──これは、俺が小学二年生でまだマンションに住んでいた頃の話だ。
当時は結構やんちゃしていて、友達も今よりはもっと多くて学校帰りはよく友達と公園に遊びに行ってた。そんで十七時になってみんなそれぞれ家に帰る時間になって俺も家に帰る。
でも、その時間に家に帰ると決まって俺の隣の部屋の扉の前に男の子が座ってるんだ。最初は偶然鍵を忘れて部屋に入れないのかな、なんて考えてたんだけどそれからも毎日毎日男の子はその時間に部屋の前に座ってて。気になって声をかけてみることにした。
「ねえ、なんで毎日部屋の前に座ってるの?」
「………お前には関係ない」
結構勇気をだして声をかけたのに冷たく返されて、当時幼かった俺はそれが妙にムカついて「あっそ!」と言いながら自分の家に帰ってその事をお母さんに話した。
「そうなの…確かお隣さんはヴィンセントさんの家よね。あの子の両親は仕事が忙しくてなかなかお家に帰ってこないみたいね」
「ヴィンセント……お母さんとお父さんが帰ってこないって、どのくらいの時間?」
「うーん。さすがにそこまでは分からないけど…」
その時初めて隣の人の家族関係について知った俺は両親がどっちも家に居ないなんて可哀想だな…とさっき感じた怒りも忘れてその男の子に同情していた。
次の日、また遊びから帰ってくるとその男の子が扉の前に座っていた。昨日のこともあり話しかけるか少し悩んだが、母の言っていた話を思い出し。思い切ってまた声をかける。
「──なあ、お父さんとお母さんいつも何時ぐらいに帰ってくるの?」
「…お前には関係ない」
「む…。いいじゃん教えてくれても!」
しかし男の子からの返事はなく、俺は男の子が何やら書いている紙を覗き込む。
「何書いてんの?」
「勝手に見るな」
男の子のすぐ側まで近寄り紙を覗き込むとどうやら男の子は宿題をしていたようだ。その男の子は俺の事を睨むと、「あっちにいけ」と言われる。しかしそれに構わずに隣に座り会話を続けた。
「なんで家に入らないんだ?外だとお尻痛くならないの?」
「……うるさい」
「なんでそんな酷いことばっか言ってくるの?俺なんかした?」
そう言うと男の子はまた睨んでくる。やっぱり嫌われてるのかな。それからまた何事も無かったかのように宿題を再開した。
これ以上は話してくれなさそうだったのでスバルは立ち上がりその日は大人しく部屋に戻った。
……
………
「………」
「あ!」
次の日もまた、男の子は部屋の前に座っていた。
しかし、いつもと違うことが一つあった。
その日は男の子が俺の方に視線を寄越したのだ。…とても嫌そうな顔で。
「また座ってる!」
「またお前か」
俺は男の子が視線を向けてきたのに少し驚き、直ぐにその子の隣に座り昨日のように話しかけた。
「また宿題?偉いなお前」
「当たり前だ。…貴様はやっていないのか?」
「きさま…?……んー、やってるよ。…わかるやつは」
「……はあ。いいからさっさと家に帰れ」
またしても邪魔者のように扱われ若干腹が立ったが、一昨日と昨日よりも確かに会話が続いている気がしたのでそのまま話しかけ続ける。
「ねえ、なんで家の前に座ってるの?」
「貴様には関係ない」
「またそれ…じゃあお父さんとお母さんは?帰ってこないの?」
「……何故、そんなことを貴様に教えてやらないといけない」
「え?だって友達だろ俺ら」
「は?」
男の子は何を言ってるんだこいつみたいな顔で俺を見てくる。でも、逆に俺の方も首を傾げてしまう。この時の俺は喋ったやつとは全員友達になれると思っていたので当然目の前の男の子も既に友達認定していたのだ。
しかし、勝手に友達にされていたことなどつゆ知らず。男の子は面を喰らったような顔をして固まっている。
「なあ、俺ら友達だろ?教えてよ」
「俺と貴様がいつ友達になったんだ」
「ねえ、その『きさま』って俺のことなの?」
「いいから質問に答えろ」
「えぇ…うーん、一昨日?話しただろ?」
「貴様は話したことのあるやつ全員を友達だと思っているのか?」
「うん、だって友達ってそうやってできるんだろ?」
そう言うと男の子はなんとも言えない顔をしていた。が、その後何事も無かったかのように宿題を再開した。俺は結局その日も聞くことを諦めて、家に帰った。
……
………
そして、また次の日もその男の子は部屋の前に座っていた。
今日はこちらを見たかと思うと直ぐに視線を宿題に戻してしまう。でも、昨日みたいに嫌な顔はしなくなった。
「よお!また座ってるの?」
「…よくも毎日毎日飽きもせず俺に話しかけられるな」
「だって気になるもん」
「そんなにか?」
「うん!」
即答で言うと、男の子は一瞬こちらに顔を向けたかと思ったらため息をついた。
「……母も父も仕事柄家には居ない」
「え?…そうなんだ。寂しいね」
「寂しい?…寂しい、か」
「…?寂しくないの?」
「そんな感情はとうの昔に忘れた」
そう言った男の子の顔は酷く無機質で、俺はそれがすごくむず痒くて思わず男の子に抱きついた。すると男の子は驚いたように体を固くしてすぐさま「やめろ」と制止する声が上から降ってくる。
「そんな訳ない!だって家に帰ってお父さんとお母さんがいなかったら俺寂しいもん!」
「それは貴様のことであろう」
「…!『きさま』じゃない!ナツキ・スバル!」
「は?」
「俺の名前!お前の名前は?」
そう言うと男の子は困ったような呆れた様な顔をして黙ってしまうが、スバルがぎゅうぎゅうと抱きしめる力を強めていると観念したかのように口を開く。
「…アベル。アベルクスだ」
「……! アベル!」
「何がそんなにおかしい」
名前が聞けたことが嬉しくて思わず笑顔で名前を呼ぶとアベルはバツの悪そうな顔でそっぽを向いてしまう。そのまま興奮のあまりアベル、アベル、と口にしているといい加減にしろと咎められる。
仕方なく体を離しその日もアベルに別れの挨拶をして家に帰った。
「スバル、か…」
そう言って扉の奥に消えていく少年の名前を復唱した少年は、自分の頭を撫でながら、アベル。と少年の口から紡がれた自身の名前を噛み締めるように呼んだ。
……
………
次の日も、アベルは座っていた。
俺が「アベル!」と声をかけるとアベルはこちらに視線を向けて宿題を鞄の中にしまった。
「あれ?宿題しないの?」
「貴様がいたら集中できないからな」
「そっか。あ、ねえねえそういえばまだ教えて貰ってなかったよね、なんでおうちの前に座ってるの?」
「…別に深い理由なんてない。ただ、家の中にいるのは落ち着かないだけだ」
「やっぱり寂しいんじゃない?」
そう言うと軽く睨まれる。でも最初ほど怖くもないし、イライラもしなくなった。多分アベルは年上だと思う。気にしてなかったけど。
身長も、座ってるから正確なのは分からないけど多分スバルよりも上だし宿題の内容もスバルの習っているものよりもっと難しそうだったから。
「アベルは何年生なの?」
「六年だ」
「え!六年生なの?すごい年上だー」
「貴様は二年だったか」
「なんでわかったの?!ってか、きさまじゃなくてスバル!」
「………勘だ」
「すごいなアベル!…『かん』ってなんだ?」
「自分で調べろ」
スバルの気迫に押され顔を背けてしまったアベルにスバルは「あ」と思い出したかのようにポッケからある物を取り出す。
「そういえば…はい、これアベルにあげる」
「…なんだこれは」
「俺の宝物。お母さんが作ってくれたやつ」
そう言ってアベルに渡したのはお母さんがスバルに作ってくれた黒猫のキーホルダーだ。スバルにそっくりでしょ?とお母さんに言われたがスバルにはよく分からなかった。でもお母さんがスバルのために作ってくれたものなので大事にしていた。
「何故…宝物なら自分で持っておけ」
そう言いながら黒猫をこちらに返そうとしてくるアベルからシュバッと距離をとる。突然の行動に反応しきれなかったアベルを無視してスバルは続けた。
「それ、俺に似てるんだって。だからそいつを俺だと思って持っとけよ!そしたらきっと一人でも寂しくないよ」
「……」
それだけ言い捨てるとスバルは自分の部屋へと走り扉が閉まる直前に顔を少しだけ覗かせてアベルの方を見て、言葉を続けた。
「それ!無くすなよ!ぜったい! …あ、あと。俺お前のこと結構好きだから…だから…。これからもまた一緒に遊ぼうな!」
「………ああ」
最後の方になるにつれ段々と恥ずかしくなってきたスバルは顔を下に向けごにょごにょと独り言みたいになってしまったがアベルからの返事に嬉しくなり「じゃあまたな!」と家の中に入ったのだった。
しかし、スバルはその時アベルの顔をよく見ていなかった。アベルがその時スバルの言葉に何を思ったか、それをこの時の幼かった少年は知る由もない。
「好き……そうか、ナツキ・スバル。この感情は……」
……
………
それから翌日、いつものように家に帰りアベルとの会話を楽しみにしていたスバルだったが何故かその日はアベルが扉の前に座っていなかった。最初は驚いたが、もしかしたら何かあったのかもしれない。明日話を聞いてみようとその日は家に帰った。
──しかし、あの日からアベルが扉の前に座っていることは無かった。
最初は偶然かと思っていたスバルも流石に心配になりお母さんにその事を話した。
「──お隣さん?ああ、それなら一週間くらい前に引っ越したらしいわね〜」
「え…」
「どうしたの突然そんなこと聞いてきて。もしかしてこの間言ってた子の話?」
「そんな…だ、だってアベル。そんなこと一言も…」
「あらあら…」
アベルが引っ越した。その事実にスバルは目の中から込み上げてくるものを抑えられるずに涙を流してしまった。
お母さんは驚いたような顔をした後優しい顔でそんなスバルを抱きしめてくれた。
「いつの間にかそんなに仲良くなってたのねぇ」
なんであいつ何も言わなかったんだよ、とか。また遊ぼうって約束したのに、とか。スバルの中で色んな感情が行き交うが、スバルはただアベルに裏切られたという事実が悲しかった。少ししか話したことは無かったが、スバルはアベルのことを良い友達だと思っていた。なのに、なのに…
「──ぐすっ…う、うぅ……あべるのばかやろうぉ!嘘つきぃ!」
そんなスバルの幼少期の頃の心の傷は、時間と共に風化していった。その後しばらくしてスバルも引っ越し、別の場所で新しい友達ができた。
そして、その頃の記憶はスバルの中からは段々と薄れていった。
▽▲▽▲▽▲▽▲
そんなこんなでスバルは今、立派な大学生になっていた。
あれから時が経ち中学高校に上がる頃にはスバルはそんな幼少期の記憶をとうに忘れていた。そして半年程前に高校を卒業して晴れて大学に合格したスバルは親元を離れて上京してきていた。
最初は一人暮らしをすることへの不安や大学で友達ができるかなど色んな心配をしていたスバルだったが無事に大学では友達ができて家のこともなんとかやっていた。何不自由ないといった訳ではなかったがなかなか充実した毎日を送っていたと思う。
──そう、今日までは。
「……嘘、だろ」
その日は大学の後バイトがあり、夜遅くにようやく家へと帰ると何やらスバルの住むアパートに人だかりができていた。何かあったのかとアパートの方に目を向けると……燃えているのだ。アパートが。スバルの住むアパートが、それはもうすごい勢いで燃えている。
「は?え? な、にが起きて……」
「ああ!君!201号室の!」
「あ、…」
呆然と目の前の燃え盛るアパートをスバルが眺めていると、後ろから大家さんに声をかけられる。スバルは暫く放心状態だったため、一拍遅れて大家さんの方に目線を向けると何やらスバルの住むアパートが放火被害にあったらしい。
「すまないがそういうことだから、今日は親御さんの家に帰るなりしてくれ。保証の話とかは後日連絡が入ると思うが、何分古いアパートだったからね。あまり期待しない方がいい。新しい家も早めに見つけておいた方がいいかもしれない」
「あ…ああ、はい」
こんな時に激安アパートを借りていたことが裏目に出るなんて少しばかりボロいが駅近で格安で俺は結構気に入っていたのにな、なんて思いながら静かにその場を離れる。
行き場もなく歩きながら考える。これからどうしよう。もちろんこんな時間から実家に帰るなんて無理だ。終電だってとっくにすぎてるし、今日はネカフェに泊まるしかないか?でも泊まってどうする?お金だって無限にある訳じゃない。今から家を探すって言ったってその間の大学生活はどうなる?
スバルはふと鞄の中を確認する。鞄の中に入っているのはスマホ、財布、家の鍵、ハンカチ、ティッシュ、いつのか分からない変形した飴、街中で断りきれずに受け取ってしまった数々のチラシ。スバルは目の前の現実に膝をつき絶望する。
家のものは恐らく全部燃えてなくなってしまっただろう。スバルの所持品は正しくこの鞄の中のものだけというわけだ。
「──詰んだ…」
家族に頼るという選択肢もあるが、スバルは両親に心配をかけたくなかった。高校の時に色々あって両親にはそれは迷惑をかけたと思う。そのせいで大学だって無理言って遠いところに行かせてもらっている。
でもそんな迷惑ばかりかけているスバルにそれでも両親は変わらず優しくてくれた。スバルはそれが救いだった。だから、出来ればこれ以上心配はかけたくない。
そう思いなんとか顔を前向きな方へ切り替えようとした時鞄の中からポロっと財布が落ちる。
直ぐに拾おうとしたが背後から飛び出してきた黒い物体が素早くスバルの手から財布を奪い取った。
「え」
慌てて黒い物体に目を向けるとそれは猫だった。
猫の口にはスバルの財布が咥えられており、スバルはその事実に声にならない悲鳴をあげ、慌てて猫から財布を奪い返そうとするが。
「あ!」
「なぁ〜ん」
猫シュバッと近くの塀へ飛び乗るとスバルを煽るように鳴く。そしてそのまま暗闇の中に消えていってしまった。スバルは暫く放心状態になりその場に立ち尽くす。今日が人生最大の厄日だ…そんなことを自暴自棄になりながらもスバルは思うのだった。
▽▲▽▲▽▲▽▲
「うぅ…俺が何したってんだよ神様…」
スバルはなんとか覚束無い足取りで近くの公園まで移動するとベンチに座り込みいもしない神に文句を垂れる。
「こんな漫画みたいな展開あるか? 漫画だと大体この後お金持ちの美少女が迎えに来てくれるなんてベタな展開だろうけど…」
スバルは顔を上げ辺りを見渡すが当然誰もいない、そりゃそうだ。そんな漫画のように人生上手くいくわけが無い。これは現実だ。改めて自分の置かれた状況を再確認してスバルは顔を膝に埋める。
「世の中不公平だ……なんで俺ばっかりこんな目に…」
思えばスバルは人生においてこんな役回りばかりだ。何をやっても中途半端で、その癖人一倍自信だけはあって。そのせいで空回りして気づけば周りには誰もいなかった。高校生の時はそれが苦しくてしばらく学校にも行けず不登校だった。でもそんな自分を変えたくて、地元から遠く離れた大学を受けた。大学ではありのままのスバルを受けていれてくれる友達が沢山できて油断していたのかもしれない。
これは、もしかしたら幸せになりすぎたスバルへの罰なのか。そんな馬鹿なことを考える程にはスバルの心は今やさぐれていた。
「もう、この際誰でもいい…誰か助けてくれ…」
「──ならば助けてやろう」
「?!」
そんなスバルの独り言に、返事が返ってきたことに驚き慌てて顔を上げる。そこには赤と黒を基調としたスーツを身に纏った切れ長な瞳と同じ黒髪とは思えないほど手入れの行き届いてる艶髪のスバルよりも少し身長の高い、いかにもお金持ちそうな男が立っていた。
「…え、だれ…?ど、どちら様ですか…?」
無様に泣いていた姿を見られていたことが恥ずかしくなり顔に熱が集まる。動揺しすぎて言葉がつっかえてとても恥ずかしい。
「──まさか貴様、覚えていないのか」
「え?なんて?」
スバルが男の問にそう答えると男は何やら険しい顔つきになる。
改めて男の顔をまじまじと見つめると、かなりの美形だ。
顔の至る所のパーツが全て完璧な位置に収まっている。 男で美人とはまさに目の前のこいつのことを言うのだろうな、なんて静かに考える。そして、暫くの沈黙の後また男が口を開く。
「…こんなところで何をしている」
「え…なんでそんなことあんたに教えなきゃ……」
「いいから答えろ」
初対面とは思えない圧の強さに押されスバルは渋々ここに来るまでの状況を男に説明した。
説明している途中で途端に情けなくなり、なんで俺がこんな目に…と男の顔を恐る恐る覗き見ると、男は何やら考え込んでいる様だった。
「あ、あの…結局誰なんですかね…?」
「…アベル」
「アベルさん…ってか、アベルさんって日本人じゃないですよね…?なんというか顔つきというか雰囲気というか、日本人とはちょっと違う気がするというか」
「…ああ、母は日本人だが父が違う。だか同じアジア系だ、そこまで違和感もないであろう」
そう言いながら意外そうにスバルのことを見据えるアベルの視線に居心地が悪くなり、慌てて目線を逸らす。それからスバルのことを品定めするように上から下まで観察していたアベルは「ふむ」と一言だけ零し、公園の入口へと歩き出した。
(よかった…誰だか知らんがやっと帰ってくれる)
アベルがスバルに興味をなくし帰ったのだと思っていたスバルはベンチに座りながらアベルの後ろ姿をぼーと眺める。
すると、急に振り返ったアベルと視線が合う。
「何をしている、さっさと来い」
「え」
「言ったであろう、助けてやると。…記憶が無いのは誤算だったがな」
「最後の方なんて?」
「…… とりあえず俺の屋敷へ向かうぞ」
最後の方の言葉だけ独り言の様に小さく呟いていてよく聞こえなかったが、状況についていけてないスバルは呆然とその場に固まることしか出来なかった。
「え、え?」
「どうした。理解できなかったか? まあよい、移動中に貴様にもわかるように説明してやる。早くしろ、俺の時間は貴重だぞ」
「え、あ、はい」
言われるがままベンチから立ち上がりアベルの背中について行くと公園の前に一台の車が止まっていた。
それはスバルでも一目で金持ちのものだとわかる、黒塗りの高級車だった。こんな町外れの公園に何故こんな高級車が…?と不躾にジロジロと眺めていると運転席から出てきた黒服の男がこちらに近づいてくる。
(え、え?!なんかこっち来てない?!ジロジロ見すぎたか?!やばい殺される!)
スバルが死を覚悟して体を硬くした瞬間、黒服がスバルへと頭を下げた。
──正確にはスバルにではなくスバルの前を歩いていたアベルに、だ。
「屋敷まで出せ」
「はい、かしこまりましたアベル様」
スバルは目の前で行われている会話を他人事の様に聞いていた。
すると黒服の人は素早く後部座席の扉を開けアベルをエスコートしていた。そして続けて視線がスバルの方へと向く。
スバルは咄嗟に体をビクつかせるが、黒服の人は特に気にした様子もなく「お連れ様もどうぞ」と車内へ案内される。
流されるがまま車に乗り込もうとしていたスバルだったが、寸前のところで我に返り、慌てて後ろに後ずさる。
「……いや、いやいや!ちょっと待て!」
「なんだ…喧しい」
「屋敷ってアベルの?そもそも俺お前のことまだ名前しか知らないし、明らかにお前一般人ではない、よな?流石に初対面の人にそうホイホイとついて行く訳には行かないんだけど…」
「今更だな。貴様は黙って俺に着いてくればいい」
「いい訳あるか!だいたい世の中にそんな都合のいい話がある訳……」
ない。
そうスバルがアベルに食い下がろうとした瞬間先程まで車のすぐ傍に居たはずの黒服の人がいつの間にかスバルの背後に移動しスバルの肩を掴んでいた。慌てて後ろを向くと無表情な黒服の人と視線が合う。
「お連れ様、そろそろ出発致しますので速やかに車内へ」
「え、いやあの…俺乗らな……」
「お連れ様」
「はい!乗ります!今すぐ乗りまーす!」
スバルは黒服の人の圧に負け涙目になりながら車内に乗り込み隅っこで丸くなる。
ヤクザじゃん。あんなんもう脅迫じゃん。口答えした日には東京湾に沈められてるやつじゃん。
「そんな隅で何をしている、椅子に座れ、椅子に」
「無理に決まってんだろ!見ろこの如何にもな椅子!汚して弁償とか俺出来ないからな!」
「馬鹿らしい…大体座るために作られたこれが本来の用途も果たせず壊れるようなことがあれば、貴様ではなくまずこの椅子を作った者の腕を疑うぞ」
呆れたように吐き捨てられ、スバルはアベルの方へ視線を向けキッとその顔を睨む。
「だいたい、何者だよお前。こんな高級車乗ってるってことは相当お金持ちだろうけど…なんでそんな奴が俺なんか助けてくれんの」
「──たまたま憐れな捨て猫が公園で情けなく泣いていたのでな、慈悲深い俺が気まぐれに拾ってやっただけの話だ」
「誰が捨て猫だ!ってか泣いてない!」
「すぐバレる嘘をつくな。薄っぺらい人間に見えるぞ」
「なんなのお前!マジでムカつく!俺初対面だけどお前のこと嫌い!」
「…………」
スバルがそう言い放った瞬間、アベルがとても驚いた様な顔になる。アベルの突然の変化にスバルは驚くが暫くしてアベルは先程のように無表情に戻った。心做しか眉間にシワが寄っているが。
「……チッ」
「え…何。お、怒ったのか…?」
「怒ってなどない。気分を害しただけだ」
「それ、怒ってるんじゃ…」
スバルは言いたいことが山ほどあったがこれ以上機嫌を損ねては本当に明日、東京湾に沈まりかねないので口を閉じる。
それから、車内には重苦しい沈黙が流れる。暫くして無言のままアベルに無理やり皮作りの椅子に座らされる。驚いてアベルを振り返るが、未だ無言のまま、不機嫌だった。それから気まずい時間を外を眺めることで潰していたスバルだったがそういえば知らない人とは言え、助けて貰っているのにお礼を言っていなかったな、とアベルにお礼を伝える。
「あの…なんて言うか、ありがとう…ございます。勢いで着いてきちゃったけど助けてもらったことには変わりないし、アベル…さんがどんな人か分からないけど、悪い人では無さそうだし…」
「…なんだその気味の悪い喋り方は」
「え、いや初対面だ…ですし。さっきは感情が昂ってたから…すいません」
「…即刻やめよ、逆に不敬であるぞ」
「逆に不敬…?敬語なのに…?」
「敬語は今後やめろ」
「わかり……わかった」
言われた傍から敬語を使いそうになりアベルに睨まれる。だいたいスバルの見立てでは、アベルはスバルよりも年上に見える。本来ならタメ口よりも敬語を使ってもらった方が嬉しいんじゃないだろうか?
しかし、それはアベルが決めることであってスバルの決めることでは無い。大人しくアベルの要求を呑む。
「えっと…アベルは偉い人…なのか?」
「まあ、部分的にはそうだ」
「部分的に」
「今はまだそれほど権力を持っている訳では無いが。直に父の会社を継ぐことになる。俺はその時が来るまで今俺のすべき仕事をこなすだけだ」
「へー」
(つまり次期社長ってことか?え、社長って社長だよな。もしかして俺今やばい人に助けて貰ってる?……なんで?)
アベルの話を自分の中で整理して、結局最初の疑問に辿り着く。
それ程まですごい人が何故公園の隅で情けなく泣いていたスバルなんかを助けてくれるのか。
「えっと、助けてくれたのはほんとに有難いんだけど…そろそろ助けてくれた本当の理由を教えろよ。さっきのじゃさすがに納得できないぞ」
「そうさな…誰かさんは『一人は寂しい』らしいのでな」
「なんじゃそりゃ。答えになってなくないか?」
しかし、それ以上アベルは話す気がないらしく、スバルの質問の答えは見事にはぐらかされてしまった。
そうこうしているうちにアベルの言っていた屋敷とやらに着いたらしく車が止まると、黒服の人が扉を開けてくれる。
「ありがとうございます」
「仕事ですので」
「あ、はい」
そうして外に出てまず初めに飛び込んできたのはテレビのドラマで見るか見ないかレベルのとてつもなく大きい門だった。
確かにお金持ちなんだろうなとは思っていたが、まさかこれ程までとは思っていなかったスバルは思わず目を見開く。
「何を惚けているナツキ・スバル。さっさと歩け」
「はっ…! あ、ああ。今行く」
どうやらスバルが見惚れている間に門を潜っていたらしいアベルが門の中からスバルの名前を呼ぶ。
しかし、門を跨ぐ一歩前でスバルは止まってしまう。スバルの体がこの先に行くのを警戒して警告しているような、そんな理由の分からない違和感が突然スバルを襲ったからだ。
「どうした。早くしろ」
「え、あ…いや」
違和感の正体を探ろうとするが分からない。アベルは少しだけ話してみて悪い奴では無さそうだった。しかし、スバルには人助けを率先してするような善人にも見えなかった。
そして、尚もスバルの中にある違和感が、スバルの歩みを止める。
不自然に固まり動かないスバルにアベルは顔を顰め、こちらに一歩近づいてくる。何故かそれをまずいと思ったスバルは一歩後退り口を開く。
「…あのさ、ここまで連れてきて貰っといてあれなんだけど。やっぱ俺帰るよ。なんか俺なんかのために悪いし、困ってる人なんてきっとそこら中にいると思うから、俺の事は気にしないでその人達を助けてやってくれ」
「──俺が見つけたのはお前だ。何故俺が誰とも知らない赤の他人を助けてやらねばならん」
「俺も他人だろ?」
そう伝えるとアベルは押し黙ってしまう。確かに今ここでアベルに助けを求めるのは一つの手なのかもしれないが、何故かスバルにはその選択が間違っているような気がした。
さっきも言ったがこの世の上手い話には必ず裏がある。タダより怖いものなどないのだ。アベルが何も言い返して来ないのをいい事にそのまま立ち去ろうと歩き出そうとすると「待て」と声がかかる。
「なん……」
だよ。と振り返ろうとしたが、その瞬間アベルに胸元を捕まれバランスを崩す。まさか振り返った目の前にアベルが居ると思っていなかったスバルは反応が遅れ、何事かとアベルを睨むが、それ以上に目を細めこちらをまっすぐ見つめ返してくるアベルに睨み返され思わず縮こまる。
「黙れ。貴様を見つけたのは俺だ。貴様の意見など最初から求めていない。いいから黙って俺に着いてこいナツキ・スバル」
なんだその横暴は!と反論しようとして、スバルは自分が先程感じた違和感の正体に気づく。この男をスバルが警戒していた理由。あの時突然感じた違和感の正体は、
「──なんでお前。俺の名前知ってんの?」
「………」
「さっきも呼んでたけど、俺お前に名前教えてないんだけど」
アベルは何も言わない。その事が余計にスバルの警戒心を高める。やはり最初からスバルのことを知っていて近づいたんだ。
新手の詐欺か誘拐か、どちらにせよこのままではまずいと思い拳を握りしめ殴ってでも逃げようとした瞬間──手を離され地面に尻もちをつく。
「痛っ!急に離すな!」
「失言だ。少し焦りすぎたか」
「じゃあ、やっぱり…!」
「最後まで話を聞け阿呆。一から説明してやるのは面倒だな」
やっぱり俺を騙してたのか!とアベルに殴りかかろうとするとアベルに言葉でそれを止められる。何かスバルに言いたいことがあるのかと待っていると、アベルはポケットの中から小さいキーホルダーを取り出す。
「…なんだこれ、黒猫のキーホルダー?」
アベルが取り出したのは黒猫のキーホルダーだった。随分使い古しているのか若干糸が窶れている。
そしてスバルはそのキーホルダーになんだか見覚えがあるような気がして、顔を近づけてまじまじと黒猫のキーホルダーを凝視する。
「貴様から預かっていた宝物とやらだ。これを見てもまだなにも思い出さぬか?」
「俺から預かってた…?宝物もの…黒猫のキーホルダー…」
一つ一つの単語を繰り返しスバルは過去の記憶を手繰り寄せる。するとスバルは目の前のキーホルダーは母が昔スバルの為に作ってくれたキーホルダーであることに気づく。
そして、それと同時にそのキーホルダーを預けた男の子のことも思い出す。
「──あ…あぁー!? 思い出した! 確か俺が小二ぐらいの時に隣に住んでた奴に渡したキーホルダーだ!」
「やっと思い出したか」
「え!じゃあお前、あのアベルか?! 嘘っ!? ってかそれならそうと最初から言えよ!」
そう言うとアベルはまたも不機嫌そうに顔を歪める。
「……貴様が忘れているのが悪い。そも、貴様は俺を忘れるだけでは飽き足らず俺を嫌いなどと…」
「あ〜、ごめんって! っていうかこんな偶然あるんだな。よかった、お前が変な奴じゃないってわかっただけでもかなり心の負担が減る」
先程までの緊張が体から抜け落ちる。それと同時にあの時のことを徐々に思い出してきたスバルはあの時の疑問と怒りを目の前の成長してしまったアベルへとぶつける。
「ってか、なんで急に引っ越したんだよ! 俺、めっちゃ悲しかったんだからな?」
「俺にも俺の事情があるのだ。だが貴様が言っていた戯言も少しは理解出来た」
「俺が言ってたことってなんだ?」
「…今はまだ教えてやらん」
「はー?」
「さあ、これで問題は解決したであろう。さっさと屋敷の中へ入るぞ」
そういうとアベルはスバルの右手をぐいっと引っ張り、そのままスバルの体は門を超えて屋敷の敷地の中へ入る。
それからすぐに門がしまっていく。スバルが豪邸の閉門を珍しそうに眺めていると急に右手を引っ張られ、視線を右手を掴んでいるアベルに向ける。
「おい、そんな引っ張らなくても自分で歩けるって」
「貴様のペースに合わせていたら日が暮れる」
「なんか怒ってる?」
「そう見えるか」
一度足を止め、こちらに向き直ったアベルに質問を質問で返されスバルはうーんと少し考え、アベルの瞳をまっすぐ見つめ返して答える。
「見える」
「そうだ。理由がわかるか?」
「…それはわからん」
「そうか、ならば教えてやろう。それは貴様が俺の事を忘れていただけでは飽き足らず、帰る家もない所持金もない。無一文の状態で、ましてこんな夜中に、一人でフラフラと公園で無様に泣きじゃくっている様な危機管理能力のない奴だからだ」
「うっ…それはだって、しょうがないじゃん…」
「大体貴様は危機感が欠如している。言われるがまま俺に着いてきたのもそうだ。相手が俺だったから良かったものの、これがもし本当に貴様を騙し利用しようとしている者だったらどうしていた」
「俺だって好きで着いてきた訳じゃ…」
そこまで言いかけたスバルだったが、確かに無理やりにでも逃げていればそのまま連れていかれることは無かったのかもしれないとと思った。
言い訳ばかり並べてほいほいと着いてきてしまったことにスバルは今更気づき、己の愚かさと単純さを思い知る。
「──貴様、よくその性格でこれまで生きてこれたな。出会った時から馬鹿なやつだとは思っていたが…呆れてモノも言えないぞ」
「…確かに、俺って騙されやすいのかな」
「……はあ。いいか、ナツキ・スバル。これからは見知らぬ者にはついて行くな。それとこれから外出時は俺に必ず連絡しろ、俺の知らぬ者と会う時もだ」
「うん……うん?」
「屋敷から大学までは送迎を付けるが、授業が終わったら寄り道せず一度屋敷に帰ってこい。やむを得ない用事がある場合は必ず俺に連絡しろ。それから……」
「──ちょ、待って待って!」
勝手に進んでいく会話にスバルは慌てて待ったをかける。話の腰を折られたアベルは不機嫌そうに「なんだ」とスバルを睨む。
「俺の勘違いだと思うんだけど、なんかお前の言い方だと、まるで俺がこれからずっとここで暮らすみたいに聞こえるんだけど…」
「そうだが」
「そうだが?!」
驚愕の事実にスバルは目を見開く。何を平然といいのけてるんだ目の前の男は。住むってこの屋敷に?スバルが?!
全く動じた様子のないアベルにスバルは慌てて首を横に振る。
「無理無理!大体久しぶりにあったやつにそこまでするか?お前そんな優男キャラだったか?!もっとこう…生意気な感じだっただろ?!」
「たわけが、俺は他者に媚びるような真似はしない。だが、貴様は俺にとって特別だ」
「…は、はぁ?! お、おま!意味わかって言ってる?!」
「ああ」
澄まし顔で言われ、何故俺の方ばかり照れなきゃいけないんだ。と余裕そうなアベルを睨む。
「…ふっ、なんだ?それで怒っているつもりか?」
「なっ…」
あのアベルが……笑った…?
ほんの一瞬だったが、スバルは見逃さなかった。笑ったのだ、アベルが、初めて出会った頃からずっと真顔か顰めっ面ばかりだったあのアベルが。
笑えたんだ。とか、俺の顔そんな面白いのかな。とか、色々思うことはあったけど、これだけは声を大にして言いたい。
「──イケメンでギャップ持ちとか反則すぎんだろ!!!」
「は?」
あ、戻った。いつもの何言ってんだこいつみたいな顔に戻った。
スバルは色々と、本当に色々とツッコミたい事や思うところはあったものの、今はただどうなるか分からない未来より懐かしい友人との今へと現実逃避しよう。と真っ暗な空を仰ぐのだった。
さいこうまじこういう少女漫画展開愛してる😘