『ToR - Promise Horizon -』(第八稿)Part.1

第一幕:失われた未来

最初に届いたのは、
肉が焦げたような乾いた匂いだった。

深夜二時。

病院のプラスチック製の椅子で、
久我山大地は目を覚ました。

首に鈍い痛みがある。

夢だったと脳が認識するまでに、
数回のまばたきが必要だった。

夢の中の自分は、自分ではなかった。

二本足で立っていたが、
視界の高さが違い、
足元にはオリーブ色の硬質な鱗があった。

熱風が吹き荒れる中、
迫り来る炎の壁を見つめていた。

「一歩も退くな」という声なき声が響き、
隣に立つ仲間の皮膚がひび割れていく痛みを、
なぜか自分の皮膚の表面で感じていた。

息を吐き出し、立ち上がる。

ガラス越しに無菌室を覗き込むと、
白いベッドの上で
妹のあかり(17)が横たわっていた。

三週間と二日、目を閉じたままだ。

心拍モニターの無機質な電子音だけが、
彼女が生きていることを証明していた。

大学の実験室での事故だった。

「クロニウム」と呼ばれる未同定の結晶体に素手で触れ、
そのまま意識を失った。

細胞の崩壊が緩やかに進んでいるが、
医師にも原因は分からない。

『クロニウム』

夢の最後に、
必ずその単語が脳に焼き付くように浮かび上がる。

大地は冷たいガラスに額を押し当てた。

妹の細い腕には、何本ものチューブが繋がれている。

これ以上待てば、
このまま消えてしまうのではないかという焦燥感だけが、
大地の背中を押していた。

翌朝、大地は古い雑居ビルの地下にいた。

文献を漁り、
唯一クロニウムの特性について言及していた元大学教授
・韮山健太郎の民間研究所だ。

むき出しのコンクリートの部屋には、
サーバーラックが立ち並び、
冷却ファンの重い音が響いていた。

部屋の中央には、
分厚いアクリルガラスで覆われたカプセルが置かれている。

「メールの件か」

モニターから目を離さず、
白衣の上にカーゴベストを着た男が言った。

韮山は振り返り、
大地の顔を見てわずかに眉を動かした。

「……ひどい顔だな。
毎晩、見てるんだろ。
爬虫類が炎に焼かれる夢を」

大地は息を呑んだ。

夢の内容は誰にも話していない。

「クロニウムは、
時空の記録層の破片だ」

韮山は淡々と、
事実だけを並べるように言った。

「妹さんは今、
宇宙に蓄積された別の時代の出来事を
無限に受信し続けている。

情報量が多すぎて、
脳がシャットダウンしている状態だ。

そしてあんたは、
妹さんとの量子的なリンクを通じて、
そのおこぼれを夢として見ている」

「……どうすれば、
あかりは目を覚ますんですか」

「受信を止めるには、
送信側の根本——
歴史に刻まれたエラーを修正するしかない。

俺のカプセルを使えば、
過去へのアクセスが可能になる」

韮山はカプセルのハッチに手を置いた。

「まだ仮説だ。保証はない。
だが、それしか道はない」

大地はカプセルと、
韮山の疲労しきった目を見た。

疑う余地はあった。

しかし、あかりのベッドの横で
何もできずに座っていることのほうが、
大地にとっては耐え難い恐怖だった。

「……やります」

大地が実験着に着替え、
カプセルに横たわった直後だった。

——ガンッ!

鈍い衝撃音と共に、
分厚い防爆扉が内側にひしゃげた。

粉塵の向こうに、
五つの人影が立っていた。

継ぎ目のない純白の完全密閉スーツ。

バイザーの奥で、
縦に割れた黄金色の瞳孔が光っていた。

夢で見た、あの目だ。

彼らは一言も発さなかった。

警告も、要求もない。

先頭の一人が無言で筒状の武器を構え、
青白い閃光がコンソールの脇を焼き飛ばした。

「未来へ行け!」

韮山が叫ぶと同時、
カプセルのハッチが強制的に閉じられた。

床の鉄板がスライドし、
カプセルごと大地は
暗い地下空間へと落下していく。

強烈な冷却ガスが噴き出し、
視界が白く染まる。

肺が凍りつくような痛みの後、
大地の意識は急激に暗闇へと落ちていった。

どれだけの時間が経ったのか。

カプセルのハッチを内側から蹴り開けた時、
大地の肺を焼いたのは、鉄錆と乾いた土の匂いだった。

「ゲホッ……!」

這い出した先は、
韮山の研究所ではなかった。

天井はなく、
斜めに崩れ落ちたコンクリートの梁の間から、
鉛色の空が見えた。

足元の瓦礫を踏み越え、地上へ出る。

そこには、赤黒いスモッグが立ち込める荒野と、
地平線の彼方にそびえる黒曜石のような塔群があった。

乾いた喉を抱え、
大地は塔群の方向へと歩いた。

やがて舗装された道路に出ると、
同じ色のくすんだ作業着を着た人間たちの列があった。

誰も言葉を交わさない。視線を合わせない。

彼らの後頭部には、
皮膚に直接刻まれたバーコードが見えた。

街角には、研究所を襲撃した
あの白いスーツの兵士が立っていた。

(ここは……いつだ?)

大地が俯いて歩みを進めようとした時、
不意に機械的な電子音が鳴った。

『…不適合者…!
…認識タグを確認できません…!』

兵士のバイザーが大地を捉えた。

銃口が向けられる。

大地は反射的に瓦礫の山へ向かって走り出した。

背後で警報が鳴り響く。

しかし、作業着の人間たちは
誰一人として大地を助けず、
パニックを起こすこともなく、
ただ機械のように道を空けて立ち尽くしていた。

足を滑らせ、瓦礫の間に転がり込む。

兵士が迫る。

万事休すかと思われた瞬間——
足元のマンホールの蓋が吹き飛んだ。

飛び出してきたレザージャケットの男が、
兵士の足元に銀色の筒を転がした。

強烈な閃光と甲高いノイズ。

兵士が体勢を崩した隙に、
男は大地の手首を掴み、
マンホールの下へと強引に引きずり込んだ。

暗い地下水路を抜け、
分厚い隔壁をいくつか開けた先に、
その空間はあった。

天井を無数のケーブルが這い、
様々な服を着た人間たちが
武器の手入れや通信機器の操作を
黙々と行っている。

「座れ」

男はパイプ椅子を蹴り出し、
自らもデスクの端に腰掛けた。

「俺は藤堂だ。
あんた、韮山の所から来たな。
その服は百年前の規格だ。」

「百年……」

大地は壁に貼られた古びた地図の端を見た。

『2136年』と手書きの文字がある。

藤堂は薄いコーヒーをカップに注ぎながら、
事実だけを簡潔に並べた。

「地上の連中は、
人類の歴史を裏から乗っ取った存在——
俺たちは『レプティリアン』と呼んでいる。

奴らが権力の中枢に入り込んだ十四世紀の分岐点を、
俺たちは探り当てた。」

部屋の奥に、
青白く発光するリング状の機械があった。

「韮山の基礎理論から組み上げた、
未完成のタイムマシンだ。

だが、この時代の人間は
すでに奴らの因果に取り込まれているため、
過去を変えに行けば
パラドックスで存在が消滅する。

だから、因果の縛りがない
百年前の人間が必要だった。」

大地はリングを見つめた。

「……俺が過去へ行けば、この世界は変わるのか?」

「ああ。根本のエラーが修正されれば、
あんたの妹の脳への負荷も止まるはずだ。」

藤堂は嘘をつかなかった。

「だが、確証はない。
そして、俺たちの存在がどうなるかも分からない。」

大地は目を閉じた。

恐竜の夢、韮山の死、
そして後頭部にバーコードを刻まれた
感情のない人間たちの列…。

ここで断れば、
自分はあの列に並ぶか、
処理されるかのどちらかだ。

そして何より、あかりが死ぬ。

「……何処へ行って、何をすればいい?」

大地が目を開けて問うと、
藤堂は静かに頷き、
一着の修道士のローブと
小型のデバイスをテーブルに置いた。

「十四世紀のヨーロッパ。
中世の修道院に潜り込んだ奴らの足がかりを潰せ。
細かい指示は出せない。
現場で、あんたの目で見て判断しろ。」

専門家の用意したシステムと指示。

大地はローブを手に取り、
青白い光を放つリングへと歩みを進めた。

この時はまだ、
言われた通りに動けば妹を救えるのだと、
無意識のうちに信じ切っていた。

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