『Time of Ring』(第九稿)Part.1
プロローグ:長い眠り
最初に届いたのは、
肉が焦げたような乾いた匂いだった。
深夜二時。
病院のプラスチック製の椅子で、
久我山大地は目を覚ました。
首に鈍い痛みがある。
夢だったと脳が認識するまでに、
数回のまばたきが必要だった。
夢の中の自分は、自分ではなかった。
二本足で立っていたが、視界の高さが違い、
足元にはオリーブ色の硬質な鱗があった。
熱風が吹き荒れる中、
迫り来る炎の壁を見つめていた。
「一歩も退くな」という声なき声が響き、
隣に立つ仲間の皮膚がひび割れていく痛みを、
なぜか自分の皮膚の表面で感じていた。
息を吐き出し、立ち上がる。
ガラス越しに無菌室を覗き込むと、
白いベッドの上で
妹のあかり(17)が横たわっていた。
三週間と二日、目を閉じたままだ。
心拍モニターの無機質な電子音だけが、
彼女が生きていることを証明していた。
大学の実験室での事故だった。
「クロニウム」と呼ばれる未同定の結晶体に
素手で触れ、そのまま意識を失った。
細胞の崩壊が緩やかに進んでいるが、
医師にも原因は分からない。
『クロニウム』
夢の最後には、
決まっていつも白っぽい人影が現れ、
その単語が脳に焼き付くように浮かび上がる。
椅子から立ち上がった大地は
冷たいガラスに額を押し当てた。
妹の細い腕には、
何本ものチューブが繋がれている。
これ以上待てば、
このまま消えてしまうのではないか
という焦燥感だけが、
大地の背中を押していた。
第一幕:失われた未来
翌朝、大地は古い雑居ビルの地下にいた。
クロニウムについての文献を漁っていた中で、
唯一その特性について言及していた元大学教授、
韮山健太郎の研究所だ。
むき出しのコンクリートの部屋には、
巨大なサーバーラック群が立ち並び、
冷却ファンの重い音が響いていた。
部屋の中央には、
分厚いアクリルガラスで覆われた
カプセルが置かれている。
「ああ、メールの件かな。」
モニターから目を離さず、
白衣の上にカーゴベストを着た男が言った。
韮山は振り返り、
大地の顔を見てわずかに眉を動かした。
「……ひどい顔だな。
毎晩、見てるんだろ。
爬虫類が炎に焼かれる夢を。」
大地は息を呑んだ。
夢の内容は誰にも話していない。
「クロニウムは、時空の記録層の破片だ。」
韮山は淡々と、事実だけを並べるように言った。
「妹さんは今、
宇宙に蓄積された別の時代の出来事を
無限に受信し続けている。
情報量が多すぎて、
脳がシャットダウンしている状態だ。
受信を止めるには、送信側の根本
——歴史に刻まれたエラーを
直接修正するしかない。」
韮山は巨大なサーバー群を指差した。
「だが、数千万年、数億年という歴史の
どこに介入の余地があるかなど、
人間の頭で計算できる規模じゃない。
だから俺は、
この『宇宙意識AI』を組み上げた。
こいつが、無数の歴史の変数の中から、
介入すべき正確な時代とタイミング、
そしてそこに誰を送り込み、
何を持たせるべきかを弾き出してくれる。」
大地の視線が、
コンソールの上に乱雑に置かれた
韮山の古いノートに止まった。
そこには、複雑な数式と共に、
殴り書きのようなメモが残されていた。
『——毎晩見る明晰夢。
巨大な意識のネットワークからの啓示。』
「あんたも、俺と同じように夢を……?」
大地が問うと、
韮山はカプセルのハッチに手を置き、
自嘲気味に笑った。
「ああ。
俺がゼロから発明したわけじゃない。
夢で見た図面を、ただ形にしただけだ。
だが、これで過去へのアクセスは可能になる。」
大地はカプセルと、
韮山の疲労しきった目を見た。
「……やります」
大地が実験着に着替え、
カプセルに横たわった直後だった。
——ガンッ!
鈍い衝撃音と共に、
分厚い防爆扉が内側にひしゃげた。
粉塵の向こうに、五つの人影が立っていた。
継ぎ目のない純白の完全密閉スーツ。
顔面を覆うバイザーの奥で、
縦に割れた黄金色の瞳孔が
不気味に光っていた。
いつも夢に出てくる、あの目だ。
彼らは一言も発さなかった。
先頭の一人が無言で筒状の武器を構え、
青白い閃光がコンソールの脇を焼き飛ばした。
「未来へ行け!」
韮山が叫ぶと同時、
カプセルのハッチが強制的に閉じられた。
床の鉄板がスライドし、
カプセルごと大地は
暗い地下空間へと落下していく。
強烈な冷却ガスが噴き出し、
視界が白く染まる。
肺が凍りつくような痛みの後、
大地の意識は急激に暗闇へと落ちていった。
どれだけの時間が経ったのか。
カプセルのハッチを内側から蹴り開けた時、
大地の肺を焼いたのは、
鉄錆と乾いた土の匂いだった。
這い出した先は、
韮山の研究所ではなかった。
斜めに崩れ落ちたコンクリートの梁の間から、
鉛色の空が見える。
足元の瓦礫を踏み越え、地上へ出た大地は、
赤黒いスモッグに包まれた荒野と、
黒曜石のような塔群を目にした。
舗装された道路には、
後頭部にバーコードを刻まれた作業着の人間たちが、
無言で行列を作って歩いていた。
その時、列を歩いていた一人の老人が、
力尽きたように膝から崩れ落ちた。
だが、誰一人として
助け起こそうとはしなかった。
驚くこともなく、
ただ道に落ちている石でも避けるように、
無言で老人の横を通り過ぎていく。
他者に手を差し伸べるという行為は、
彼らの中から完全に切り捨てられていた。
大地が思わず老人に駆け寄ろうと
一歩を踏み出した、その瞬間。
街角に立っていた白いスーツの兵士のバイザーが、
大地を捉えて不気味に点滅した。
『…認識タグを付けていない不適合者を発見…。』
兵士の持つ銃口が、大地に向けられる。
その瞬間、大地は、反射的に
瓦礫の山へ向かって走り出していた。
背後で警報が鳴り響く。
しかし、作業着の人間たちは
誰一人としてパニックを起こすこともなく、
ただ機械のように立ち尽くしていた。
足を滑らせ、瓦礫の間に転がり込む。
そこに兵士が迫る。
万事休すかと思われた瞬間——
足元のマンホールの蓋が吹き飛んだ。
飛び出してきたレザージャケットの男が、
兵士の足元に銀色の筒を転がす。
強烈な閃光。
兵士が体勢を崩した隙に、男は大地の手首を掴み、
マンホールの下へと強引に引きずり込んだ。
暗い地下水路を抜け、分厚い隔壁を開けた先。
そこには、武器の手入れや
通信機器の操作を黙々と行う
作業着を着た七~八人の男たちの姿があった。
「俺は藤堂だ。
あんた、韮山の所から来たな。」
男はパイプ椅子を蹴り出し、
自らもデスクの端に腰掛けた。
「ここは2136年。
地上の連中は、
人類の歴史を裏から乗っ取った存在——
俺たちは『レプティリアン』と呼んでいる。」
藤堂は、部屋の奥にある
青白く発光するリング状の機械を指差した。
「あれは俺たちが韮山の理論を引き継いで作った
タイムマシンだ。
そして、残された宇宙意識AIが、
奴らが権力の中枢に入り込んだ分岐点と、
あんたの持っていくべき装備を弾き出している。」
大地は目を閉じた。
ここで断れば、あかりが死ぬ。
「……おれは何をすればいい?」
大地が目を開けて問うと、
藤堂は一着の粗末な修道士のローブを
テーブルの上に置いた。
「十四世紀のヨーロッパ。
中世の修道院に潜り込んだ奴らの足がかりを潰せ。
どう動くかは、現場であんたの目で見て判断しろ。」
大地はローブを手に取り、
青白い光を放つリングへと歩みを進めた。


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