構成要素としている。
この時、「プロデューサー」であり「ファン」である観客はひとつの表象であり、俳優が舞台でその物語に見合った振る舞いを求められるように「アイマスの世界のライブ」に見合った振る舞いを求められる。
それは具体的には、ライブのルールやマナーを遵守することであり、声を揃えたコールの再現などの様式化された振る舞いである。
それは時に、ライブ中の私語や、決まったコールのないところでの大声などを嫌う、時に厳しすぎると言われるほどの抑制的な態度を求めもする。
ただ、ここで問題となるのは、なぜ様式化された振る舞いが「アイマスの世界のライブ」に見合っていると判断されるのだろうかという問題である。
この点については、本来であればアイマスの応援文化の歴史的な変遷を踏まえた議論すべきところではある。
特に、ネット上では「ごく初期のアイマスのライブではジャンプやMIXが禁止されていなかった」という言説が散見されることもあり、今のような様式化された振る舞いがアイマスの世界に見合っているという判断は、現在時点からの判断に過ぎないかもしれない。
そこで、ここでは一旦、現在においては様式化された応援文化がファンの間で受容され、それが「アイマスのライブ」らしさとされていることを確認するにとどめておく。
様式化された応援文化がファンの間で受容されている例で言えば、ファンコミュニティでは、「コール本」の文化は注目に値するだろう。
コール本は、ライブにおける楽曲のコールを事前に共有するものとして、アーケード版『アイドルマスター』稼働して間もなくの2006年から現在に至るまで有志によって受け継がれている。
アイマスエキスポ Day2
— MillionliveCalls (@imas_ml_calls) November 24, 2024
O-04a MillionliveCalls企画
にて
アイマスライブ関係で無料配布されてきた数々のコール本を展示します!
卓上は写真OK、一部立ち読みOK
130種以上
約18年分(アイマスで最初のコール本配布2006/12/22 私はアイドル♡発売記念 Xm@sイベント から 2024/12/15 アイマスEXPO まで) pic.twitter.com/oe8qUoO3PP
コール本はまさに揃ったコールを生み出すものであり、応援の様式化を促している。
また、アイマスのコールは物理的な本の他にも、オンライン上でも確認することが出来る。
直近でも、2025年12月に行われた合同ライブでは、全ブランドのコールガイドをまとめたnoteが作成されるなど、参加者同士でコールを事前に共有し、応援を積極的に様式化することが「アイマスのライブ」のらしさとして受け入れられていることがわかる。
筆者もvα-livのコールガイドをnoteにまとめて掲載しているのだが、vα-livのライブがある際には、アクセス数が伸びており、多くの観客が自分が知らないアイマスのライブのコールを気にしていることが感じられる。
このように、観客はむしろ様式化を望む傾向にあるのだが、それが歴史的に積み上げられてきたものに従うことを良しとしているだけなのか、それとも何か「アイマス世界のライブ」の想像に寄与するものなのかは依然として判断ができない。
強いて言うのであれば、観客の持つ「プロデューサー」という側面における、「見守る存在」としての性格は1つの要因かもしれない。
「見守る」ことは、アイドルから一歩引いた、一定の距離を持たねばできないことである。
そのような一歩引いた「見守る」態度を観客が持つことが、アイマスのライブにおける様式的、抑制的な態度を肯定し、引き出していると考えることも出来るだろう。
そうであるならば、それと相反するような「好きなアイドルを応援したいファン」という性格が重ね合わされて具体化したのが、アイマスの様式的な応援なのであると考えられる。
3.地下アイドルのライブの仮説モデル
3-1.地下アイドルのライブが求めるもの
筆者が3度ほど行った地下アイドルのライブでは、ステージのアイドルのパフォーマンスと、フロアの観客が声を揃えて行うMIXによって、会場全体が高い熱量で一体となるような独自の空間が生まれていた。
さらに、筆者がライブ会場で出会った人や、SNS上の地下アイドルが好きなフォロワーから聴いたところによると、その「一体感」は地下アイドルのライブにおける魅力の1つとされているようである。
デイリーポータルZの以下の記事では、記者のmegayaが地下アイドルをやっている後輩のライブで感じた会場の一体感に圧倒され、自らもヲタ芸を練習して地下アイドルのライブに参加する様子が描かれている。
この中で、ヲタ芸の講師役を務めたぴんきーは
「ヲタ芸がライブにハマったときは、アイドルもファンも『今日のライブは一体感がある!』と感じる日があるんですよ。逆に『今日はあんまり良いライブに出来なかったな』とファンで反省する日もあって。ファンとアイドルが、ヲタ芸を通じて最高に近づく瞬間があるんですよ!」
と、アイドルと観客はヲタ芸やMIXによって生まれる一体感の強さがライブの価値につながることを語っている。
そして、記事の中でライブ実演を務めたアイドルがそれに同意している様子や実際にヲタ芸をやった経験から、megayaは
「地下アイドルのライブに行く理由は『アイドルが好き』というだけでなく、その一体感に魅力があるのかもしれない」
「ヲタ芸をやってライブに参加すると、たしかにアイドルと一緒にライブの雰囲気を作っている気がする。一緒に楽しさを共有している気持ちになれる」
と、アイドルと観客の共同作業により生まれる「一体感」が魅力であることを考察している。
これらのことから、地下アイドルのライブで、アイドルがパフォーマンスによって生み出す重要な価値に、「アイドルと観客の共同作業により生まれる一体感」があると筆者は考える。
その考えのもとに筆者が作成したのが、以下の地下アイドルのライブ仮説モデルである。
当然、筆者は地下アイドルに関してはまだ知識も経験も浅く、この後の考察がアイドルファンにとって不十分であろうことは否めない。
例えば、ライブで披露される楽曲やパフォーマンススキルそのものの魅力や、アイドルの成長物語としてライブを楽しむことなど、「一体感」以外にも注目すべき魅力は多くあるだろう。
しかし、筆者がフィールドワークや実際に話を聞く中で最も強く感じたのは、アイドルと観客がその場で共に、自由に熱量を発揮することで価値を生み出すという地下アイドルのライブの特性であった。
「一体感」は、その地下アイドルの特性を示す例として議論の中心に置くことをご了承されたい。
そして、筆者の観察と、知り合いの話から得た知見によれば、その場で共に生まれる価値、中でも「一体感」は「アイドル-観客」という関係だけではなく、「観客−観客」という関係においても生み出されるものである。
3-2.一体感の起点としてのアイドル
そもそも、ライブを始めるのは常にアイドルである。
誰もいない、音楽もないステージに向かってアイドルが感情を昂らせることは普通はないのであって、そこにアイドルがいなければ、ライブは始まらない。
ゆえに、ライブにおける「一体感」の起点となっているのも、常にアイドルとなる。
では、如何にして、アイドルはライブを始め、「一体感」の生成に寄与するのだろうか。
それは基本的には、音楽に合わせたパフォーマンスとなる。
しかも、そのパフォーマンスは単に決められた歌とダンスを披露するにとどまらず、ファンサ(自身のファン個人に対するアピール)や、ステージの一番前に立って客席を煽るなどの即興を伴うパフォーマンスである。
まさに、それはその場の観客に関わっていこうとするパフォーマンスであり、その場の観客との一体感を、その場で作ろうとするものである。
またパフォーマンスの内容は、MCを挟まずに立て続けにライブパフォーマンスをすることが多く、観客にも尊ばれるようだ。
筆者が話を聞いたアイドルファンは「MCをやるくらいなら曲をやってほしい」ということを話しており、実際、筆者がこれまで見たライブでもMCはほとんどなく、最初と最後に少しある程度であった。
そのような不断のパフォーマンスの連続が尊ばれるのには、観客が感動や興奮、一体感を感じるのは主にパフォーマンスや音楽を通じてであり、MCはその流れを止めてしまうという事情からだろう(※2)。
※2:ただし、それはライブの形式やアイドルの性質にもよるだろう。
例えば、複数のアイドルグループが各20分前後の短い持ち時間で立て続けにパフォーマンスする対バンライブと、1つのアイドルグループが2時間パフォーマンスをするワンマンライブとでは、MCに対する考え方は変わるはずだ。
特に、対バンライブはアイドルが自身の魅力を、他のアイドルのファンに伝える場でもある。
魅力を伝えるための手段として、MCよりパフォーマンスが尊ばれるのは、ライブを中心とする地下アイドルの性質上当然のこととも言える。
また、アイドルと観客の距離が近いことも特徴である。
地下アイドルが主に活動をしているライブハウスは、ドームやアリーナと比べると空間的にも狭く、観客はアイドルの存在をより近くで感じられる。
これもアイドルが生み出す一体感の一因だろう。
このように、近い距離で行われ、その場の観客のための、即興を伴った不断のパフォーマンスによる感動と興奮の連続が、ライブで一体感が生まれる要因となる。
しかし、アイドルが観客の感情を昂らせるだけでは、地下アイドルのライブにおけるアイドルと観客が1つになっていくような強い一体感は生まれない。
感情を昂らせた観客も、アイドルのパフォーマンスに何らかの形で応える必要があり、また観客同士の一体感さえも生み出される必要があるのだ。
3-3.アイドルに応える観客
では、アイドルの即興を含んだ不断のライブパフォーマンスを見た感動を、観客は如何にして表現し、アイドルに応えるのだろうか。
その代表的なものはコールやMIXなどの発声による表現や、ジャンプや振りコピといった身体的な感情表現である。
それらの行為により表現されている感情はアイドルへの愛情であったり、パフォーマンスに対する感動や興奮である。
その感動表現を受けて、アイドルが一層高い熱量でパフォーマンスをし、観客の気持ちに応えることで、また観客が感動や興奮をするという循環が生まれる。
この循環が地下アイドルのライブにおける一体感の基本となるのだが、重要なのは、その循環の動力である「感情表現」をすることは、個人の自由とされていることである。
つまり、地下アイドルのライブにおいては感情が昂ぶった際には──ルールの範囲内であれば──その感情に直感的に反応し、自由に表現することが許されている。
さらに、筆者が知り合いのアイドルファンに聞いた話では、その感情表現は「まず個人のもの」として出発し、行われるようである。
つまり、感情の昂りの表現であるMIXやジャンプは、あくまで個人の、自由で直感的な感情表現なのである。
もっとも、そのような感情表現にも一定のパターンやタイミングがあることは注意したい。
特に、MIXは決まった文言があり、曲のテンポなどによって「MIXを入れられる」か否かの判断がある。
観客はそのパターンを理解しているからこそ、個人のものとして出発した感情表現に共感したファン同士が、その場で即興で連帯することが可能で、自然と感情表現が集団的な行為(声を揃えて行われるMIXや、サークルやリフト、モッシュといったヲタ芸)になる場合があるのだ。
それは図5に示した通り、観客と観客が互いの感情表現に共感し、連帯するという形で相互に影響し合うということである。
集団的な行為となった感情表現は、よりダイナミックな表現となる。
そして、観客はアイドルと同等にライブという空間に大きな盛り上がりと、観客同士の一体感を生み出していく(※3)。
※3:文化人類学者の風間計博は、同じ対象を応援する集団の感情的なつながりについて、次のように指摘する。
「人々が相互作用する場で起こる、感情の高揚や興奮によって、自他を隔てる媒介は除去され、即自的に他者と結合する方向に向かう。『直接的関係』に基づく応援・声援と言う行為は、切り離された個人が瞬時に解放され、応援する集団を一体化させる強い力を生む。」
そして、そこから「高揚をともなう対象への一方的な感情移入」である「感情的結合」が生まれることを指摘している。
風間計博「共感と感情的高揚からみる応援・支援――キリバス人・バナバ人の歌と踊りの事例に基づいて」p55
(青弓社/2020年)
そして、その盛り上がりを受けたアイドルが、さらなるパフォーマンスで応えるという循環の中で、会場全体の「一体感」が生まれるのである。
ただし、強調しておきたいことはその「一体感」は、あくまで個々人の感情の昂りに応じて自然に生まれるべき価値であり、アイドルと観客が強いて一体感を目指してライブに挑んでいるわけではないということである。
あくまで、個人の感情が基本的な単位なのだ。
※4:もっとも、集団的な行為は完全に即興で行われるのではなく、事前にファン同士の間で打ち合わせられたり、顔見知りのファン同士により暗黙の約束事として行われる場合もあるだろう。
しかし、それでもその打ち合わせや約束に従うかを選ぶのは個人の自由である。
また、集団的な行為も曲中で「できる時」と「できない時」があり、一度集団が作られたら、ライブ中それが維持されるという性質ではない。
あくまで、その「できる時」でのみ作られる一時的な集団なのだ。
また、ここで注意したいのは、感情の昂りを表現することが許されているというのは一方で、感情が昂らなければ何もしなくても良い、という意味でもある。
筆者はとあるアイドルが主催する対バンライブに足を運んだ際に、アイドルのパフォーマンス中に携帯を見たり、仲間と雑談をしている観客や、あるいはMIXなどはせずに単にステージを眺めているだけというような観客の姿を見ている。
おそらく彼らにとって、その時ステージにいるアイドルは好みではなく「感情の昂り」を引き起こす存在ではなかったのだろう。
アイドルはかなり熱の入ったパフォーマンスをしていたように見えたが、それに応える義務は観客にはないのである。
※5:ただし、集団で楽しんでいる中で何もしないでただ立って見ているなどの行為は嫌われるようである。
図では便宜上、集団で楽しむ人々が前方にいるが、実際にはヲタ芸をしたい人たちは、むしろ会場の後方に行くなどの棲み分けが、暗黙の了解としてされているようである。
また、その一方でまた別のアイドルの単独ライブに足を運んだ際には、また違った観客の姿を見ている。
そのライブは単独ライブであり、観客の多くはそのアイドルのファンであり、そのアイドルを好む人たちと思われる。
実際、アイドルのパフォーマンスが始まると会場が一体となるような大きな盛り上がりが生まれていたのだが、その中でもジャンプや振りコピをしないでただアイドルを見ているだけの人が少なからずいたのだ。
(もしかしたらMIXしていたかもしれないが、そこまではわからなかった)
そのアイドルを好んでいながら、何もしないというのは、感情が昂ぶってもMIXやジャンプ、ヲタ芸などの形で感情を表現しないということである。
地下アイドルのライブでは「昂ぶった感情を表現しない」ことも許されているのだ。
このような、自由な鑑賞態度が許される空間において、前述のような感情表現をすることは、まさに観客が選択した能動的なライブへの参加である。
自らが自由に選択し、様々な表現でアイドルのパフォーマンスに応える時、観客はただライブを見るだけの存在ではない。
能動的にライブに参加し、アイドルと共に価値を生み出す当事者となるのだ。
観客が当事者となることで、地下アイドルのライブはmegayaが体験したとおりの「アイドルと一緒にライブの雰囲気を作っている気がする」という、共同作業的なものとなるのである(※6)。
※6:アイドルのライブにおけるこのような特徴に対し、ライターの香月孝史は、「ステージ上のパフォーマーと観客とは送り手/受け手と言う単方向の関係あるわけではなく、コミュニケーションの往還が前提になっている」点が、歌舞伎における演者と観客とが未分化な状態であることを指す言葉である「饗宴」との類似を見出す。
そして「当事者性」「リアルタイム性」をもって「アイドルとファンとが時間と場所を分かち合う饗宴は、『現場』に立ち現れると言えるだろう」と指摘する。
(青弓社/2014年)
そして、その日にどんな一体感が生まれるかは、その日の客層やイベントの性質、アイドルの状態などによって大きく左右されるのは当然のことである。
例えば、MIXやヲタ芸に参加する観客が少なければ一体感も小さくなるだろうし、対バンライブのように観客の好みがそもそも異なっていれば、会場全体が一体になることは難しい。
ただ、それは決してネガティブな意味を持たない。
このイベントの性質などの変化する要素も含めて「どんなライブになるかわからない」という不確実さがあることも、地下アイドルの魅力の1つだからだ。
そして、不確実だからこそ、価値はその場限りのものとなるし、その価値はやはり「現場」で起きる、リアルタイムの共同作業に参加しなければ得られないのである(※7)。
※7:メディア文化研究の馬場信彦は、ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」の概念を引用しつつ、「アイドルライブにおける一回性の「場」とリアルタイムな経験は,貴重かつ重要な意味を持ってくる。なぜなら文化に対する能動的な関与は,もはやリアルな「場」でしか行うことができず,アイドルとファンが饗宴するライブハウスの「現場」でしか「アウラ」は感受され得ないのだ」と、アイドルライブの現場にいることの価値を指摘している。
甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第57 号(2021年3月)
この「どんなライブになるか」という未知の価値の集合体には、きっと筆者が浅慮の中で論じてきた「一体感」以外の価値があり、それがアイドルごとに異なる性質を持つであろうことは想像に難くない。
そう考えれば、地下アイドルのライブとは「そのアイドルの現場にしかない価値を見つけるための空間」なのかもしれない。
もっとも、不確実とは言いながら、アイドルやイベントごとにある程度の傾向は見込めるものだとは思われる。
筆者がそのアイドルごとの価値や傾向の違い、そしてさらなる現場にしかない価値を発見できるかはわからないが、今後の観察と研究の課題としたい。
4.アイマスのライブと地下アイドルのライブ比較
このように、アイマスのライブと地下アイドルのライブは、声優やアイドルの振る舞いにおいても、観客の性質や振る舞いにおいても、その構造が大きく異なる。
ところで、アイマスのライブの中でも地下アイドルに関するキーワードとして論じてきた「一体感」を感じることがあるだろう。
しかし、それはライブ空間を共同で作り上げる地下アイドルの「一体感」とは性質がやや異なる。
これまで考察してきたように、アイマスのライブでは、声優だけでなく観客さえも表象として「アイマス世界のライブ」の想像に寄与する存在となる。
つまり、アイマスのライブにおける「一体感」とは、「アイマス世界のライブ」という1つの理想像と価値を全員で共有し、確認し、想像して、ライブ空間の中に体現しようとする、共通の意識から生まれるものなのだ(※8)。
また、ライブで確認されている「アイマス世界のライブ」の価値とは、ゲームやアニメ、これまでアイマスという一貫したテーマで行われてきたライブなどによって作り上げられてきた価値であり、それは現実のアイドルの文脈ではなく、アイマスという作品の文脈の中で育まれてきた価値である。
※8:例えば、アイマスのライブプロデューススタッフである脇田和樹は「僕個人の解釈」と断ったうえで、「いち“プロデューサー”として参加していたときの感覚で言いますと、声優さんのライブは、『アイマス』の世界を今この場所に一緒に作り出そうとする一体感を味わえる空間なのだと思っています」と語っている。
一方、地下アイドルのライブでは、アイマスのような特定の作品に基づく理想像などが共有されているわけではない。
だからこそ、地下アイドルのライブで生まれる「一体感」や価値は事前に共有された理想の確認ではなく、その日その場の即興の共同作業から生まれるものとなる。
この点が双方の決定的な差であると言ってもいいだろう。
それは、どちらが優れているということではない。
アイマスのライブにおける観客の様式化された振る舞いは、「理想の世界」を共有し体現するために積み重ねられ、洗練されてきたものである。
一方、地下アイドルのライブにおいては、そのような特定の理想や様式を持つことは、むしろ現場の自由さや多様性を損なうものになりうる。
例えば、筆者は地下アイドルファンが「アイドルからMIXを指定されるのは嫌だ」と語る姿を何度か目にしている。
MIXを指定されることはアイドルからの発信だとしても、観客の振る舞いを様式化するもので、地下アイドルの自由で直感的であるという特徴、あるいは美学に反すると思われているのだろう。
彼らの価値観が一般的かはわからないが、ライブ会場のモニターにコールのガイドが頻繁に表示され、決まったコールを運営が促してくるアイマスのライブと、彼らの発言とは対照的である。
まさにアイドルと観客がその場で一緒になって、「一体感」に代表されるような価値を生み出す、特定の作品に基づく前提に縛られない体験の場、それが地下アイドルのライブの魅力なのではないだろうか。
5.おわりに
ここまで、アイマスと地下アイドルのライブ文化の比較をしてきた。
しばしば議論となるように、理想のライブを目指して演者と観客が特定のイメージや様式に従っていくアイマスと、演者と観客が一体感の中で「その場にしかない価値」を作り出そうとする地下アイドルとでは、同じ〈アイドル〉というキーワードでつなげられるものでありながら、噛み合わない部分は避けがたくある。
例えば、アイマスのライブで様式的なコールを無視したコールや、応援と無関係な大声を出せば、それは自由で直感的ではあるかもしれないが、「アイマス世界のライブ」という枠組みから外れた、理想的ではない態度、つまりマナー違反であると非難されるだろう(※9)。
※9:この点、「アイマスの世界も現実のアイドル文化を参照している以上、地下アイドルと同様の応援態度は許容されるだろう」という意見はありうる。
実際、夢見りあむのソロ曲『OTAHEN アンセム』には明らかにMIXをパロディしたコールが盛り込まれており、アイマスの世界にもMIXなどの地下アイドル同様の応援文化が存在することは想像できる。
しかし、そのコールでさえ、アイマスのライブの様式的な約束事として成立しているものであり、観客の自由で直感的な感情表現として発される地下アイドルのMIXとは性質が異なる。
この違いは応援態度全体についても同様に当てはまるだろう。
逆に、地下アイドルのライブで特定のコールを他者に指定することは、1つの理想的なライブを作り出すかもしれないが、自由さや観客の直感的な態度による価値の創造力が失われて、あまり好ましいものではないだろう。
しかし、両者を断絶させることを筆者は望まない。
どちらの文化にも良いところがあり、どちらの文化にも学ぶべきところがあるはずである。
今、筆者の目の前に6人のアイドルのアクリルスタンドが並んでいる。
それは筆者が大好きなアイドルグループである「vα-liv(ヴイアライヴ)」と「えのぐ」の6人のアクリルスタンドである。
vα-liv(下段左から上水流宇宙、灯里愛夏、レトラ)
vα-livは『アイドルマスター』シリーズを手掛けるPROJECT IM@Sによるライバーアイドルプロジェクトから生まれたバーチャルアイドルで、端的に言えばアイマスのVTuberである(※10)。
※10:もっとも、実際には彼女たちは「VTuber」や「バーチャルアイドル」とは名乗らない。
彼女たちはあくまでアイマスの世界にいるアイドルであり、かつ現実の世界にいるアイドルとして振る舞う。
ただ、活動内容はVTuberと同様であり、そのように扱われることが多い。
一方、えのぐはVTuber黎明期から活躍するVRアイドルであり、リアルとバーチャルの垣根を越えた活動を通じて、バーチャルアイドルを当たり前の存在にすることを目指している。
アイマスのVTuberであるvα-livは、当然その応援文化やファンの態度もアイマスの様式的な文化に従っている。
一方、えのぐは様々な形でリアルの、特に地下アイドルと共演をする中で、地下アイドルと同じような応援文化を作り上げてきた。
実際、えのぐのライブではMIXやジャンプは当然にあり、先日行われたオンラインライブのライブビューイング会場では、サークルをするファンの姿もあった。
違うルーツ、違う文化を持つこの2つのグループだが、〈バーチャルアイドル〉という交差点において出会い、アイドル同士だけでなくファンも含めた交流を得てきた。
その過程は拙noteにまとまっているので参照していただきたい。
そして、vα-livのプロデューサーであり、えのぐみ(えのぐのファン)でもある筆者は、この2グループの合同ライブを求めている。
それが対バンなのか、コラボパフォーマンスをするような形なのか、それはこの際わきに置いていく(いや、正直に言えば2daysで両方やってほしい)。
ただ、実際にコラボするとなれば越えなければならないハードルもある。
それがまさに、ライブの応援文化とファンの態度だ。
どんなにアイドル同士の仲が良くとも、ファン同士の応援文化や態度が違えばライブは上手くいかない。
ゆえに、コラボライブを実現するためには、双方のファンが双方の文化にリスペクトを持ち、理解し合うことが重要だ。
だからこそ、筆者はアイマスの文化を語り、地下アイドルの文化を知り、双方の文化を少しでも理解したいと思っている。
実のところ、筆者が地下アイドルの文化に興味を持つのは、そういった個人的な理由でもある。
現段階で筆者が地下アイドルの文化を十分に理解したとは思えない。
ましてや、アイマスに関する考察さえも他の人から見れば不十分だろう。
また、ハロプロやAKB系列、他の声優ライブなどとの比較も十分にされる必要がある。
なので、もしこのnoteを読んで「なにか違うな」「自分の体感と合わないな」と感じることがあれば、何が違うのか、どんな説明であれば体感に合うのかを、ぜひ言葉にしてほしい。
この複雑なアイマス文化を、アイドル文化を如何にして語るか。
それこそが相互理解の過程に他ならないのだ。
最後にはなるが、このnoteを執筆するにあたって様々な知見やフィードバックをくださったSNSのフォロワーさん、現地で筆者の問いかけに答えてくれたアイドルファンの方々に感謝を申し上げる。


映画的=アイドルマスター世界の"脚本"に沿ったライブ/観客はエキストラとしての振る舞いが求められる セッション的=その場限りでの即興性をより重視したライブ/観客はセッションに対する自由なリアクションが許容される というイメージで読みました しばしば抑制的な振る舞いを要求されるコンテンツ…
お読みくださりありがとうございます。 概ねの理解はその通りです。 ただ、補足しますと、アイマスのライブには(声優は別として)観客には脚本はありません、強いていうなら具体的な指示としてコールの存在はありますがそれも強制ではありません。 則るべき(と、思われている)アイマスという規…
概ね間違ってない気がするけど…なんか危うくね?って思いました。 というのも何故彼らはこのような行動をするのか、というデータで測れない部分を「〜である(事実)」的な言い方が多く、それにしてはリサーチがアイマスと地下だけなので、いやいやそれだけ見ても全部わからんでしょ!というか。 …
読んでいただきありがとうございます。 ご指摘はおっしゃる通りで、さらなる研究や体験、様々なコンテンツ、アイドルとの比較が必要なのは最もです。 そう書けばよかったなと今反省もしておりますが、両者の比較をしてあらゆるコンテンツを一般化したいという意図はなく、ここではあくまでアイマス…